第18話「灰燼からの舞台」
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今回は歌舞伎興行を舞台に、ついに東王公の野望が明らかになります。
神楽院真央の正体、そして月姫として現れる彼の存在。
静香たちの前に立ちはだかる永遠を求める者たちの企みを、お楽しみください。
それでは、第18話「灰燼からの舞台」、始まります!
1.「仮初めの舞台」
夜の帳が下りる頃、提灯の明かりが桟敷の回りに連なり、
その垂れ絹を押し戻すかのように仄かな光を放って、焼け跡の
黒々とした瓦礫の上に不思議な影を落としている。
焦げた木材の匂いが漂う中にも、新たな華やかさが仮初めに塗り重ね
られていた。
数日前、九郎助稲荷付近から燃え上がった炎は、その近辺一帯を舐める
ように広がっていった。あの夜、静香の失策による爆発で拡大を免れた
ものの、炎の爪痕は深い。
吉原の仲の町周辺は無事だったが、被害に遭った周辺の妓楼や茶屋は
焼け落ち、商人たちの活気も失われていた。
そんな街に、突如として現れた歌舞伎の仮設舞台。華玉楼の主催による
吉原復興の芝居興行は、人々の心を惹きつけていた。舞台は本来の芝居小屋
と見紛うほどの立派な造り。檜の新しい香りが、人々の落胆を
振り払おうとするかのように、爽やかに漂っている。
「これが仮設とは思えねぇな。さすが神楽院勘三郎様だ」
「噂じゃ、自分の懐を痛めてまで寄付なさったとか」
見物人たちの話し声が、夕暮れの空気に溶けていく。その中を、三味線を
抱えた百合が楽屋へと向かう姿があった。
(吉原復興なんてきれいごとの裏で、一体何を企んでるのかしら……)
彼女の冷静な瞳は、何気なく客席の方へ向けられる。そこには、千代婆に
寄り添う半次と小太郎の姿。二人は見物人に紛れながら、さりげなく周囲の
様子を窺っていた。小太郎は町人風の装いで、半次は笠を目深に
被り、まるで旅の商人のように見える。芝居見物という建前で、緊迫した
空気を隠している。
仮設とはいえ、桟敷の特別席が設けられた舞台。そこにはまだ誰の姿も
ない。しかし、程なくしてその場所に座るはずの「玉響」こと静香の力が、
今宵の芝居の行方を大きく左右することを、誰もが予感していた。
2.「月の舞」
特別桟敷には、吉原の華が咲き誇る光景が一望出来た。
玉響を中心に、和泉屋の青葉、越前屋の小蝶など、錚々たる花魁たちが
艶やかな着物を纏い、上品に扇を操る。秋の色付きが、この歌舞伎興行を
祝うかのように、夜風に香を漂わせていた。
静香は玉響として自らの座から、舞台の準備に忙しい下働きの者たちを
見下ろしながら、昨日の摩利支天寺での出来事を反芻
していた。サルとの会話が、今宵の出し物に何か関係があるのではないか
という予感が、背筋をざわつかせる。
「姉様、始まりますよ」
玉響お付きの禿として、隣に座るお咲の小声に、ふと我に返る。
舞台では華玉楼主の楊慶徳が、どこか気負いすぎた様子で
挨拶を始めていた。
「皆サン、今日アリガトウゴザイマス。吉原、元ニ戻ス。勘三郎サン、
助ケルヨ」
楊の言葉を補うように、付き人が高らかに宣言する。
「この度の興行は、神楽院勘三郎様の御恩顧を賜りまして催されまする。
さて、本日の舞台にて御覧に入れますのは、皆々様お待ち兼ねの『月姫』
にござりまする!」
その言葉に観客の期待が一気に高まるり、その後、すぐ冴え渡る
柝の音が辺りに響く。
「チョン、チョン」
緞帳が開く瞬間、静香の鼓動が僅かに早まる。三味線の音が静かに
響き始め、それは次第に力強さを増していく。
「ヨーッ。ベベンベン」
幕が開くと同時に、一陣の風が舞台を吹き抜けた。提灯の明かりに照らされ
た舞台に、鈴の音と共に『月姫』の姿が浮かび上がる。赤い晴れ着は、
まるで血に染まったかのような鮮やかさで、黒い帯には花札の
「芒に月」の意匠が幾つも刺繍されていた。その姿は、人間離れ
した気品を纏っていた。
「花の外には松ばかり……」
「ヨッ! 月姫」
「月姫さま~」
至る所から歓声が上がり、周りの花魁たちからも羨望の吐息が漏れる。
その優美さは、かつての玉菊の伝説すら凌駕するかのようだった。
「手踊り」「鞠歌」「振り出し笠の段」と進むにつれ、『月姫』の早替りの
見事さに観客は息を呑む。全身白く染まった姿は、まるで月光そのものが
人の形を取ったかのよう。「山づくし」「鈴太鼓の踊り」では、すでに
観客は恍惚の境地にあった。
百合の三味線の手付きが、少しずつ変調を来し始める。表から聞こえる
観客の物言いも、どこか普段とは違う。静香は、お咲の肩に手を置いて
ささやいた。
「何かおかしいわ。気を付けて」
ついに、演目は正念場、「鐘入り」へと移る。しかし、それは
歌舞伎とは思えない激しいリズムを刻み始めた。百合の額には玉の汗。
笛の音は狂ったように高く、耳の奥まで震わせる。
突如、舞台の坊主たちが拍子木を打ち鳴らし始める。
「カッカッカッカッ、ダッダッダッダッ」
その音は人々の心を捉え、魂を揺さぶる。男たちの声が交互に響き渡る。
「チャッチャッチャッチャッ、チャッチャッチャッチャッ」
観客の体が一斉に揺れ始め、目は半開きのまま、まるで催眠術にかかった
かのように、一方向に回り始める。百合は三味線を取り落とし、その渦に
巻き込まれそうになる。
(これ、聞いたことあるわ。たしか「ケチャ」のリズム……バリ島の……)
静香の脳裏に、前世の記憶が走る。その時、月姫は釣鐘の上に立ち、傲然と
笑みを浮かべた。その体から紫色の影が幾筋も伸び、みるみる白い鱗へと
変化し、文字通り蛇となって釣鐘に絡みついていく。
すでに玉響を装っている場合ではなくなった静香は、咄嗟に立ち上がろうと
したが、お咲も周囲の花魁たちも、すでに月姫の舞に心を奪われ、異変に
気付く前に渦の中に吸い込まれていた。
観客も桟敷の花魁たち、果てはお囃子の者たちも体を揺らし、鐘の方を
見つめる。すると白い蛇の横から、紫の霞とともに東王公が現れた。
その姿は、かつて見たこともないほどの威圧感を放っていた。
「願う者よ! 汝らを導き連れて進ぜよう、所詮は仮初めの世。見るがよい、
我が永遠の姿を! 我こそは蓬莱山の主、東王公。永遠の命を持つ者なり。
この世界の真の支配者としてここに降臨した」
紫の光の中で、東王公が若く華やかな姿に変化する。その存在感は、人知を
超えた何かを感じさせた。
(あっ、あれが地下のアヘン窟で聞いた声……東王公)
霞むような意識の中で、目の前の異変を静香はしっかり目に焼き付けよう
とする。しかし、体はますます重く、意識は遠のいていく。
「人は誰しも、死を恐れ、老いを憎む。だが我が教えを受け入れよ!
蓬莱の霊水を飲み、不老不死の肉体を得るのだ! 江戸の火事も病も、
すべては我らが永遠の力の前では塵芥に過ぎぬ!」
その声を聞いた者は魂を揺さぶられ、その姿を認めた者は、跪き、両手を
天に挙げ東王公を仰ぎ見る。
「我が僕たちよ、喜び溢れる夜を更に昇華しよう。其所
に居る下賤の者、『玉響』を我に捧げよ。然すれば汝らも吉原も
救われよう」
東王公の言葉に感化された観客たちが、生き血を吸われたかのように、
青白い顔で立ち上がり、夢遊病患者のように目は虚ろで、我を忘れた
ように静香に近寄る。
「さあ下れ! 玉響! 汝もまた永遠の命を持つ者となれ! 」
百合は東王公の言葉を聞きながらも、金縛りから必死に抜け出そうと
もがいていた。目の前に転がる三味線に手を伸ばし、何か手立てがないかと
足掻いているうちに、ひょんなきっかけで簪が三味線の上に
落ちた。
「ボーン」
その軽い音が、百合の縛りを一瞬解いた。彼女は即座にその変化を感じ
取り、思考する間もなく、力一杯弦を弾く。
「玉響! 」
百合の声が響き、静香の金縛りも解ける。すぐ横のお咲の手を取り、
「お咲! しっかり! 」
もう一度、手を強く掴んだ静香だったが、まだお咲の表情は虚ろなままだ。
それもそのはず、気が付けば辺りはアヘンのきつい匂いと煙で満ちている。
その瞬間、不意に冷たい嘲笑が響いた。
「逃げようったって、そうはさせねぇよ」
それは神楽院真央の声。カッと目を見開いた静香は、釣鐘の上に昇る白蛇の
様子に変化した月姫を睨めつける。これまでの全ての謎が繋がった。
「あんた……あんただったのね」
「ああ、そうさ、仲間に挨拶は必要だろ? 」
真央の遠慮がない言い草に静香の眉間に皺が寄る。
「お前は、もうこちら側だ。月姫と玉響、吉原が永遠となる日も近い」
東王公の言葉と同時に、月姫から白い触手が静香に百合にお咲に巻き付き、
強い力で体を締め付けた。
「キャー」
突如自分の状況を呑み込んだ三人は、必死に逃れようとあらゆる抵抗を
試みる。お咲は、またしても自分が足手まといになっているのが悔しかった
(また、私何も出来ないのかしら? 何も出来ないじゃない!
もう、これじゃ火事の時と一緒じゃない……火事? )
「あ……」
閃いたお咲の目に、決意の色が宿る。自分の出来ること、自分の役割が突然
降って湧いたかのように。
「火事だ~、火事だ~」
渾身の力を込めた叫びが、火事の記憶が生々しい人々の心を直撃し、静香の
周りにまとわりついた者たち、東王公をあがめていた者たち、お囃子、
あらゆる人々がその言葉に呼び起こされ、我に返り大きく首を振る。
「ちっ」
舌打ちをした月姫の顔に、一瞬の焦りが走った。東王公が紫の霧と共に
消えたのを確認すると、鐘から滑り降り闇に消えていった。しかし、その
最後の表情には、またしても思い通りにならない苦々しさが残った。
静香は、ようやく解放された体で深いため息をつきながら、
お咲をギュッと抱きしめた。
「よくやったわ、お咲。たいしたものね! 」
その声に安堵と誇りが混じっていた。
しかし百合の表情は依然として緊張が解けない。
「まだ安心はできないわね。あの二人、きっとまた……」
静香も頷く。今夜の出来事は、まだ始まりに過ぎないのかもしれない。
東王公と月姫となった真央、彼らの本当の目的は何なのか。そして、
自分の中に眠る陽炎の力との関係は――。
夜風が吹き抜け、仮設舞台の提灯が揺れる。その明かりは、これから始まる
新たな戦いの予兆のように、不安げに揺らめいていた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
今回の歌舞伎興行は、吉原の復興という名目で行われましたが、その裏には東王公の大きな野望が隠されていました。お咲の機転が光る展開は、彼女の成長を描きたかった部分でもあります。
次回もお楽しみに!
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