814,優等魔術士ははたき落とす
喚き声が、耳を劈く。姿が見えない子ども達だ。ソラの目に映るのは、見知った顔だ。彼はエスコートでもするかのように、指先まで美しく差し伸べてくる。
「本物ですか?」
「ええ。オウカさんから聞きました。孫息子の物語を踏破して下さり、ありがとうございます。」
その言葉で、ソラは手を掴んだ。ぐにゃりと空間が歪み、背後から風に押し出される。掴んだ筈の手は消えて、ソラの後頭部に本がいくつも落ちてくる。両手を腰に当てたオウカに見下され、眉を下げたリファラルに再び手を差し伸べられた。
「本は…?」
彼より先に、テルが居た本を探して見渡すが、何処にも見当たらない。
「魔法罠の本はクリアされた事で、その存在意義を終えたんだ。俺も、晴れて自由。」
鏡の破片が、ソラの前を蚊のように飛び回る。煩わしくて、リファラルから手を離して手で払うと、鏡の破片は粉々に砕けた。ギョッとしたオウカの瞳と目が合うソラの前で、キラキラと黄緑色の魔石が現れる。
「俺は、アリシアの双子とされた精霊人形のロゼット。リティアを狙う男によって、核を分断されたんだ。よろしくね?」
「よろしくされる理由が、全く理解できない。」
ソラは、このふざけた魔石をはたき落とした。テルが居たというのに、何も出来なかった事が悔しい。コイツに関しては、本当にどうでも良いのだ。酷い!と怒りながら笑う魔石だったが、大きな風の渦を巻き起こす。オウカにより、桜の枝がソラと魔石の間に割り込み、大風からソラを守った瞬間に、鼻につく香水が一気に広がる。それは、とても嗅ぎ慣れた香りだ。空気が変わり、ソラの背筋が自然と伸びる。
「ハルド先生…?」
ソラが呟くと同時に、浮いていた魔石が青緑色の鱗に包まれた男の手に捕まった。焦げ茶色のウルフカットの髪を耳にかける仕草は、余裕さを物語っていた。囚われていたハルドが、今ここに存在している。
「あーー!この優男!俺のリーフィに、手を出した」
「何処まで、記憶共有されてるんだい?リーフィを貿易都市付近で殺そうとした君が、言う事かい?」
魔石が喚くと、鱗の指に力が入り、ピシッ、と音を立てた。ソラと目を合わせないハルドを、ただ見上げる事しかできない。魔石が、黄色く光る。
「…見えてるだけさ。久々のナックからの説教だってね。俺達の友達は、リティアは、このままだとルナと同化させられる。向こうの俺は、アリシアに毒され過ぎて、それを望んでしまった。それには、リーフィの生き血が必要だ。リティアに近く、精霊を多く流す血は、彼女しかいない。」
魔石の言う事が真実であれば、ソラが望む日常は戻らなくなる。リティアが、消される。テルのように、殺される。そう思うと、胸が締め付けられる。あまりの苦しさに、冷や汗が流れた。
「これから、どうしたい?俺は、野放しに出来ないんだけど。」
「リーフィに会ってから、消えたいけど?」
淡々と話すハルドに対しても、軽く笑う魔石。また、亀裂が入る音が聞こえる。
「俺が、叶えるとでも?」
「まあ、このまま連れて行かれて、山の向こうでルナに会っても仕方ないからね。壊しなよ。それだけで、双子は弱体化する。」
教師としての面を無くしたハルドは、冷たい眼差しを手の中にある物に向け、それは臆する事なく言葉を紡いだ。特定の単語が聞こえた事で、ソラは呼吸を乱しながらも顔を上げた。
「や、止めて下さい!」
「ソラ。これは、君には御せない。」
ハルドに懇願するが、彼の瞳はこちらを向く事はない。それでも、言葉を返してくれるだけでも良い方だろう。オウカの怪訝そうな表情が、ハルドに注がれていた。
「俺がテルを失った時の喪失感と同じ物をアリシアに与えては、逆上するだけです!」
「…ああ。本にかけられた願いは叶ってるよ。」
反論するソラに、やっと視線を向けたハルドは、理由が分からない事を言いながら微笑んでくる。願いとは、何なのか。ソラが聞く前に、彼の興味は魔石に戻ってしまった。手の中へと目を細める彼は、
「アリシアに毒されていなければ、ふざけながら笑い合えた仲になれたと思うよ。」
「分断された俺なんぞより、ナックを探してやってよ。同じ校舎の中に、存在を感じる。ナックが力を取り戻せば、アリシアは黙るんだからさ。」
魔石と可笑しそうに笑い合う。これ以上、ソラが口出し出来るような雰囲気ではない。その笑い声が響いても尚、空気はピリピリと緊張が走るのだ。
「さよならだ。リーフィには、何か伝えておいてあげようか。」
「だったらさ、向こうの俺は捨ててしまうように言って。」
バラバラに砕けた魔石の破片が、ソラの目の前で雨になる。助けてくれてありがとう、と魔石の声が聞こえた気がした。
空が白んできた頃、貿易都市の罪なき民を惨殺して、大声で笑う下品な貴族の後ろに控える。こんな輩の機嫌取りをする気なんて、さらさらない。ライム色の前髪をかき上げ、わざわざこちらを睨んでくる。
「まさかあいつが、魔法士の従者を隠し持ってるとはな…?」
「貴方様には、従うつもりは毛頭ないですから、勘違いなさらぬよう。」
ダイロに舌打ちをされたが、セセリは素知らぬ顔をする。セセリからしたら、この男に興味はない。この男が教会から外出する時の監視役として、ここに置かれている。どちらが本当の監視役かと言えば、ダイロの方だろう。こちらは、人質だ。他の従者に呼ばれて戻るダイロの後ろを歩き、セセリは教会に戻ると、すぐさま別行動をする。薄暗い地下階段を降り、腐臭が充満する通路を走り抜けた先、若い騎士貴族が与えられた一室に向かった。トン、トントン、トトン、と与えられたリズムで扉を叩けば、入室の許可が降りる。左右に気配がないかを確認してから、滑り込むように部屋に入ると、焦げた臭いに埋め尽くされた先に、主が大切にしていた後輩が壁に持たれかけられている。
「先程、胸が上下し始めた。君の言う通り、こいつは生きていたんだろうな。右半身が、炭化しているというのに。」
「彼には、強い加護がついております。聖女様が、見捨てるとは思えません。」
チャコールグレーの短髪であるこの貴族は、大切な後輩の隣に座り込んだ。セセリも片膝立ちをして、手を当てる。文字通り、手当てだ。懸命に精霊を呼び、後輩の身体を治療するように命ずる。ブラッドオレンジの長い髪は、もう見るに耐えない程まで右半分はなくなり、まだ無事な方である左半分は殆どが縮れていた。これを見たら、カルファスもリティアも悲しむだろう。
「こいつ、以前セイリンが連れてた奴だ。貴族である俺に対して、失礼な発言したという記憶がある。」
そうは言いながらも、ジェスダの所有物であろう豚毛の櫛で傷んだ彼の髪を梳いている。彼もまた、この件に巻き込まれた側の人間だろう。彼に気を許しているわけではないが、
「セイリン姫が、可愛がっていた民の1人です。そして、我が主であるカルファス様も気に入っておりました。聖女様のご友人でした。あの方が、取り返しに来ないわけがありません。」
少しばかり情報を与えて、歩み寄りを試みた。片眉だけ上げて、ため息を吐くジェスダ。
「聖女様は、身内贔屓か。」
リティアをよく思っていないようだ。セセリは自分の可能な限り、それは本当に微々たるものではあったが、可愛い後輩を少しでも治療できたらそれで良い。
「お会いしましたでしょう?」
「ああ。普通に、まだ幼い娘だったな。あんな子どもが聖女に君臨するとは、良い操り人形だろ。」
ジェスダの偏見を解くべく、彼の記憶に語りかけると、なんとも末恐ろしい発言が返ってきた。カルファスやリルドの拳は、想像に容易い。それだけではない。教師としてリティアの傍にいるハルド、ラド、サンニィール家の数人、そして魔法士団団員は、確実にこの喧嘩を買いに行く。これは未来視ではないが、誤解は解いておいた方が良い。セセリは、故意に声を潜めた。
「ジェスダ様。絶対に、御本人の前では言いませんようお願い致します。彼女は、セイリン姫と同じ年齢です。少々背は低めですが、淑女でございます。」
「…失礼した。セイリンばかり見ていたから、そうとは思わなかった。お前も、助けてもらえるかもな。」
唾を飲んだジェスダは、気まずそうに苦笑いし、セセリに軽口を叩く。ここで合わせる事が適当な回答とは思ったが、
「未来視の限りでは、そのような未来は約束されておりません。ただ、彼が泣きじゃくって兄弟の胸を借りる姿は、見えました。だから、せめて返してあげたいのです。」
セセリは自身の胸に手を当て、カルファスを悲劇から解放する事を密かに誓ったのであった。




