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『蝗害』

作者: 上野ニッカ

 蝗というのはよく公園の緑地にいてむしゃむしゃとハマスゲとかカヤツリグサとかの多年草を食べる昆虫だが、近くの公園とかでもそこまで多く見ることはないだろう。麦藁帽子の少年が虫取り網で探し回る光景は謂わば夏の情景の一つと言える。

 そんな炎暑の中、日本海を挟んだ朝鮮の東界(トンゲ)地方は古来高麗という朝鮮史の中では戦禍と契丹の侵入に見舞われた王朝であるが、高麗仏画には極めて高い芸術性があり、建国者である王建は嘗て、三国時代の一国であった「高句麗」から名を拝借し、「高麗」とし、仏教に帰依し、『高麗大蔵経』などの仏教文化を育んだ鎮護国家を築いたのだ。その古い「高麗」の名で最も繁殖力のある砂漠飛蝗が「高麗蝗」として朝鮮半島東部を中心に突然現れ、今や首都京城を覆い尽くし、仁川、海州へ侵入し、遂には平壌、隣国の中国遼寧省丹東にまでやって来たのだ。砂漠飛蝗は本来、アフリカ大陸、モータリニア・イスラーム共和国からサハラ砂漠を越え、インドの首都ニューデリーまでを生息地にするが、何故、局部の朝鮮、東界に発生したのかは不明であった。その大群の高麗蝗のけたゝましく飛ぶ様はまさに蝗害の役と言え、豪奢絢爛の高麗の地を冷笑するかのように輪を描き、群衆と成すのである。衣食住を忌まわしき蝗に奪われ、疲弊した朝鮮人は皆、南部へ逃避行を重ね、逃げる術を失った者たちは皆、家に籠城する形でこの蝗害の役と化した現況の土地からの脱却を図るべく会議を日夜重ねていたのだ。

 白・邾山(ペク・チュサン)は齢26にして化学者であり、京城永登浦区の京城会議室に同じ化学者を集め、韓国農林水産省が発布した『ピレスロイド系化合物イミプロトリン液剤の開発』と書かれた依頼書を机上に乗せた。

「イミプロトリンはFAOの有効害虫駆除薬剤にまだ認定されていないとこの議定書に書かれてある。我が国、大韓民国は蝗害の渦中、いまだ、国際的な援助が来ず、眼前の昆虫の行進に踊らされるしかないのだよ。」

「ただ、それは草花に散布するのですか?」と朴研究員。引き攣った顔で今も外からの轟音に恐怖している。「既に東界に駐在している軍が最初に確認された7月27日からある程度の薬効性のある木酢液を散布していますが、最早、4日経った8月1日の現在では驚異的にあの忌まわしき害虫が東西部へ向かっているとの連絡がありまして。」

「9月に差し掛かれば、納涼の時期になる。蝗の大群がまた、こちらに引き返し、倍になった場合、我が国の損益は...。」

「白研究員。今は沈黙が分かり合えるかと。」

 会議室には7人の青年が化学者の役職に身を包み、腐敗し、機能不全都市と化した京城から東界周辺の領域を今も犯す蝗の群泳に一種の虚像を見たのだ。それは松明を見るかのような一瞬の目の眩み、そして、この純然たる国家を渺茫たる観念で見ていたのだ。沈黙の議事堂に一報が入る。

「蝗の死滅にT2魚雷を使う、韓国陸軍省から。」

 白氏は耳を疑った。これは何かの間違いか。

「あの魚雷を使うのか、韓国政府は。」

「そうだそれでいい。」

一人が言い始める。すると皆こぞってそれを肯定する。危険思想の宗教の中で始まった同調のような異様な空気だった。

「私は認めない。政府に打診する。」

 白氏は離席し、議事堂の奥にある廊下へ通じる扉に手をかける。その心中に彼には独り、寂寥の感があったのは言うまでもない。

「政府は正しいんだ。科学者は常にアグリーと言うしかない。認めるんだ、白研究員。」

 白氏は直接政府に言うべくして扉を開けた。その先に見える玄関には蝗の数匹がひっそりと止まっていた。軽蔑の目でそれを見る。玄関を出て、京城近郊を独り歩く。わけいってもわけいっても、暗い暗雲が立ち込める、全くの機械仕掛けになってしまった都市にこれからの行く末を案じるのは世も末か。政府高官朴氏に電話した。

「やあ、白研究員、どうしたかね。」

「高麗蝗のことで打診された法的手段の異議申し立てて電話したのだが。」

「あゝそれならもう済んだことだ。」

 暫くの沈黙を置いて、煙草を吹かす白氏、灰色の都市に煙が宙を巻く。「人命がかかっているんです。」

「それなら君たち農林省の科学力よりも陸軍省の機動力が勝る。もう時期に東界の誰もいない農地に爆発が起こる。粉塵が蝗を殺し、繁殖卵は皆消え失せる。この虫けらみたく死んでいる路上の死骸の蝗のようにね。」

 白氏は「その後のことは考えているんですか?」と問う。はははと笑う朴氏は剽軽になってしまった。彼の落魄した魂胆は心中の嘲笑に隠れてしまった。遠くでどおんと音がする。京城にまで届いた轟音と廃墟と化した近くの商店街とシャッター通りは今も日の登ることを許されない京城の夕焼けを待ち侘びる。

 白氏は酷く失望し、煙草の煤を灰皿に落とした。

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