第23話 「猪の守護」
前回まで物語を追いかけてくださっている皆様、そして新たに出会ってくださった読者の皆様、
こんにちは!
今回の第23話「猪の守護」では、静香の力が新たな段階へと進化する瞬間を描いています。これまで何度か摩利支天との繋がりや「陽炎の力」について触れてきましたが、ついにその力の一端が具体的な形となって現れます。
静香が自分の内に眠る力とどう向き合い、どう変化していくのか…物語の核心へと一歩近づく展開をお楽しみください!
1.「塗り替えられる戦局」
鉄の城塞と化した訓練所に、朝日が差し込む。塀や垣根が黒びた金属に染め
られ、ところどころ、昇る光を鈍く反射していた。陰陽師の表情はうかがい
知れず、手に握られた扇に淡く浮かぶ紋様が次第に強くなる。
「亀の紋様と六芒星の陰陽符。多彩な術を使うのね」
余裕のある表情を作りながらも、静香の内心は不安が増すばかりだった。
向かいの男が穏やかな口調で返す。
「ほう、見ただけで分かるとは。やはり噂の陽炎の力か……」
白地に紺の狩衣に身を包み、腰に差した笏を撫で
ながら、余裕の瞳を光らせる。
体中に巡る陽炎の力は限界に達しつつあった。鉄の防護壁を維持するだけ
でも体が重くなり、額には汗が滲み、手足には微かな震えが走る。
「お静、お前さん限界だろ? 」
風に乗って、千代婆の声が届く。師匠の察しは的確だった。
「大丈夫です。師匠……まだ行けます」
そう返す静香の言葉に、小太郎と百合が視線を交わす。二人は頷き、意志を
通わせた。百合は弦を「三下がり」に調弦し、小太郎はそれに合
わせ、太鼓の麻紐を締めた。
その様子を見計らったように、向かいの術者が素早く腕を振り、扇を開
いた。六芒星の紋様が青白く光り、式符が、扇ぎ舞い上がる。
「幽魂顕現の法! 」
舞い散った紙片は、徐々に膨らみ始め、形を変えていった。狸、犬の姿に。
ある者は侍の姿を纏い、その顔には苦悶の表情が浮かぶ。
「悔恨を残したこの辺りの魂を呼んだ。さあ! ここで恨みを晴らす
が良い! 」
ついに実体化した妖が襲いかかる。爪を、牙を剥き出し、静香
を引き裂こうとする。術者の口元に浮かぶ笑みに、勝利の確信が見えた。
「ドドン、カンカン、ベベンベンベンベン」
乾いた音が空気を震わせる。百合の三味線と小太郎の太鼓が鳴り響き、呼び
出された怪異の動きが一瞬止まった。弦をかき鳴らすたびに幽鬼たちの動き
は遅くなり、打楽のリズムが化け物を乱し、よろめく。
しかし、その効果は一時的なものに過ぎなかった。召喚された怪異たちは
実体化したがゆえに、半次の毒玉や閃光玉が効いた。怪物たちは閃光に
怯み、毒の霧に包まれると息苦しさから、動きが鈍くなった。
「さあ、もっとだ! 」
更に多くの式符が術者の手から放たれ、次々と宙を舞う。新たな妖が現れる
度に、静香たちの包囲網は狭まっていった。
「召喚する前に燃やしちゃった方が早いわね! 」
なけなしの力を振り絞り、静香は手裏剣に陽炎の力を込めた。紙を取り出し
た直後、それに向かって投げる。炎を纏った手裏剣は式符を貫き、
燃え上がらせていった。
お互いの攻防は一進一退。しかし、静香の体力は着実に削られていく。
百合の三味線と小太郎の太鼓が織りなす音の壁も、徐々に押されてきた。
ついに、静香の膝が地面に落ちる。体は鉛のように重い。敵はその様子
を見逃さず、
「終わりか? 」
と嘲り、今にも高笑いしそうな様子で、式符を次々振りまく。
妖達の爪が静香に迫った瞬間、風に乗って甘く芳しい香りが漂ってきた。
静香の鼻腔を通り抜け、頭の中に染み渡った。
「この香は伽羅と桜と……お線香? なんで? 」
花と香木の混ざった香りは、忍者達の間では「安全、そのまま進め」を意味
する合図だった。しかし、それに混ざる第三の香り――仏に供える香には、
通常の情報伝達とは異なる意味があるはず。後方で香を焚いている千代婆は
何を意図しているのだろうか?
静香の意識が急に明瞭になった。瞳孔も開き、空気の流れまで感じ取れる
ほどの覚醒状態になっていた。耳には半次の呼吸音、百合の弦を弾く指の
震え、小太郎の太鼓を打つ手首の動きさえ鮮明に聞こえた。
それは、静香の中で眠っていた何かを呼び覚ましたのだ。
「な、何だこの気配は…… 」
陰陽師の余裕に初めて乱れが生じた。
2. 「眠れる守護獣」
耳の奥で、「シャンシャン」と遠くで鳴った。静香は最初、その音が何なの
か分からなかった。恐怖と疲労で思考が霞む中、必死に記憶を手繰り寄せる。
千代婆の焚いた香――伽羅と桜に混じる線香の香りが、静香の意識の
深層へと染み込んでいく。その刹那、摩利支天寺で見た仏具の記憶が
蘇った。お坊さんが錫杖を地面に打ち付けながら歩く姿、
その先端の輪が鳴っているのが、今、耳の奥で共鳴しているのだ。
「シャン、シャン」
さらに、杖の先の遊環が奏でるその音は、摩利支天寺で見た
掛け軸を想い出させた。七体の猪の上に座る女神の姿。そして、サルタヒコ
が語った言葉。
「帝釈天と阿修羅の戦いに巻き込まれた俺と猪を助けてくれた時に、あの
三面の姿になったんだ……」
百合の三味線、小太郎の太鼓、そして千代婆の香。これらは偶然の組み合わ
せではない。静香はふと閃いた――千代婆はこの状況を予見していたのだ。
仏に供える線香は摩利支天への祈りであり、三味線と太鼓は古代からの儀式
の音。三者が揃うことで、静香の内なる陽炎の炉に風を送り込む。
静香の内側で何かが沸き立つ。骨の奥まで震える熱が走り、血が煮えたぎる
ような感覚。「たたら鉄」を作り出す工程そのものが、彼女の体内で起きて
いるかのようだった。
感覚は鋭く熱く、明瞭になり、怒りや恐れでは無い別の感情が燃え上がって
いく――守護の意志。仲間を守りたいという純粋な願いが、静香の全身を
支配していた。
熱を帯びた大気が、周りを包み込む。炭のように真っ黒な中、所々近寄り
難いマグマを思わせる赤い熱が、フツフツと泡立つ。
(私は、私はみんなを守るために、もっと、もっと……)
「わざわざ明日まで待つ必要も無いようだな。不忍池で決着をつけるつもりだ
ったが……陣の風! 」
扇が再び振られ、先ほどまでの余裕に満ちた表情が消え、焦りに変わる。
鉄壁と化した訓練所の中で予想外の事態に、焔影一族の計画が崩れる予感を
感じたのだろう。烈風が巻き起こり、百合と小太郎を吹き飛ばそうとする
風の中、二人は必死に踏みとどまる。明日の果たし状による罠が、今ここで
予想外の形で展開し始めていた。
「フーッ…… 」
静香の吐く息を合図に、体から淡い光が放たれた。最初は纏うよう
な粒子、それが急速に形を成し始める。光は彼女を中心に渦を巻き、七つの
円状の環となって周囲を取り巻いた。
一瞬の閃光。
目を開けると、そこには七体の獣が静香を守るように立っていた。
太い胴体、鋭い牙を剥き出しにし、地面を打ち砕かんばかりに逞しい蹄が
震える。淡い琥珀色の光を纏った守護霊たちは、まるで仏画から抜け出して
きたような神々しさを放ち、その剛毛は静香の呼吸に合わせて波打って
いる。
そして静香自身も変容していた。瞳には人間のものでは無い、獰猛で鋭く
輝く黄金の光が宿り、陰陽師を射抜くように注がれる。彼女の周りには
薄く光の環が七重に広がり、猪たちとの繋がりを視覚化するように脈動
していた。
摩利支天の眷属……光の獣の姿が、今、現実に顕現したのだ。
「こっ、これは! 」
敵の余裕の表情が崩れた。
静香の周りに現れた光の獣、その姿を見た生きとし生けるものが
畏れ、妖たちもたじろいだ。
守護の霊獣たちが一斉に動き出すと、まるで百戦錬磨の軍団を思わせるほど、 息が合い、鋭い牙を剥きだし、疾風の如く彼らを打ち砕いていく。
「バシッ! バシッ! 」
という破壊音と共に、妖たちの体は四散し、紙片は粉々に散った。朝日に
照らされたそれらは、桜吹雪が美しく舞い上がり、静香の勝利を祝福するか
のように降り注ぐ。
「そ、そんな……これが陽炎の力か! 」
じりじりと、後ろに下がる焔影一族。また、仲間たちもこの畏れに足が
すくみ、体が動かない。
静香は、意識が奪われそうになりながらも、ここで状況を変える必要
があることを思いつく。
「師匠、私が引きつけておくので、ここから町へ……」
静香の言葉にハッとした千代婆は、力強く頷き、宿舎に向かって、
「政五郎、六、行くぞ! 」
その言葉に奉行方の二人は即座に反応した。彼らの身を守るように、一頭の
守護獣が素早く寄り添い、彼らの退路を確保していた。警戒する陰陽師の
視線を引きつけるため、神々しき獣影たちは更に激しく行動を開始……静香
の周りを 疾走し、地面を揺るがせる。
その動きは、まるで明日の決戦に向けた布石のようだった。
3. 「陰陽師の選択」
獣の瞳は黄金の炎を燃やし、鍛冶炉と化した体は、まるで猪の意志に
よって動かされている感覚がある。静香はそれに戸惑いを覚え、陽炎の力
が自分を呑み込み、自分が消えてしまう恐怖を感じた。
「私は……私のままで…… サル、力を貸して! 」
胸元のお守りが熱を帯び、静香の耳元でサルの声が響いた。
「驚きだな! 摩利支天の猪を呼び出すとは……それより、このままだと力に
飲まれちまうぞ。これまでと同じように変化するんだよ。力に支配されるん
じゃなく、力と共に変化するんだ! 」
その言葉が、霊獣の意志に押し流されそうになった静香の意識を引き戻し
た。彼女は自分の中で渦巻く猛々しい力を感じながらも、それを押さえ込む
のではなく、共に流れるように気持ちを集中させた。
それが摩利支天の本質……変化を受け入れること。
静香の心が落ち着くと、光りを纏う守護者たちの動きも一瞬穏やかになり、
彼女の意志に呼応するように整然と並んだ。七体の猪は今や静香の延長と
して、彼女の思考と一体化していた。
静香は手を前に突き出し、意志の力で獣を導く。まるで古代の神々が眷属を
従えるように……
猪は妖を破壊し吸収する。百合と小太郎の奏でる音は敵の素早さを殺し、
そこを静香の指揮する守護獣が足下にダメージを与える。
敵の機動力はどんどん落ち、動きが緩慢になっている。術者はありと
あらゆる術を駆使するが、その全てを猪が追いかけ回し、取り込む。
「い、いかん 残念だがここまでだ。引くぞ! 」
敵の忍も陰陽師もここまで追い込まれるとは思いもしなかった。
既に奉行方の二人と千代婆は脱出し、明日を待たずして静香を連れ去る
目論見は見事に打ち砕かれてしまった。
男は後退しながらも、静香に向かって声を投げかけた。
「その力……思いのまま使い続けるが良い。しかし、不忍池で神楽院殿の
『月の光』と対峙した時、その体はもう保てぬぞ」
それは負け惜しみとも、予言とも取れる言葉だった。その目には、今日の
敗北を超える何かへの確信が宿っていた。
「本日の拙い式神繰りは、明日に備えた口開きに過ぎぬ……」
焔影一族が背中を見せ、後退していく姿を見せると、静香の体から獣の姿
は消え、黄金の瞳も元に戻っていた。しかし、一度目覚めた力の感触は、
彼女の中に確かに残っていた。これが摩利支天の力の一部なのだと、静香は
確信していた。
一行はようやく力を抜くことが出来た。静香は大きく息を吸い、肺いっぱい
に空気を取り込む。たたらの炉は落ち着きを見せ、じわりと灯るが、体は
重く、疲労が一気に押し寄せてきた。
「お静、大丈夫か? 」
半次の心配そうな声に、静香は微かに頷いた。
「ありがとう……みんな……」
その言葉を最後に、静香はその場に崩れ落ちた。百合が駆け寄り、静香の体
を支える。
「気を失っただけです。無理もない、あれだけの力を…… 」
百合の言葉は、驚きと敬意が混じっていた。静香の見せた守護の力は、彼女
の想像を超えていた。
「それにしても、あれは一体…… 」
小太郎はそう口ごもり、半次と顔を見合わせる。静香の周りに現れた猪の姿
は、彼らにとっても初めて見るものだった。
「さあ、なんとも……だが、千代婆の香がきっかけになったのは間違いない」
半次は明るくなった空を見上げ、眉間に皺を寄せながらそう言った。
「ともかく、宿舎にお静を寝かせて、百合と半次は不忍で船を頼む」
少し疲れの残る顔をした百合は頷き、もう一度敵の去った方角を見ると、
まだ朝日が昇って間もない、そして戦いはまだ始まったばかりなのだと
思い出し、ため息をついた。
「猪の守護」をお読みいただき、ありがとうございました!
今回はついに静香の中に眠っていた摩利支天の力の一部が明確な形となって現れましたね。七匹の守護獣・猪の姿は、摩利支天寺で見た掛け軸の神の姿と繋がっています。サルタヒコの言葉「力に支配されるんじゃなく、力と共に変化する」は、この物語のテーマでもある「変化」を表しています。
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次回、第24話では不忍池での決戦が始まります。静香の新たな力と「月の光」との対決、そしてお咲の救出…クライマックスに向けて物語は加速していきます。引き続き応援よろしくお願いします!