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98,少年は項垂れる

 「テル君、大丈夫かい?」

その声にハッと目が開く。夕日が沈み、ランプで明るくなっている調合室の扉が開きっぱなしで、通路に立っているテルの顔を心配そうに覗き込むハルドがいた。

「え、あ、その。これ!」

テルは突然起きたことに理解が追いつかず、しかも混乱した頭では言葉がうまく浮かんでこず、持っていた箱を無理やり押し付ける。

「これは?絵の具でも入ってるのかい?」

「え?」

大切に抱えていた箱の外側に確かに絵の具が飛び散っていた。じゃああれは…

「夢じゃないってこと?」

口から漏れ出した言葉に驚き、慌てて空っぽになった両手で口を塞ぐが、既にハルドの鋭い瞳に射抜かれていた。

「お茶でも煎れるから中で話を聞かせてくれるよね?」

「はい…」

ニコニコと笑顔を見せてくれるハルドからは普段感じないような圧力を受けた。そう、相手の拒否を受け入れる気はさらさらないような、ご貴族様の従者にいる拷問する人間みたいだ。テルは、小刻みに身体を震わせながらもハルドに促されるように席につくと、ハルドは扉の鍵までしっかりかけていつもの棚をいじり始める。

「紅茶で良いかい?そろそろ缶を空にしたいんだ。」

「は、はい。」

声をなんとか振り絞って返事をすれば、茶筒と共にクッキー缶を取り出すハルドはこちらに微笑む。

「リティが好きなお店のクッキーでも茶菓子にしようか。」

リティアによく似た先程出会った少女が脳裏をよぎると、ビクッと身体が反応する。恐る恐る様子を窺うと、やはりハルドの視線はテルに刺さっていると感じた。本能的に、いつもの大好きなハルドがここには居ないと感じた。

「ご、ごめんなさい。」

「謝ることは何もないよね?何をそんなに怯えているんだい?」

ハルドが湯気がたったカップを目の前に置くと、すぐ隣に腰を掛けると、テルの視線が定まらず、真っ直ぐ見ることが難しかった。

「俺は怒っていないよ?あの時、魔術陣がどんなに歪になろうが、君達を傷つけまいと飛び込んだんだ。」

「!?」

ハルドの子供に言い聞かせるような落ち着いた口調に、テルの瞳から自然と涙が溢れる。そのまま鼻からも出始めて、ハルドによって机の上にあるティッシュを手渡されて、ぐちゃぐちゃになった顔を慌てて拭った。

「この箱、開けさせてもらうね。」

ハルドがティッシュで箱を拭きながら蓋を開けると、レモンタルト。その隣にあるはずのブルーベリーマフィンが跡形もなくなくなっていて、その代わりに長さが小指くらいの水晶の破片が1本入っていた。テルは口をパクパクとさせて言葉が出てこない中、ハルドがひょいっと破片を指先でつまんで拾い上げてくるくると回しながら観察する。

「…やはりね。テル君、怖い事は起きなかったかい?」

「えっと…」

ハルドが机にその破片をカタンと置くと、テルを凝視していて、今から拷問が始まると、その経験のある自分の本能が叫び、歯切れが悪くなっていく。

「言い方を変えよう。リティによく似た女性に会わなかったかい?」

「あ、会いました。」

視線を合わせず、目の前のカップに映る自分を凝視するテルは肩に力が入り、膝に置いている手の平が汗ばんでいく。

「名前は言ってた?」

質問が始まり、答えられないものには首を横に振る。いつ暴行されるかが分からなくて、窓から飛び降りたら助かるだろうかとすら考えている。

「そうか。テル君自体は、魔獣には襲われなかったかい?」

「お、襲われていないけど、水晶に入った魔獣は見ました。」

彼が今どんな表情をしているかは分からないが、感情の籠もっていない淡々とした口調で質問をされている。

「…水晶の中に魔獣が封じ込められていたってこと?」

「わ、分からない。で、でもすごく大きくて水晶を今にも割りそうな魂喰いセイレーンがこっちに花を向けて…!い、いました…」

アギーやリティアを傷つけたアイツがいた。ディオンみたいに武器を携帯していれば倒せたのに!!と、一瞬感情が荒波を立てたが、ふと父親の太い指が視界に入り込み、唇に緊張が走った。

「緊張しないで、いつも通り話そう?この前、お願いしたように『些細なこと』でも教えてくれると有り難いんだけど。」

「あ、はい。」

テルの荒らげた声が極端に小さくなる。彼はきっと苛立っている、顔を見なくても分かると心が悲鳴を上げる。

「うーん。テル君、普段みたいに俺を見てくれるかい?」

「は、い。」

指示通り恐る恐ると顔を上げれば、ハルドは、顔を傾けて眉間にシワが寄りつつも眉自体は下がり気味で、テルの目を見ていた。

「今の君に俺はどうやって映っているの?」

「ハルド先生です。」

そう、目の前にハルドがいる。それは分かる。でもそれだけではない、ぼんやりとだけど、自分を殴って拷問をしていたあの日の父親が重なっていた。

「そうだね。でも聞いているのは、そこじゃないよ。君に危害を加えるように見えるのかい?」

ハルドがテルより大きい手でこの汗ばんだ手を握れば、瞳の奥を覗き込まれる感覚に襲われるだけでなく、

「言い方を変えるならば、命に変えても守ろうとした子を自らの手で殺すように見えているの?」

ハルドの声色が、幼い子どもを諭すように変わった気がした。気がつくと、テルの下瞼に涙が溜まり始めている。

「!!そ、そういうわけじゃ…」

「テル君、俺と誰を重ねているかは分からないけども、俺は俺として見てくれないか?言うなれば、君の父親でも祖父でも叔父でもないんだ。」

テルからも目を合わせることで父親の姿が消えて、目の前にはこんな自分なんかを気にかけてくれて、くだらない話でも早朝から付き合ってくれていた先生だけが居た。その事実に溜め込んだ涙が大粒の雨となり、ボタボタと握られている手に降り、段々とテルはむせび泣く。その背中を空いているもう片方の手で優しく擦られて、

「…本当によく似てるよ。」

彼の呟きが耳に届いた。


 泣き止んだテルは、恥ずかしくて堪らなく項垂れると、いつもの陽気な笑い声のハルドに頭を撫でられる。その指は父親の指よりも細くて、しかも無駄な贅肉が少なかった。ハルドはタルトを口に運びながら、テルにもう一度話を振る。

「落ち着いたら、話してほしいな。とりあえず危険なことはなかったんだね?」

「うん、なかった。不思議だっただけ!そこの踊り場に姿見があったんだけど、踊り場が映ってなくて、映って居たのは美術室だった!」

元気になったテルはいつもの感じで話し始めて、ハルドは目を細めながら相槌をうつ。

「へー!?4階の?」

「うん!後ろの作品の配置が一緒だったからあそこだと思う!」

あまり美術の授業は多くないけれど、あの彫刻は確実にあそこだと確信できた。冷めきった紅茶は、ハルドが温かい珈琲と取り替えてくれて、湯気を顔に浴びながらごくごくと喉を潤す。

「い、今から確認してみるかい…?」

ひそひそとハルドが耳打ちしてきて、テルは首が机にぶつかりそうな勢いで頭を上下に振ると、

「じゃあ、決まりっ!」

ハルドが笑ってくれた。わくわくとどきどきで高鳴った心臓の音は、近くにいる人に聞こえてしまうのではないかと心配になりながら、ハルドに誘われるまま調合室を後にする。職員室側の階段をタンタンとリズミカルに昇るテルの後ろをゆっくりとハルドがついてきていて、テルは何度も振り返りながらハルドを置いていかないように気をつけつつも、夜の学校を歩くことはとても楽しいものだった。ハルドが解錠前に、テルがロック番号を押して4階の職員用扉から通路へと出ると、


ゴトン


この実習棟のどこかの教室から物音が響いた。

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