811,優等魔術士は引きずり込まれる
他人に気にされないわけではない。いつも通りに近い学校生活を送りながら、兄弟、そして友人と呼べる存在が誰も居ない空間を耐え忍ぶ。事情を話す事が出来る教師すら不在な状況で、ソラは縋り付くしかなかった。休み時間も、昼休みも、放課後も図書室に駆け込み、今まで以上に魔術を頭に叩き込む。誰にも声を掛けさせない。テルの遺体を取り戻す為ならば、相手が建物ごと焼滅したって良い。たった1人の大切な家族を奪った輩が、どれだけ強かろうが関係ない。この命に換えてでも、取り戻す。本に齧りつき、喉の渇きがあったところで、その一瞬も無駄にしない。頭を叩かれ、やっと見上げた先には、
「ソラ、夕飯を食べなさい。」
オウカの手から水筒が落ちてくる。わざわざ、迎えに来たらしい。ソラが、顔に落ちた水筒のお茶を飲み干す中、彼女は床を指差した。
「ハルド…先生が、呼んでますよ。」
「それは、どういう意味だ?」
突然、口角を上げるオウカを見て、ソラの中で警鐘が鳴った。飯に呼んでおいて、旧校舎の何処かに囚われているハルドからの呼び出し。本当に、こいつはオウカなのか。そう、警戒をさせる違和感。
「弁当に詰めて持ってきますよ、仕方ないから。場所は、龍の眼の箱?って、言ってますけど、そんな物が部屋にあったら、腐ってそうじゃない…。」
眉を顰めるオウカの口からは、ソラが知っている木箱の話が出てくる。あれは、オウカとシャーリーが入学するよりも遥か前に触った物で、精霊人形アリシアがソラに持って来い、と要求した物。オウカは肩を竦め、
「ソラ、いってらっしゃい。ハルド、先生は、私にわざわざ言伝を頼んでるんだから。ソラが行くよりも、魔法士である私の方が早いと思うんですけどね。」
「何が欲しいって?」
首を傾げながら踵を返す。ソラは、彼女のブラウスの裾を反射的に引っ張った。不愉快そうに振り返る彼女は、
「本を開けば、分かるらしいですよ。罠だか何だか知らないけど、とりあえずリファラルさんにも声を掛けておきます。」
夕飯のメニューを早口で話し、図書室を後にした。
木箱に本が入っていた記憶は、ない。あれが本当にオウカだったのか、確証もない。ソラは凝り固まった肩を回しながら、調合室をノックする。当たり前だが、何の音も返ってこない。精霊人形アリシアは、ここには入れない。何かを見つけても、ここに置いておけば、悪さはできない。そんな考え事ばかりしていた為、鍵の事を完全に忘れていた。ガンッ、と音と共に扉に拒絶されたソラは、扉の前で棒立ちとなる。ここにソラが来る事そのものが、目的だったとしたら…、そう思うと冷や汗がこめかみに伝った。瞬時に振り返って、何かが迫って来ないかを警戒する。月の淡い光が降り注ぐ窓からの襲撃に不安が駆られる中、
「ほら、開けたよ。」
紛れもないハルドの声が、扉の向こう側から聞こえた。ソラは誘われるように、教室へと歩みを進めると、蒼茸の独特の香りが充満する教室の中に誰も居なかった。しかし、誰も居ないというのに真っ暗ではない。所々、魔石ランプが灯り、ソラの視界を良好にしているのだ。
「せ、先生…何処だ?」
そう問いかけても、返事はない。静寂の中、背筋が凍るような感覚に襲われる。テルのポーチを抱きしめながら棚に視線を移し、問題の木箱を凝視した。模型ではない、本物が入っていながらも腐敗する事はないような仕組みの魔法は、ハルドが不在でも尚、その効果が持続しているようだ。ポーチにぶつからないように、慎重に取り出した木箱の蓋を開け、龍の眼球がない事に驚いた。この木箱に詰められていたあれは、何処に?その代わりと言わんばかりに、数冊の本が仕舞われていた。
「何だ、これ。」
1冊ずつ、中身を簡単に確認しながら取り出す。どれも、魔術陣に描くような精霊文字だらけで、ソラは読み解く事は叶わない。最後に取り出した本だけは、ソラが慣れ親しんだ文字で書かれ、
「ハルド先生の字だ。」
それだけ呟き、ハルドがよく座っていた椅子に腰を下ろす。ソラが記憶を失った日付から始まる日記で、それはルナが街から出て行った日まで綴られてた。その文字の羅列を人差し指でなぞると、簡単に消えていく。ソラは、不思議なインクに違和感を覚え、いつもハルドが使っていた引き出しを開け、いくつもあるインクボトルを一つ一つ確認していく中で、硬い物が指に当たった。無理やり引き出しを外して、机の上に持ち上げた。インクボトルに囲まれた、一部の底板が若干浮き上がっている。その隙間にペン先を差し込み、テコの原理で底板を持ち上げれば、1冊の本が顔を出す。掻き消えたタイトルに首を傾げながら、本のページを捲った瞬間、身体が引きずり込まれた。
目を開けると、すぐ傍から始まる螺旋階段。唐突にテルのポーチが熱を持ち、ソラの手から滑り落ちた。慌てて拾い上げ、中身が壊れていないかを確認しようとしたが、こちらの手に傷んだ黒髪が触ってくる。ギョッ、と顔を上げると、長い髪を生やした生首の魔獣が涎を垂らして、こちらを見上げている。1年生の頃、授業中にセイリンが退治したという魔獣の容姿によく似ている。確か…、
「文字化け髪。」
手のひらに収まるサイズと聞いたが、目の前で口から腐臭を漂わせるそれは、ソラの頭を一口で食べられそうな大きさだ。ジリジリ、と近づいてくる文字化け髪に、スティックを向け、水分が無さそうな髪に火をつけてやる。のたうち回る魔獣を置いて、ポーチを抱えたソラは螺旋階段を駆け昇る。それ以外に道がない為、先が見えない階段へと逃げるしかない。距離を取りつつ、追加の火の玉を投げるが、あの魔獣にダメージが効いている様子はない。燃えている物は、あくまで髪だけ。顔にぶつけても、火は消えてしまうのだ。走っているうちに、ふと足元を見ると、文字と文字が絡まり合って、階段を作り上げていた事に気がつく。その文字の階段は、炎を纏わされた文字化け髪が、下段から燃やして消し去っている。これはまずい、と思ったソラは、瞬時に雨を降らせた。上が行き止まりだった時に、帰り道がなくなってしまう。炎が落ち着くと、髪が顔に纏わりついた文字化け髪の口が開き、階段を食べていくようになり、結局のところ階段はなくなってしまうらしい。だが、先程よりも文字化け髪の歩みは遅い。食事中の文字化け髪を警戒しつつも、駆け上がる速度を抑えて、この空間の状況把握を努める。よくよく見ると、階段を構成する文字が別の段差と絡み合い、他の段差を作り上げたり、なくしたりと忙しそうだ。壁にいくつかの扉があるようで、そのギミックを観察しながら、扉の向こうへ行けるタイミングを見計らうべきかもしれない。次に出来上がる段差に目をつけ、タンタン、とリズム良く駆け上がり、派生する段差の卵へと急げば、頭上の遥か上から、自分とは異なる靴の音が響いてくる。ハッ、として見上げるが、何も見えない。何処かで、人と限らずに何かと出会う可能性を鑑み、近づいた扉へと手を伸ばす。回避場所かどうかの確認をしておこうと、扉を引く。埃の群れがソラにぶつかり、くしゃみをしながら、スティックを灯り代わりに使うと、ソラの身長よりも高い板のような薄い何かに、布が掛かって見えた。自身の呼吸以外に、別の物が聞こえないか、耳を澄ませて、布を引く。布の向こう側には、こちらに手を振る、綺麗な顔のテルが立っているのであった。




