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714,旧聖女は歌い始める

 この器が壊れて困るのは、ルナだけではない。取り引きを持ちかけたレインだって、困るのだ。旧校舎内に空気がないとしても、人形のルナには関係がない話。セイリン達と別れて単独行動して、現校舎内の音楽室の扉を精霊に開けさせる。ルナが入室してすぐに鍵をかけて、窓ガラスを眺める。窓ガラスから射し込む光が、太陽由来から精霊由来に変われば、ルナは窓ガラスに足をかけて、そのまま向こう側に落ちる。綺麗なピアノの音色が、ルナを迎える。ルナが長年見てきた姿から、かなり幼くなったレインを見上げ、

「私、飛龍達の誘いに乗るけど、言いたい事あるかしら?」

笑顔を作って余裕を見せてみたが、本当は別の取り引きをして欲しい。この身体を失う事は、惜しいのだ。リティアの心臓の一部が練り込まれた人形だ。そこらの不出来な人形とはわけが違う。レインは鍵盤を弾く事を止めて、ルナを見下ろしてくる。突然に目を細め、

「ルナちゃんから、話しに来てくれるとは思わなかったよ。」

幼い頃を思い出させる程に優しい声色に、ルナの背筋が凍る。昔ほど拒絶はしなくなった方だが、嫌いな事は変わらない。こいつのこの表情が、姉を誑かしたんだと思うと!拳に力が入るルナの前で、指を鳴らす。

「使えるかは、分からない。ただ、アリシアの一部が入った人形がある。」

制服を着たリティアの人形が、尻餅をついているルナの隣に現れた。彼女の人形は、ぐっすりと眠っている。

「センは、使えたよ。口は開かなかったみたいだけど。」

「…この器を置いていけば、良いのね?」

囮として出て行く事に変わりはないが、予備の人形の存在を知る事が出来た事は大きい。アリシアの力を感じない人形の頬を撫でてみる。自分が使っている人形よりも、人形らしい人形だ。確実に、製作者が異なる。

「だって、ルナちゃんも嫌だろう?彼奴等に、壊されるのが。」

彼の声が沈む。ルナは鋭く視線を流し、

「アリシアは貴方を信じるな、とよく言ってた。」

「それは、ルナちゃんをひとり占めしたいからだろう?彼女の中に、君の幸せを願う心なんてないさ。」

鼻で笑ってみせるが、彼の眼差しは真剣そのものだった。茶化しを軽く返す感じを見せない。アリシアのレインに対する暴言の数々を忘れたわけでは無い。ルナでも、その言葉は腑に落ちる。

「…そうかもね。貴方だって、幸せを願ってはくれないでしょう?リティアも私も、復讐の為の道具に過ぎない。」

だからといって、ルナを封印した張本人である彼が、味方であるわけがない。嫌悪する心を抑えつつ、できるだけ冷静にいようと努めた。

「そう見えるのであれば、俺の努力が足りないのだろうな。俺は、あの子を心配する事に注力し過ぎて、他に魔力を回せないんだ。だからハルドも、自力で出てきて貰わなくては困る。」

「その割に、ブルドールの子を離さないじゃない?」

眉を下げる彼の背後を指差せば、光る魔石が浮遊している。その姿でも話せるだろうに、ディオンは静かに傍観していた。

「彼は精霊に晒して、耐性をつけているところだ。」

「ふーん。わざわざ?」

貴方も大変ね、と魔石を哀れめば、魔石は首を傾げるように傾いた。自分が置かれた状況を理解できないとは、思えない。彼なりに、学びでもあるのだろうか?ルナが思案している中、レインはゆっくりと距離を詰めてくる。近づいてきた手から逃れようと、ルナが身体を捻るも、

「かけられた魔法が強力でなくても、自己暗示の力は侮れない。リティアやルナちゃんが己にかけた呪いは、それだけ絶大なものだよ。無能と信じ込むリティアに関しては、俺では解き放つ事ができない。」

頭を柔らかく撫でてきた。命が灯されていない人形の頭を撫でて、目を細める。人形の藤色の瞳が、無でしかない。ルナは彼の手を払い、

「…私が、どんな自己暗示にかかってるのよ?」

「大丈夫。お兄ちゃんが、この命を消滅させてでも救い出すからさ。まだ、もう少し待ってて。」

こちらの質問に答えもしないで、微笑んでくる。抑えていた激情が、一気に飛び出した。

「私に兄はいない!」

精霊達が、ルナの声に反応する。レインに一斉にぶつかりにいったが、彼は涼しい顔したままで精霊達と空間を隔てた。本来、空間の移動は精神に負荷が大きい。それを当たり前にやってしまうレインは、既に『壊れている』のだろう。そんな相手とまともな話をする方が、無理だ。そう考えて、もう一度感情を抑えるルナに、

「俺からしたら、君とカノンは可愛い妹だよ。」

「拷問を受けても尚、口を割らないくらいには?」

目を細めるものだから、こちらはまた鼻で笑ってやる。彼の手が再び伸びてきて、ルナは睨みつけたが、

「誰かを大切に思うって、こういう形もある。それに、俺がする事は復讐じゃないよ。彼奴に、まだ何もされていない。だから、されないままに勝ち取るんだ。この命を賭してでも。」

次は髪を梳くように撫でられる。気持ちが悪くてたまらない。こいつに触れる事を許していないというのに!

「…理解できない。」

《自分は、レイン様のお気持ちを理解できますよ。》

抑えきれない嫌悪を吐き出すと、だんまりしていたディオンがやっと話し始めた。レインの声色が、ルナと話している時と変わる。

「お前は、忠誠心だろ。保護心ではない。」

《言い方は違えど、同じです。あの方の為に苦しむ事も死ぬ事も、怖くありません。》

不愉快そうなレインに、魔石のディオンは自信あり気な笑みを見せたように思えた。


 ルナは、人形から人形へと移動する。かなり扱いにくい人形だが、壊される可能性を考えたら仕方がない。昼下がりにオウカを連れて街を出れば、呼んでいなくてもサクヤとセイリンがついてくる。街から敷かれた赤い道を歩くルナに、誰も何も言わない。だから、ルナも今からする事を何も伝えない。ルナから少し離れた位置で、空間が捻じれる。凝りもせず、あのサンニィール家の男が姿を現す。セイリンのレイピアは、すぐに彼に向けられたが、サクヤは金剛剣を呼んではいない。オウカの足元で、彼女に属する精霊達がざわめく。警戒するこちら側の事なんて、気にする素振りもなく男はゆっくりと近づいてくる。ルナは冷めた目を向け、

「頭を垂れよ、痴れ者。」

手首を軽く動かすと、精霊達が男に寄って集って地面に押し付けた。この仕草1つで、事足りる。あの子が、ルナを認識するには精霊達の動きを作るだけで良い。ルナが立っている地面が、唸る。セイリンが、よろけたオウカを抱き寄せ、サクヤはルナの肩に触れるか否かの距離に手を添える。

「流石は、麗しき聖女様…。そのような強大なお力は御健在ですか。」

「痴れ者への見世物ではないの。気安く視界に入れないでくれる?」

相手が平伏しようが関係がない。地面が大きく鼓動する中、片方だけの異質な瞳を光らせた男から目を逸らし、王都に棲み着くあの子に向けて、手を挙げる。

「オウカ、見ていなさい。精霊って、扱い方を少し間違えただけで危険な存在だから。」

年齢の割に賢いオウカには、見せる価値がある。男には見せてやる気がないから、精霊に顔が土にめり込むように押さえつけさせた。ルナが1音だけ伸ばすように歌い始めると、太陽が消えて月が現れる。精霊の星の川が、夜空を流れ始める。セイリンの感嘆だけが、ルナの耳に届く。この星空は、リティアの瞳にも映る。映らない人間は、精霊と関われない存在。魔術すら使えない純正の人間達だ。音階を下げる。精霊達が、夜空から大雨の如く大地に降り注ぎ、あれだけ揺れていた地面は静寂に包まれる。あの子が、動揺している。己を抑えられる存在が、まだ生きていた事に。ルナの意図を汲む精霊が大地に染み込み、あの子を一斉に襲う。物理的に目には映らなくても、精霊の動きで分かる。


グギャアアアア!


あの子の悲鳴がルナの耳を劈き、長らく静かにしていたサクヤの一矢が、男の喉元へと刺さるのであった。

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