725,偽物聖女は抜け出せない
クラゲと一緒に空間がズレている筈だが、リティアの腕に泥がかかる。ジュワジュワと音を立てる割に、痛みは来ない。しかし、目の前に広がる光景が変わっていくのだ。私を、一族の誰もが、指差して、嘲笑う。居ない、聞こえない、触れない、筈だというのに、髪を掴まれた。掴んだ人間が誰かは分からない。ただ、思う事は、
「負けない…」
こんなところで、幻覚に囚われてなるものか。ピースの命が危ないんだ、と自分を奮い立たせ、黒い泥を腕からはたき落としていた。
「そんな量では、びくともしないか。馬鹿みたいに図太い様は、そこらの雑草と変わらんな。」
リガに鼻で笑われて、静かに彼を見据えるだけ。彼の興味が再度ピースに向き、
「こいつらを騙してきたのだろう?反論すら、できないか。」
「…。」
嘲笑うリガに、涙を溜めるピース。その唇はきつく締まり、何も語ってはくれない。リティアはクラゲを内側から触れて、
「クラゲさん、私を上へと跳ね上げて下さい。クラゲさんは下の方で待ってて下さい。」
小声で頼めば、クラゲは点滅してからリティアを飛ばした。リーキーもピースも、リティアを見上げる。それに釣られてリガも見上げてきたから、囮の針を右目に向けて投げた。忌々しそうに手で囮を弾こうとする彼の死角を狙うリティアは、降下しながら彼の手が目を隠した瞬間に、蛙の毒を塗った針を顔を目掛けて飛ばす。降下しながらなのだ。リティアの目論見通り、顔よりも更に下である首に針が触れた。リガの舌打ちが聞こえる中、クラゲが迎えに来てくれた。また、クラゲと共にズレる感覚が訪れる。
「こんな子ども騙しが、何になる?」
「この毒は、狩りに使用するものです。少々で相手の動きを奪います。そんな毒でさえ、貴方は解毒薬を持ってないと思いますよ。」
針を握り潰すリガに、クラゲの中から挑発する。リガの目をピースから離させてリティアへと向かせたら、リーキーが動いてくれると信じて。不意に、ピースの両手が挙がった。リーキーに抱きついていた手を離し、そのまま後ろへと倒れ込む。
「ピースさん!!止めて下さい!」
反射的にリティアが叫んだが、彼はリーキーの腕からすり抜ける。リガよりも何より、ピースを助ける。リティアがクラゲに頼めば、彼は愛用していた傘の形へと変わり、魔術陣を描かせてくれる。下から風を巻き起こし、竜巻を作り上げる。ヒルも飛ばされ、ピースも竜巻に巻き込まれる。リガは竜巻から逃れるように、リティアから離れて行き、リーキーへと近づいた。
「リーキーさん!リダクトさんの言葉を真に受けたら、お兄ちゃんに怒ってもらいますからね!」
先に釘を打てば、リーキーは吹き出して笑う。そして、
「誰かを傷つける事に慣れていない、平和そのものを守らない方がおかしいですね。」
大金槌を振り回した。リガが片手で振る棍棒が、大金槌にぶつかりに行って、黒い泥が飛び散る。竜巻の威力が弱まったところで、地面に落とさなかったピースの元にクラゲがエスコートしてくれる。ピースの髪はぐちゃぐちゃになり、リティアを見上げて震えていた。両手を広げて、目一杯抱きしめる。それ程変わらない身長の子どもに、注いだ愛情を伝える為に。クラゲが2人を飲み込み、ゆっくりと地面に降りていく。ヒル達が、共食いをしている森の中で、リティアはピースに微笑む。
「ピースさん、いつものリガさんの事は好きですか?」
「も、も、もちろんだよ…」
ボロボロと大粒の涙を流すピースの頭を撫でる。ビクッと肩が跳ねるピースだが、リティアと目を合わせると、徐々に力が抜けていく。
「でしたら、酷い事を言う人をリガさんの中から追い出しましょう。手伝ってくれますよね?」
「り、リティアは怖くないの…?」
ピースの手を取るが、すぐに引っ込められてしまう。怯えた瞳で見上げる彼に、
「リダクトさんが悪い事をしているんですから、立ち向かいます!」
頑張ります、と笑えば、彼の瞳は大きく揺れてから、俯く。その両手は、ズボンにシワを作っていく。
「そ、そうじゃなく…」
「ピースさん。」
言葉に詰まる彼の頬を両手で挟み、親指で口角を軽く押し上げてみる。満月のように丸い目に微笑み、
「ピースさんは、私達の大切な家族です。それ以外の何者でもありませんよ。」
「…う、ううう。」
コツンと額と額を合わせると、ピースの涙はリティアの手を濡らしていく。ヒルが飛びかかってきても、クラゲが弾いてくれる。
「クラゲさん、リガさんの中からリダクトさんの魔石を抜けますか?」
今も既にたくさん頑張ってくれているクラゲに頼むと、クラゲはキラキラと光り輝き、2人を空へと連れて行ってくれる。乱暴に頰から泥を拭うリーキーの息が荒い。ぶらんと片手が下がったままのリガの顔色は、青白い。リダクトは、リガの身体に無理をさせているのだ。あれでは、倒れてしまう。リガから睨まれてピースが震える中、リティアはポーチから小瓶を取り出す。これは、蟻酸。身体に触れれば、赤く腫れ上がる。リティアが投げる素振りを見せると、容赦なく泥が飛ばされた。泥がピースにかからないように、リティアは自ら泥を浴びに前へ出た。祖父の身体が崩れ落ちる瞬間が、頭の中に浮かび上がる。その事実は覆らない事に耐え、
「私は、折れません。どんな惨劇を見せられようが、罵声を浴びさせられようが、私自身、生きたくて生きたくて仕方がないんですから。」
今度は本当に小瓶を投げつけた。麻痺していない手で棍棒を振るい、小瓶を割るリガ。割れた小瓶から飛び散った蟻酸は、竜巻から逃れたヒル達に撒き散らされ、炎症を起こして何倍にも膨れ上がった。リガの顔が歪む。
「貴様は、この身体を壊す気か!」
「解毒薬は、所有してますから。リダクトさんを追い出した後に、治療します。」
リティアが彼にも微笑めば、後ろからヒィッと小さな悲鳴が聞こえた気がしたが、そこは振り向かない事にする。
「そこらの魔法士なんかよりも、遥かに厄介な戦い方ですね。敵ではなくて、本当に良かった。」
苦笑いするリーキーに、リティアは小首を傾げる。氷の羽根が再び発射され、今度はクラゲの全身が弾いていく。そのままリガへ突進して行き、リガの方が後ろに逃げようとしたが、リーキーの大金槌が振り下ろされた。一瞬の足止めで、一気に距離を詰める。クラゲの中からリガの胸に手を伸ばし、
「その身体も心も、リガさんの物です!出て行って下さい!」
クラゲと共に服をすり抜けて、身体の中に生温かい物に触れた感触があった。内臓を弄るなんて乱暴をした事はないリティアは、血の気が引く。リガを助けたいのに、これではリティアは助けられない。リティアは、リガと目が合い、
「リンノがつけていたリボンは、貴様のか。」
睨まれる。何かを言い返せる状況ではない。手を抜くわけにはいかず、彼の心臓を探して、優しく握った。ドクン、ドクン、と波打つ心臓に硬い棘がある。本体が見えない中、その棘だけを掴むと、肉と癒着している感触から抜け出せない。魔法を使わないで睨むリガを見る限り、今の状況は彼としても難しいのだろう。どうやって取り除くべきかと緊張するリティアの脇の下から、ピースが顔を出してきて、
「リガを助ける…」
そう呟き、リガの身体に入りかけているリティアの手首に唇を這わせた。じゅるじゅると音がする。リティアの指先の棘が小さくなっていく。指で触れていた棘がなくなった瞬間、リガが力なく落下して、リティアの手も彼の中から外れる。何故か、血はついていない手。リーキーがブロックを蹴って、リガよりも先に降下して受け止めてくれたから、こちらもクラゲに地面まで連れて帰ってもらう。ピースの唇は、未だリティアの手首にくっついている。泥まで、その口で吸い込み、
「大丈夫。おいらなら、大丈夫。」
まるで、言い聞かせるように耐えるピースを、手が自由になった段階で後ろから抱きしめた。




