接吻
物の怪の類を見たことがある。まだ小学生の時分、夏に伯父の家を訪ねたときのことである。
伯父の住まいはN県の港からフェリーに乗って三時間ほどのG島にあり、私と父は夏の二週間をそこで過ごすのが恒例となっていた。
伯父の家にはアヤノさんという一人娘がいて、彼女がいつも私の相手をしてくれた。年が十も離れた彼女は当時の私にとっては大人たちと同じに見えたが、酒の席に加わらないのがまだ子どもである証のように思われた。絵が好きで、古今東西の絵画が並べられた画集をよく眺めていた。
まだ年端もいかぬ子どもであった私にそうした芸術の良さなどはわからず、画集よりも昆虫図鑑のほうが読んでいて楽しかったのだが、アヤノさんの前で見栄を張りたい一心で画集を一緒になって眺めていた。いま思えば、彼女は私が退屈そうにしているのをわかっていたのだろう。それでも嫌な顔をせず、また私をたしなめることもせずに、載っている絵について説明してくれる優しさを持っていた。彼女が熱心に語るときの口の動き、そして揺れる黒髪から漂う椿の香りが好きだった。
数々の絵の中でもひときわ目を引いたのが、男が女を抱きしめ、顔を近づけ合っている一枚であった。夜の丘にいるのだろうか。暗い背景の中で二人の金色の衣装が熱を伴って輝き、足下の花畑がその光に当てられて燃えるように映えている。
「この人たちは何をしているの」
私が訊くと、アヤノさんは微笑とともに応えた。
「これはね、『接吻』という絵なのよ。クリムトという人が描いたの」
「接吻」
私は初めて聞く言葉の輪郭をなぞるように繰り返した。
「キスのことよ。キスは知っているかしら」
「知らない」
私は顔を赤くして言った。
「私の年になる頃にはきっと知るでしょう」
そのとき、アヤノさんの笑みが複雑な印象に変わった。
島の西側には砂浜があり、私たちは朝の涼しい時間帯を選んで泳ぎに出かけた。東側にはよく整備された海水浴場もあって、私はそちらのほうに行きたがったが、アヤノさんは人が多いからと言って嫌がった。
西の浜は入り江状の地形をなしており、弧線を描く汀のすぐ後ろに小高い丘がそびえているために、間に挟まれる砂浜には太陽が西に傾くまで影が差している。丘を越えて浜辺に下りるとき、私はいつも立ち止まって入り江の全景を望んだ。丘に囲われた地形はどことなく人の口に似ており、空を敷いたように青い海が、波の舌先を白い砂浜の歯茎に這わせているのが少し不気味だった。
泳ぎがあまり得意でない私は浅瀬で小波と戯れるばかりだったが、アヤノさんは人魚の優雅さで沖のほうまで泳いでいった。
アヤノさんは嵐の夜に生まれたから水に愛されているのだと祖母がいつか話してくれたが、事実と迷信の境界を知らない当時の私はその話を真に受けていた。遠くに頭一つ飛び出している大岩に触れて戻ってくるという往復運動を何度か繰り返すと、アヤノさんは浜に上がり、持ってきたシートを敷いて寝そべった。私はもうしばらく一人で泳いでいるが、じきに寂しくなって海から引き上げるのが常だった。
浜辺は日陰になっているおかけで涼しかったが、海から吹くぬるい風のせいで汗はなかなか引かない。水筒の茶を飲みながら、仰向けに寝るアヤノさんの背中を見ると、濡れた肩甲骨が淡く輝いている。私は理由のわからぬ後ろめたさを感じつつも、その背中から目を離すことができず、いつも食い入るように見つめた。するとときどき、寝たふりをしているアヤノさんが目を開けて笑いかけてきた。二枚の唇の間から覗く歯、その真珠色の輝きは私の未熟な羞恥心を煽った。
「どうしてアヤノさんはこちら側の砂浜で泳ぎたがるの」その日、私はふと疑問に思って訊ねた。「午前中なら海水浴場も人が少ないのに」
「向こうの浜にはあの人が来てくれないから」
「あの人」と私は訊き返した。
「あの人は毎年、夏になると私に会いに来てくれるの。あの人は特別よ。この島の男たちとは違う」と言うアヤノさんの顔に一瞬、怯えの表情が浮かんだ。「あの人は約束してくれた。私が十八になったら、迎えに来てくれるって」
その言葉と、それを口にしたときのアヤノさんの遠い目に、私は明確な別れの予感をおぼえた。私と父はいつも彼女の誕生日に合わせて島を訪れており、彼女の十八歳の誕生日は三日後に迫っていた。
アヤノさんが遠いところへ行ってしまうかもしれない不安に耐えられなくなった私は、その晩父に浜辺での話をしてしまい、それはすぐに伯父の耳にも入ることとなった。二人は慌てた様子で祖母の部屋に行き、私は祖父からアヤノさんと一緒に居間で待つように命じられた。途中、私はトイレに行くふりをして祖母の部屋に近寄ったが、三人が何を話しているのかはわからなかった。ただ、「おかみ」という言葉と、「あの子は魅入られた」という祖母の声だけは辛うじて聞き取ることができた。
数時間後、険しい顔で部屋から出てきた伯父はアヤノさんを裏の土蔵に閉じこめ、外側から錠をかけた。誕生日が過ぎるまで一歩も出てはならぬと、伯父は憤怒に震える声で叫んだ。
アヤノさんは少しも抵抗することなく、伯父の言いつけに従った。まるでそうする以外の選択肢が存在しないかのように。土蔵は祖母が生まれる前からあったもので、壁の高い位置に通気用の格子がはめられているほかには光を取り入れる場所もない。手入れがされていないせいで中は汚れ、腐った板敷きの床は子どもの私が歩いただけでも踏み抜きそうなほど傷んでいた。
その埃っぽく蒸し暑い蔵の中で、ただじっと待ち続けることのいかに過酷であるか。食卓や机の類もないそこでは、彼女は大人たちが持ってきた食事を床に置いて食べさせられ、ささくれ立った板張りの床にぼろきれ同然の毛布を敷いて眠らなければならなかった。
私は彼女を外へ出してもらうよう父に何度も頼んだが、「あれがアヤノのためなのだ」と応えるばかりで一向に動いてはくれなかった。
蔵の裏手には使わなくなった庭用具をしまった木箱が積み上げてあり、その上に乗ると、幼い私にも何とか格子から中の様子を覗くことができた。私は虫取りに行くと嘘をついて家を出ると、虫取り網とかごを投げ捨て、雨ざらしのために傷みきった木箱をよじ登った。
アヤノさんの名前を呼ぶと、彼女は疲れの滲む顔をこちらに向けた。
「心配して来てくれたのね」アヤノさんは無理やりに笑顔をつくった。
「ごめんなさい。ぼくが、あの話をお父さんにしてしまったのが悪いんだ」
「いいのよ。あなたのせいではないわ。それに、こんなことをしたってあの人を止めることはできないんですからね」
「あの人って誰のことなの」私は涙目になりながら言った。「遠くに行っちゃ嫌だ。ずっとここにいてよ」
「それは」アヤノさんはその先を言いよどみ、寂しげに目を伏せた。「とにかく、私を信じて。今日ここで話したことは、誰にも秘密にするのよ。できるわね」
私は言いつけを守り、アヤノさんと話した内容を父親にさえ伝えなかった。ただ、アヤノさんの言うあの人に対するおそれと不安は、沈黙を守り続ける心の中で膨らんでいった。
祖母が口にしていたおかみという名前、それがあの人の名なのだろうか。魅入られたとはいったい、どういうことなのか。何かが起こりそうな予感におびえながら、私はアヤノさんの誕生日までの二日間を過ごした。そしてその予感は的中した。彼女の誕生日に狙いを定めたかのように、島に嵐が襲いかかったのだ。
人々の叫び声が束になったような凶暴な音を立てながら風が吹き荒れ、斜向かいから吹き飛んできた屋根が蔵の壁に大穴を開けた。伯父は急いでアヤノさんを母屋に避難させた。彼女は土蔵からの脱出に成功したのである。
祖母の指示によりアヤノさんは一階奥の和室に収容され、なおかつ障子や襖はすべて経のしたためられた札によって固く封印された。夜が明けるまで、何人もこの封を解いてはならないと祖母は私たちに命じたが、伯父や父がその理由を訊ねても何も応えてはくれなかった。ただひとり、私だけがアヤノさんから離れたくないとぐずり、彼女とともに和室に封じられることを願った。父や伯父は一晩だけとはいえ幼い子どもを閉じこめることに難色を示したが、最後は祖母がそれをゆるした。何かあったら、おまえがアヤノを守ってあげるのだと祖母は言った。
和室では照明を灯すことも禁じられ、私たちは蝋燭の火を頼りに予め運ばれていた食事をとり、布団を並べて敷いて寝た。私はアヤノさんと向かい合うように横になったが、胸のざわめきのためになかなか寝付けなかった。アヤノさんも、目を開けたままじっとこちらを見つめていた。
夜が深くなる頃には雨もやみ、風も凪いだが、耳を澄ますと静寂の中にしとしとと水の滴る音が鳴り続けていた。
「雨漏りかしら」と言って部屋を検めたアヤノさんは、やがて布団をめくり、畳に直接耳を押しつけた。「違う。床下からだわ」
アヤノさんは隅に片付けておいた夕食の盆からフォークを取り、二枚の畳の間に無理やりにねじこんだ。
「お願い。手伝って」
彼女とともに畳をめくると、荒板の下地が四角く切り取られており、地下深くへと大穴が続いていた。後になって祖母から聞いたところによると、それは戦時中につくられた簡易の防空壕で、当時まだ子どもであった祖母も何度か潜ったことがあるらしかった。
「あの人が呼んでいるんだわ」
アヤノさんは躊躇せずに穴に潜ろうとした。
「行かないで」
「お願い。行かせて。それとも、あなたも私をここに捕らえておきたいの」
「ぼくは伯父さんたちとは違う」
「なら私を止めないで」
「わかった。でも、ぼくも行く」
防空壕の中には大雨のために地下水が湧いており、天井から絶えず水が滴っていた。私たちは蝋燭の火を守りながら、横に長く伸びた穴を進んだ。風の気配を頼りにどれくらい歩いただろうか、私たちはようやく外に出た。その穴は、家の西側の林に繋がっていたのだった。
「まさかこんなところに繋がっているなんて」アヤノさんは自分と私の服についた泥を払った。「この林を抜ければ丘に着くわ。行きましょう」
すでに夜は明け始め、東の空にかかった雲が赤く燃え上がっていた。丘を越えるとき、私はやはり立ち止まって眺めずにはいられなかった。大きく口を開けた入り江、そこに一人の少女が誘いこまれている。
砂浜に辿り着くと、アヤノさんは蝋燭を私に手渡した。
「ありがとう。それから、ごめんなさい」
アヤノさんは波打ち際までゆっくりと後ずさっていった。
「行かないで」
私は叫び、彼女を追いかけようとしたが、足は杭で打たれたように動かなかった。
不意に沖から大きな波が押し寄せ、アヤノさんの身体を包んだ。まるで人の手のようにうねくる激流のさなかに、私はあの人の姿を見た。男とも女ともわからぬ顔と、彗星の尾を束ねたような長い髪。そして裸の素肌に青い鱗模様の血脈を輝かせる異形の者の姿を。
その人はアヤノさんに覆い被さり、クリムトの絵のような接吻をした。恍惚として微睡むアヤノさんの瞳がゆっくりと流れ、横目に私をとらえたが、次の瞬間、波は一気に引き、二人は泡となって消えていった。ようやく動けるようになった私は、泣きながら波打ち際まで走った。二人がいた場所にはアヤノさんが着ていた白いワンピースだけが残っており、夜気を蓄えた波が泥だらけのその服を舐めていた。