836,青き者は受け取らない
兄は、寛大であった。それが、何とも気味が悪い。リゾンドは貿易都市の扉を叩き、以前己が任された騎士達の元に戻る事が許された。肉の腐った悪臭で鼻がやられそうな中、リダクトの後ろに控えるリゴンの更に後ろに、リティアに瓜二つの少女が小走りでついていく。リダクトとリゴンが全く気に留めない少女は、あまりに土色の顔色で死体であると理解が容易かった。本来居るべき空間からズレた空間に、大聖堂の地下がある。光が入らない部屋で、炎の灯りが唯一の他人を認識する上で助けとなる。リゾンドに怯えた瞳を向ける騎士がいる中、敵意を剥き出しにする騎士もいた。彼らの目の前に、自身の所持する異空から出したワインを1本だけ置く。彼らの視線が集中するのはワインボトルではなく、リゾンドだ。
「飯は、食わせてもらっているか?」
リゾンドの問いかけに、彼らは静かに首を横に振る。
「最後は、いつだ?」
その問いには言葉ではなく、指で表された。親指以外が、立っていた。リゾンドはワインをしまい、ビスケットを取り出す。魔獣化していた為に長らく交換していなかったが、まだ食えそうな匂いだ。改めて、ビスケットの袋を彼らの前に置き、
「1人1枚、渡す家族の分も取れ。」
リゾンドが半歩下がる。彼らは顔を見合わせ、中で出来上がったリーダーらしき中年男性が、
「家族など、おりません。私達は、この世に生を受けてから、聖龍様に、仕えている、身であります。その、ような、不要…うグッ!」
あまりにぎこちなく話しながら、頭を抱える。息が荒く、肩が大きく上下していた。リゾンドは、彼らの頭に水を降らせる。変哲もない魔法だが、彼らは目を輝かせた。外見年齢と見合わぬ感情の動きは、リゾンドには見覚えがあった。
「貴様らも、リゴンやダイロと同じか。」
リゾンドは呟くと、ビスケットを人数分だけ放り投げ、部屋を出ていく。ある程度顔は憶えているだけの騎士達だが、それの家族の存在は鮮明に記憶している。リンノが産まれた頃を想起させるような親子が、あの中に居た。階段を降り、元の空間へ潜り抜けると、ちっぽけな教会の地下へと繋がった。今、こちらはどうなっているのか。深緑の髪を持つ少年が、壁に寄り掛かる寸前まで下がって頭を垂れる。
「フェルナード家の従者か。丁度良い。ここの案内をしろ。」
ビスケットを1枚掴ませると、薄い困惑の表情を見せてきた。リゾンドは顎を掻き、
「空腹ではない?」
「はい。1日2食頂けていますので。」
微かに動く少年の眉を見ていると、幼い頃のリンノを思い出す。あいつも、こうだった。気がつけば、笑う表情も悔しがる表情も見せない聖童として、その達観したように見える様に皆が期待したものだ。だが、今のあいつは笑うし、怒る。リーフィやリティアに向ける笑みは、亡き妻を思い出させる程だ。単純な顔の雰囲気であれば、白銀の髪になったリーフィが似ている。だが、リンノの保護者として見守る表情はあいつだった。自然と、拳に力が入る。ずらされた空間に居る人間は、実験体だ。そしてこちらは、恐らく生贄だろう。生贄にまで、労力を使う必要はない。ただ、逃げないくらいには満足させてやらなくてはいけない。小さな部屋の数々には、4人程で使用しているらしい。大部屋は、女、子ども達が集められているという。部屋に入る必要はないが見せて欲しいと頼めば、フェルナードの従者は訝しむ表情を見せる事なく、階段を降りていく。ある意味、ポーカーフェイス。ただ、表情の変化が乏しいだけかもしれない。徐々に幼い子どもの笑い声が聞こえてきたと思った瞬間、大きな歓声が湧き上がる。フェルナードの従者が、唾を飲んだ。顔が青ざめていく少年の肩を叩く。
「どうした?」
「偽物の聖女様が…あ。」
口を滑らした少年の目が、泳いだ。こいつは、間者なのだろう。それが、どうした。リゾンドは首を横に振り、
「良い。リティアではない事くらい、分かる。あいつは、女で産まれていなければ良かったのにな。惜しいものだ。」
リティアに掴まれた手を、自分で確認する。あれが男であれば、恐らくリンノと共に、長の腕となり、足となり、一族を指揮するだけの技量があった。さすれば、幼かったリーフィも女々しく喚かずに、稽古に励んだかもしれない。
「…リティア様は、女性で良いのです。性別による差別は、よろしくありません。」
「ハハッ。そういう話ではない。あいつは、剣を取らない。取れば、強くなるだろうが。」
言いにくそうにしながらも苦言を呈する少年の頭を叩く。そんな未来ならば、悪くはなかったかもしれないと妄想しただけの事だ。死体の聖女が去るまで、ここで待つかと考えたところで、
「私めが言うのもあれですが、彼女の話は少々危険です。予知夢では、その事で今から数人殺されます。」
少年の言葉はリゾンドの足を動かした。幼い頃のリーフィの泣き顔が、リンノに勝てずに泣き喚いた子どものリゴンの癇癪が、頭の中で炸裂した。慌ててついてくる少年を制止し、リゾンドは大部屋の扉を少しだけ開けた。微笑みを貼り付けたリダクトが、1番楽しそうに飛び跳ねる幼児を抱き上げる。リゴンがこちらを振り向き、誘ってくる。リゾンドはヘコヘコと頭を下げて入室すると、
「兄上。その子どもは、まるでリゴンの幼い頃を見ているようで、懐かしく思います。」
すかさず声を掛けた。リダクトは口を開け、泥を子どもの口に含ませるように見えたのだ。ピクリ、と僅かに驚きを見せたリダクトは、こちらにも微笑み、
「そのような事を言うとは、思いもしなかった。」
「わ、私は、私なりに、息子達を愛していましたから、ここの子ども達も可愛く思っております。」
言葉とは裏腹に圧力を感じるが、リゾンドは初めてとも言える抵抗を試みる。得策ではないが、ここで子どもを生贄に捧げる事自体が危険だ。母親達が、見ている。リゾンドに母親達の注目が集まる中、死体の聖女が頷く。リダクトは子どもを降ろすと、手を払った。それは泥を放ち、リゾンドの顔にかかる。ジュッ、と顔が溶けたように感じた。
「リゾンド。出しゃばるな。お前は、お前の役目を果たせば良い。」
興味が失せたらしいリダクトは、大部屋から出ていく。それには、リゴンも一緒だ。ただ、少し遅れて扉に触れ、
「父さんだけは、こっちで嬉しいよ。もう、兄さんはクソ女に毒されて駄目になったからさ。」
そう吐き捨ててから、扉を閉める。死体の聖女を残して。死体の聖女は慌てる素振りを見せず、
「わ、私は、分からなくなりました。長らくお慕いしていましたが、『お嬢様』は顔だけでも優しく触れてくれました…。けれど、あの方は見てさえくれません。」
リゾンドに愚痴をこぼして、フラフラと出ていく。なるほど。あれの中身が、誰かが分かった。一目惚れした相手であったろうに、と言葉を飲み込む。泥を手で拭おうとした時、1人の母親がハンカチを差し出した。
「守って下さり、感謝しております。あ、あの、旦那の」
「生きている。それ以上、聞くな。」
それは受け取らず、乱暴に泥を叩けば、顔は溶けていなかった。凹みは、触れても分からない。何かが、作用しているのか。全く身に覚えがない。腕を組んだ瞬間、光る蝶がハラリと指の間から落ちていく。リゾンドのではない。こういう魔法を使うのは、リンノだ。息子に、守られたらしい。大部屋を後にすると、先程の少年が立っていた。案内の続きを頼むと、
「会って頂きたい子が、居るのです…」
「ああ。良いだろう。」
少年の予知夢とやらには、とりあえずの恩がある。子どもが死に、親が悲鳴を上げ、殺される現場に遭遇しなくて済んだのだ。だが、いつ殺されるかは分からない。大部屋から離れて、少し出来の良い木製の扉を前に、少年の珍しいノックのリズムで扉が開かれた。そこには、
「ほぼ、死体か。」
嫌な程対峙してきた男の精霊に守られた、赤い橙色の瞳を持つ少年が炭化した腕を床に垂らしていた。




