756,旧聖女は手に入れる
捕虜にした魔術士からアリシアの力を感じるが、気にする事なく山を散策する。風に乗って歩行速度を上げながら渓谷に差し掛かった時、
「こ、これより先は…蛮族の生息域です。」
「ラティオ、失礼よ。勇敢なウインディア一族が、そこまで迎えに来てくれているというのに。」
恐る恐る話すラティオに牽制の意味を込めた眼差しを向けたルナは、手を挙げて精霊達を手元に集める。そして、すぐに散布させた。精霊の抜け道が発生し、品のない魔獣達を横目に見ながら、安全な抜け道を辿る。渓谷には、天幕がいくつも立っていて、建設している最中の家まである。焦げ茶の髪色の男性達が、ルナを囲むように飛んだ。ラティオが震え上がるが、
「貴方方の君主に、感謝しております。此度は、どうぞ宜しくお願い致します。」
手を出して来ない彼等に、ルナは深々と頭を下げる。少しだけ軋む器だが、使えないわけではない。ルナの元に精霊が集まる限りは、突然器が壊れる心配はないだろう。ウインディア一族の中で、1番若いのではないかと思う者が、ルナの前に瞬間移動してきた。彼は従者でもあるまいし、片膝を立てる。
「ルナ殿、貴女をよく思わぬ者が多い地域であります。護衛として、このハーネットが付きますが、お気をつけ下さい。」
作法は従者だが、ルナへの呼称は対等地位だ。チグハグを指摘しても良いが、
「分かっております。それでも、レイン『お兄さん』の血筋が生きている地域です。『お兄さん』を悪しき者から取り戻す為にも、貴方方に協力を仰がなくてはいけません。」
ルナは気が付かないふりをして、彼に手を差し出す。握手を求めたが、首を横に振るハーネット。ルナは手を空へと伸ばし、
「ほら、もう来ますよ。貴方方の君主が、ね。」
灰色の獣の毛をエメラルドの鱗の間から生やしている飛龍に、大きく手を振った。
トンネルを抜けた先、人間に形を変えたハルドに手を取られて、木造住宅が大半を占める町に踏み込めば、ラティオが勢いよく倒れた。ルナは心配する事はなく、
「アリシアなりに頑張ったみたいだけど、ここの守り神様には勝てなかったのね。」
率直な感想を言って、見下ろす。ハルドの指が動くと、気を失ったラティオの身体が宙に浮いた。
「それは仕方ないね。この国は、大きく3つの勢力に分かれるんだ。所詮は、精霊の凝集体。生命体として完全たる者の足元にも及ばない。」
クスクスと笑うハルドの隣に、灰色の大狼が駆け寄ってくる。この地域のヌシ、彼等の守り神だ。そして、ハルドの父親である。後ろに控えていたハーネットが、ラティオを担ぐ。ハルドは、町の人間に手を振って、黄色い声を一身に浴びていた。ルナは彼の笑みに誘われる形で、大きな平家の屋敷に招かれた。ウインディアの者達が畏まる通路を通り、充てがわれた一室のソファに腰を下ろしたルナは、
「ねえ、ハルド。貴方は、リティアをどうするつもりなの?向こうで、寂しく待っているんじゃない?」
颯爽に退出しようとするハルドに問いかける。リティアの精霊があれだけ騒いでいたのに、なんて薄情者なのだろう、と思う。彼は振り返ると、
「可愛いリティには、絶好のタイミングを見計らって会いに行くさ。それは、今じゃないってだけ。互いに安否確認は取れてるから、急がないよ。」
満面の笑みを向けてくる。ルナの背中から、一気に精霊が飛び出した。扉の前で控えているハーネットの風魔法よりも、ハルドへの到達は速い。ハルド自身、避けるつもりは毛頭ないようだが。ハルドの首に巻き付く薄紫色のレースリボンは、ルナのお手製だ。
「貴方の事をどれだけ想ってくれているか、分かっていて、そういう事を言うのね。だったら、貴方の可愛い可愛いリティアが可哀想だから、その記憶から消してあげる。彼女からもね。」
「怖い事、言わないでよ。可愛いんだから、消されたら困るでしょ。」
レースリボンを首から外そうとするのは、今そこで笑っているハルドではなく、ハーネットだ。レースリボンに指が触れる度に、ハルドの首にめり込んでいく。レースリボンが、キラキラと輝く中、
「ふざけないで。思ってもない事を口にしないで。待たさせる子の気持ちは、痛いほど分かるの。あの子の事、少しずつ忘れさせてあげる。あの子にやる時は、一思いにやってあげる事にする。」
ルナは、手始めに『笑いかけるリティア』の声の記憶を消した。余裕ぶっこいて笑っていたハルドの表情が、一瞬で冷めたものになる。手の中に大鎌を呼び、ルナに振りかざすのだ。
「私を殺しても、消えない魔法。これは、リティアを想う精霊達が、貴方に対して向けた怒りよ。分かったのならば、今すぐ!日が落ちる前に、会いに行きなさい!」
ルナが声を荒げると、精霊達が目の前で集まって映像を映し出す。ベッドの上で、セイリンと青灰色の髪の女性に挟まれて眠るリティアの姿。ハルドが、頭を抱えて屈み込んだ。大鎌を手から離したハルドは、この映像を瞬き1つせずに見上げる。
「飛龍にまで、ため息を吐かれてしまったよ。可愛いリティの声が聞こえないってだけで、こんなにも殺したくなるんだから。ハーネット、ルナを頼む。万が一、指でも欠損させる輩が居たら、問答無用で斬り捨てて。」
ハルドの精霊達が部屋の窓を全開に開けて、大風を巻き起こす。ハーネットは、その荒れた気候の中で片膝を立てるが、ルナの周りだけは風が動かないように精霊が固定されていた。深々と頭を下げるハーネット。
「御意。」
彼の声を聞くや否、ハルドの気配は大空へと消えた。ルナがパンパンと手を叩くと、精霊達が窓を閉める。ソファから立ち上がったルナは、扉の傍に立っているハーネットの手を握る。困惑した表情の彼に、
「申し訳ないとは思うんだけど、先程の守り神様を呼んできてくれる?話が、したいの。今後は、彼にも協力をしてもらいたいから。」
「あの方は私めが呼ばずとも、すぐ傍に来られますよ。」
ハーネットの言う通り、ルナが座っていたソファに風の精霊が集まり、狼の形を成す。顔は1つしかないが、ケルベロスを想起させる風貌だ。ハーネットから手を離したルナは、狼と対面するようにソファに座り、長年の間に蓄積したルナを守っていた精霊石をテーブルに置く。狼が、鼻を鳴らす。
「足りない、ってわけではないんですよね。こちらとしては、お礼をしないわけにはいきません。」
《人間の娘は、大人しく強者の庇護を受ければ良い。その小さな命を燃やして創り上げた物を、受け取るつもりはない。》
受け取ってくれない狼は、大きな尻尾をゆっくりと動かす。ルナの記憶の中でも変わらない、その姿。あれだけの数の亜種達を倒す為に、彼が率いるウインディアは、本当に活躍してくれた。レインの記憶では、ルナを封印してから、大勢の魔法士達が惨殺され、ウインディアも数を減らした。月夜に狼の遠吠えを聞いた者達は、ウインディアであろうがなかろうが、その導きを受けて山を越えたようだ。だから、レインの血縁も存在するのだ。
「今も昔も変わらず、お優しいですね。あの時、言葉を交わした貴方様がここに居る奇跡を、涙無しには拝見できません。」
《ルナ、頭を撫でたいのであれば、撫でなさい。尾を触りたいのであれば、触りなさい。どれだけ歳を重ねようと、ルナは可愛い我が子です。》
ポタポタと落ちる涙を手で掬い上げるルナの膝に、狼が顎を乗せる。まだソファに座っても足が床につかなかった頃、彼はそうやってあやしてくれた。子どもの頃の記憶が、目まぐるしく思い出され、
「…っ!ああ、会いたかった。こうやって触れられて、今凄く幸せです。貴方様の声に応えて、手伝ってくれたグリフォンは、今や世代交代しました。もう、飛龍も昔の形ではありません。ケルベロスは、弟のオルトロスを失い、ユニコーンは雑交して、白を失いました。私も、あの身体には戻れません。」
ハーネットの存在を忘れて、理想の父親像の狼を抱きしめる。くぅーん、と鳴いてくれる狼に、
「貴方をお父さんって、ずっと呼びたかった。あの戦いの中、いつ会えるのかを楽しみにして、やっと会えた!」
《貴女は、我の娘で間違いない。それで、良い。血の繋がりよりも、心を大切にしなさい。》
父親代わりの狼の温かさに包まれ、久々に心を休める時間を手に入れるのであった。




