第24話 「月に映る決意」
皆様、いつも本作をお読みいただきありがとうございます。
ついに来ました、決戦前夜。静香の中で芽生えた新たな力と、その意味について描いた一章です。前回の猪の守護獣の登場から、さらに深まる摩利支天の力の謎と、静香自身の変化が描かれています。
不忍池での決戦を前に、静香の決意はいかに——。どうぞお楽しみください。
1.「鏡に映る変化」
静香は月暈に照らされ、不忍池のほとりに立っていた。
水面に映る二重の光の環が波打ち、やがてその中からお咲の姿が浮かび上
がる。少女の顔には見たこともない恐怖が刻まれていた。
「姉さま、怖いわ……助けて」
囁く声に応えようと足を踏み出した時、大きな波紋が広がり、お咲の姿が
霞んでいく。代わりに映し出されたのは、苦悩に満ちた表情の
神楽院真央と、その背後に立つ東王公の冷笑だった。
「お前の力では、誰も救えぬ…… 」
東王公の声が闇に響き、静香の胸を締め付ける。突如、水面から無数の手が
伸び、彼女の足首を掴み引きずり込もうとする。
静香は息を切らして目を覚ました。
訓練所の窓から差し込む月明かりが、冷たく部屋を照らしている。全身は汗
で濡れ、心臓は早鐘を打ち続けていた。喉の渇きを潤そうと茶器に手を伸ば
した瞬間、彼女は自分の指先が微かに光を放っていることに気づいた。
昨日まで見慣れていた自分の手とは明らかに違う。淡い琥珀色の光が指先
から漂い、それは夢で見た月のようにおぼろげだが、はっきりと視認できる。 この光は薄暗い部屋を僅かながらも暖かみを与え、悪夢でささ
くれた心を不思議と落ち着かせていた。
静香は冷めた茶を一口啜り、渇いた喉を潤した。香ばしい茶葉の香
りが鼻腔を通り抜け、現実感を取り戻させてくれる。枕元にあった手鏡を
取り上げ、自分の顔を覗き込み、思わず息を呑んだ。
鏡に映る自分の瞳は微かに金色に輝いている。肌には光の粒子が
漂う、星々が彼女を慈しみ慕うように取り巻いていた。もはや昨日までの
樽屋静とは、どこか違う存在へと変わり始めている自分がそこにいた。
「なんだ……お前さん、ず、随分変わってきたな」
静香の耳元でサルタヒコの声が響いた。今までお守りからしか聞こえなかっ
たその声が、心の奥から直接語りかけてくるように感じられる。
「そうね。何だか、サルの存在もずっと身近に感じるようになったわ」
胸元のお守りを両手で包み込むと、温もりが静香の掌から体全体へと広がっ
て行くのを感じた。昨日の戦いで目覚めた力は、彼女の中にしっかりと
根付いている。
ふと視線を落とすと、畳の上をちょこまか動き回る小さな姿が目に入った。
しましま模様の小さなうり坊が、月光かりに照らされて淡く光っている。
昨日の巨大な守護獣とは比べものにならないほど小さいが、確かにあの猪
の仔だった。
「しかもこの――」
静香は指先でうり坊の背中をそっと撫でながら、不思議そうに言葉を継いだ。
「妖精みたいな、うり坊? が気になって仕方ないわ。いつの間に現れたのか
しら」
うり坊は静香の指先を嬉しそうに鼻で突き、クルリと一回転した。愛らしい
仕草に思わず微笑みが漏れる。
「ははは、かわいらしくてお似合いだぞ。だが、お前さんを守ってくれる
心強い仲間だよ」
サルの声には、珍しく誇らしさが混じっていた。このサルの言葉に、昨日の
戦いの記憶が鮮明に蘇った。七頭の巨大な猪に囲まれ、敵を打ち破った時。
あの瞬間感じた恐れと興奮が、今も体の奥に残っている。
「でも、あの時は自分が呑み込まれるような……怖さもあったわ」
正直に告げる静香の言葉に、サルタヒコは優しく応える。
「摩利支天の本質は変化を受け入れること。変わりたくないと抗えば力に飲ま
れる。お前さんはよくやってるよ」
静香は鏡をもう一度覗き込み、自分の変化した姿に戸惑いながらも、確かな
強さを感じていた。『変化を受け入れる』その言葉の意味がようやく腑に
落ちる。
「東王公は永遠を求め、固定している。だから神楽院真央も苦しんでるのね」
彼女の頭には、夢で見た真央の苦悩に満ちた表情が浮かんでいた。『変化』
と『永遠』この二つの力が、明日の決戦の鍵を握っている。
「まあ、そういう事だ」
サルの声は落ち着いていた。しかし次の問いは真剣さが滲んでいた。
「明日、お前さんはどうする? 」
月の光が静香の顔を照らし、彼女の決意を映し出していた。目の前のうり坊
がクルクルと回り、彼女のそばにピタリと寄りそう。
「私は……私のまま。でも、変わり続ける」
その瞳に、もう迷いはなかった。
金色の光が一瞬強く輝き、部屋を明るく照らした。
2. 「型破りの道」
「お静、具合はいかがかな? 」
起きた気配がしたのか、障子越しに久兵衛の声が響いた。
「ええ、もうすっかり良くなりました。ご心配おかけします」
静香は声に力を込めて応えた。体の芯はまだ重く、戦いの疲れが残っていた
が、それを悟られまいとした。
「そうか、それは良かった。小太郎は今体を動かしておるが、そろそろ戻る
頃だ。腹が減っていれば、握り飯がおいてあるのでとると良いぞ」
「ありがたく存じます。では、後ほど…… 」
談話室に入った静香は、用意された食卓に近づいた。すると、表から戻って
きた小太郎と目が合った。汗で濡れた額には朝の修練の跡が残り、その姿
からは引き締まった緊張感が伝わってきた。
「お静、もう大丈夫か? 」
小太郎の声には安堵が混じりつつも、その眉間には深い皺が寄っていた。
「しかし、何か様子が変わったようだが…… 」
小太郎の鋭い目は静香の全身を見つめ、その変化を観察していた。確かに
うっすらと琥珀色の光が静香の指先から漂っている。
「ええ、先ほど戦いの中で力の使い方を変えたら、こうなっていまして……」
静香は少し戸惑いながら答えた。
「なるほど、一筋光が通ったということか」
小太郎の目は厳しくも理解を示していた。
「この先いくつも筋が見えて来るかもしれんが、呑み込まれんようにな」
「はい…… 」
返事と同時に、なぜか静香は神楽院真央と対峙した時の彼の目を思い出した。 (あ、真央は力に飲まれていた…… )
思い詰めていると勘違いした小太郎はさらに続けた。
「執着が強すぎるが故に、力に飲まれるのではないか?」
小太郎は静香の前に座り、率直に印象を語った。
「武術は型をもって、心を無にすることが出来る。お静の術は型破りぞ。一度
無にできる筋を模索することだ。さすれば、型破りを己のものにできるで
あろう」
静香の中で何かがはっきりと結びついた。戦いで現れた七頭の猪、そして
部屋で見たうり坊。それらは単なる力の表れではなく、自分と摩利支天を
繋ぐ道だったのだ。
(それか! 執着の薄い私と、強い真央の違いは…… )
「ありがとうございます。少し筋が見えたかも知れません」
握り飯にかぶりつくと同時に、静香はニコリと笑うことが出来た。
口に広がる素朴な甘みと香ばしさが、彼女の決意を固めるように心を
満たしていく。
「ところでお静、先ほどの戦いと申しておったが、それは昨日のことだ」
小太郎の言葉に、静香は手を止めた。
「おぬしは、丸一日寝ておったのだ。今日が戌刻の約束の日だ」
「えっ! 」
彼女は飛び上がるように立ち上がった。握り飯を口に詰め込みながら、
「そ、そうすると急いで不忍池に行かないと……みんなは? 」
「千代婆と六は昨日から準備に出て、百合と半次もつつがなく事を進めておる
だろう。後は奉行所がお咲を上手く見つけ出してくれると良いが…… 」
小太郎は落ち着いた様子で静香を見つめた。
「お静、すぐに出るぞ。おぬしの体が治るのを待っていたのさ」
窓の外では、朝日が高く昇り、訓練所の影を短くしていく。いよいよ
決戦の日が来たと知り、静香は心の中で仲間たちの無事とお咲の救出を
祈った。
膝元で小さなうり坊がくるくると回り、彼女の気持ちに呼応するかのよう
に嬉しげに鳴いた。小太郎の目にはそれが見えていないようだったが、静香
にはかわいらしくて、心強く頼もしく見えた。
それは今日の戦いに向けた、新たな力の予兆だった。
次回はいよいよ不忍池での決戦編となります!静香と神楽院真央、そして東王公との三つ巴の戦いがどう展開するのか、ぜひご期待ください。
【お知らせ】
サブストーリー『三味線の調べと追想 〜百合の物語〜』を noteで有料公開しています。
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本編をより深く楽しみたい方は、ぜひご覧ください。
note: https://note.com/jizoemma/n/n652a4cf49f91
次回更新をお楽しみに!