第17話「陽炎と月光」
お待たせしました!
今回は静香が自分の力の本質に迫る重要な回となっています。
残念ながら今回はイラストを省かせていただきましたが、文章で静香の心情や成長をしっかりと描いていきたいと思います。
引き続き、応援よろしくお願いします!
1.「夜明けを待つ静寂」
誰かとあんなに言い合ったのは久しぶりだった。いつだったろうと
思い返しても、静香には思い出せないほど昔だった。
サルの最後の言葉が頭から離れない。摩利支天の事を何も知らないまま、
その力を振りかざしていた自分に気づき、慚愧の念に駆られた。
だが、前世のように気軽に検索するわけにも行かない。
この状態で、忍仲間に尋ねれば心配されるだけだ。昨夜の消耗で倒れた身
では、動き回ることすら許されないだろう。
しかし、皆が思うほど体は弱っていない。それに、このまま静かに
休んでいることは、どこか違うような気がしてならなかった。
長屋を抜け出し、表通りの木戸番や馴染みの茶屋で尋ねてみると、
下谷広小路――前世で言う上野広小路に、その名の通り摩利支天寺があると
聞き出せた。迷わず北へと向かって歩き出す。
空気が重く、埃っぽい中に焦げた匂いが混じる。町の様子もいつもより
慌ただしく、昨日の吉原の火事が江戸の空気を一変させていた。
◆
(ああ、私、ここに来てどれくらい経ったのかしら?)
ふと足を止め、湯屋の煙突に目を留める。弟たちを連れて行った銭湯を
思い出した。貧しい暮らしの中、父母は遅くまで働き、兄弟の面倒は静香が
見ていた。目の前で棒手振からお菓子を買ってもらう子供を見て、
(もっと弟たちに何か買ってあげられれば...)
と、どうにもならない後悔が込み上げる。
季節さえも意識していなかったことに気づく。陽炎の力のせいか、暑さ寒さ
を感じなくなり、着物姿の人々を見ても、時の移ろいが掴めない。
江戸の街路に木々が一本もないことにも、今更ながら驚く。
あれほど苦しいと思っていた前世の暮らしにも、確かな支え合いの
システムがあった。時代それぞれの事情があることに、今まで
気づかなかった。
(私はもう、ここに来てから変わることを選んでいたのね)
鼻から秋の空気を深く吸い込み、かすかに微笑む。
(さて、私に何ができるのかしら?)
目の前に広がる不忍池の水面が、その問いに応えるように煌めいていた。
◆
静香は下谷広小路に佇む摩利支天寺の石段を上がっていった。落ち着いた
佇まいの寺の境内に入ると、参拝客もまばらで、ただ木々を渡る風の音
だけが響いていた。
「あの……摩利支天様はどちらに? 」
静香は境内を掃除していた住職に声をかけた。体の奥底で溜めていた
問いが、ようやく形になった。
「すまんのぉ……もうすぐ京の方からお像が来おるので……」
住職の申し訳なさそうな返事に、静香は少し肩を落とした。
その様子を見た住職は箒を置き、
「お嬢さん、丁度手が空きましたので少しご覧に入れましょう」
住職に連れられた静香は本堂の脇へ進み、掛け軸が並ぶ小さな部屋に
案内された。
二つの掛け軸が、静かに並んでいた。
一つ目は明らかにインドで描かれたもので、七体の猪の上にふくよかな裸体
の女神が座している。その姿は慈愛に満ち、見る者を優しく包み込むような
柔らかさがあった。しかし、その顔は三面――正面に女神、左に猪、
そして右に……。
(え? サル? )
静香は思わず目を凝らし、その描写がサルタヒコそっくりであることに
気づいた。
二つ目の掛け軸には、一転して猪に跨がる勇壮な武神の姿。六本の腕は弓を
引き、槍を構え、まさに戦いの真っ只中にいるかのようだ。こちらもまた
三面だが、それが誰の面であるかは定かではなく、ただ戦いを戒める力強さ
だけが伝わってきた。
「摩利支天様は男神、女神どちらもいらっしゃります」
住職の言葉に、静香は小さく頷いた。
本堂を後にした静香は、夕暮れに染まる梵鐘を見上げながら石の台座に
腰を下ろした。
「サル、あなたは女神にご執心よね」
鈴を転がすような声で問いかけると、
「わざわざこんな所まで来るとは、ご熱心なことだ」
首から下げたお守りの中から、珍しく照れた様子の返事が返ってきた。
「俺が知ってる摩利支天はもちろん女神の方だ。帝釈天と阿修羅の戦いに
巻き込まれた俺と猪を助けてくれた時に、あの三面の姿になったんだ」
サルの声には、懐かしさと切なさが混じっていた。
「人にとっては、女神より戦いの時の男神のほうが印象が良いんだろうよ」
「あら、ずいぶん伝説級の話じゃない」
静香は柔らかく微笑んだ。サルの言葉の端々に、長い時を超えた
思いが溢れていた。
「それで? 」
「その後、力を使い過ぎた摩利支天は、それこそ陽炎に
なって……俺も猪もバラバラになったんだ」
その言葉に、静香は自分の体に宿る力の始まりを初めて理解し、そこに
サルの願いが込められている気がした。
「大抵、神々の話って荒唐無稽よね」
静香の言葉に、サルは慌てたように言い訳を始めた。
「お前さんが見た掛け軸の姿は、その戦いの名残だ。だけど、本来の摩利支天は 顔がひとつの女神だ。俺は、その元の姿に戻ってほしいと思っているんだ」
「元の姿?」
「ああ。それには『太陽の光』と『月の光』の両方が必要なんだ」
「は~、それで私を利用した訳ね」
静香の言葉は意外にも優しく、責めるような調子はなかった。
「いや……だから利用した訳じゃないって! 」
サルタヒコの焦った声に、静香は思わず笑みがこぼれた。
「あ~いいのいいの! 利用されたとしても、必要としてもらった事に
変わりは無いし……」
静香は夕陽に照らされる鐘楼を見つめながら続けた。
「訳を聞けばあなた神というより人間みたいね。長屋であなたと話して、私、
大事なことを想い出したわ。『人を信じ、人を許す』っていう座右の銘。
こっちへ来ていろんな経験もした。感謝こそすれ、恨んだりしてないわ」
「ありがとう。静香」
「あら、初めて名前を呼んでくれたわね」
「ん…… そうだったかな? 」
足下にある猪の石像が西日の紫に色づき、確かに微笑んでいた。その瞬間、
静香の中で何かが静かに、しかし確実に変化していく感覚があった。
それは摩利支天の力なのか、それとも自分自身の変化なのか――
まだ答えは出ないままだった。
2.「吉原、揺れる夜」
夕闇が忍び寄る頃、吉原の大門前に人だかりができていた。
「さあさあ旦那方、寄ってらっしゃい見てらっしゃい!」
がらがらと振り鳴らす当り鉦の音に、通行人が振り返る。顔が
見えない程大きい手拭いを被った読売が、提灯の明かりに照らされた
高台の上から声を張り上げていた。風に煤けた着物の裾を翻し、
手にした瓦版を掲げる姿は、まるで芝居の一場面のようだ。
「火事があろうとここは吉原。嘆いてばかりじゃいられねえ。焼け跡からは
新しい花が咲く。なぁそうだろ、皆の衆! 」
読売は、まだ残る焦げ臭い空気を吹き飛ばすように声を上げる。江戸の
人々は災いを乗り越えようとする時、こうして賑やかに騒ぐのが常だった。
「旦那方、聞いたかい? 噂じゃ華玉楼『月姫』が玉響様も
霞むほどの美貌だとか。神楽院勘三郎もぞっこんで、連日通いつめ、
身請けの話も進んでいるとか……! 」
吉原付近だけでなく、江戸の町中を駆け巡っていた。
千代婆の蔵では、忍びたちが集まっていた。華玉楼と神楽院の名が
結びついたことで、焔影一族の次なる企みを察知した面々の表情は硬い。
「百合、人形町での様子はどうだった?」
千代婆の問いに、百合は静かに答えた。
「ええ。神楽院一座の動きを見ていたところ、また読売が現れました」
「何と?」
「次の酉の日に、吉原の焼け跡で『娘道成寺』を上演する
そうです」
百合の言葉に、一同は意図をはかりかねた。静香は思わず眉をひそめる。
道成寺といえば、恋に狂った女が蛇体となって鐘に巻きつく物語―。
その意味するところが分からなかった。
「私、お囃子方として潜り込めそうです」
百合の提案に、静香も頷く。
「なら私は玉響として客席から様子を見ましょう」
千代婆は二人の決意を黙って見つめた。灯明の火が揺れ、影が壁を這う。
焼け跡に建つ舞台で、一体何が演じられるのか。全員が同じ思いを胸に
秘めていた。
今度こそ、焔影一族の企みを打ち砕かねばならない。静香は自分の腕の中に
眠る陽炎の力を感じながら、ギュッと手を握りしめた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
静香が「変化」という言葉の意味を少しずつ理解していく展開、いかがでしたでしょうか。
摩利支天の力の謎も徐々に明らかになってきましたが、まだまだ謎は尽きません。
次回もお楽しみに!
※お気づきの点がございましたら、ご指摘いただけると幸いです。