713,偽物聖女は耳を狙う
ナックの冷たい眼差しが、リティアを見下ろす。勝手にリティアの心に入ってきた彼は、リティアの拒絶では出て行かない。この縛り付けられた子どもを解放するには、リティアしかできないのだろう。だから、リティアを唆す。けれど、それを断り、リティアがサクヤに助けを求めたから、彼は面白くない筈だ。
「これをして、貴方の思い通りになりますか?人間の心理からしたら、2度と関わりたくないとなるだけですよ。」
「会った時からリーナみたいだな、って思ってた。無邪気さを見せる中にも、肝が座ってる。」
リティアの牽制に、全く耳を貸さないナックは勝手に話し続ける。その間も光の球が弾けるのだが、ナックも氷で防御する。
「君、リーナなんだよね。本当の自分を仕舞い込んでおきたいのは、リーナの人格が消えるからだ。」
「私は、リティアです。その人ではありません。」
ナックの視線から目を逸らさずに、抵抗し続けるリティア。理由の分からない事を言われて、人格否定されて、リティアが怒らないわけがない。今の自分は、ハルドの無事な声を久々に聞けた事で、これからどうやって帰還するかを考えているという、近い未来に思いを馳せるのだから。帰ってからやる事やりたい事が、山のようにある。ここでの存在否定は、リティアを怒らせるだけだ。サクヤの光がリティアの傍に集まり、彼の姿を映し出す。
「所詮、君は人間じゃない。こちらの心なんて分からないだろう。枷の解放は、彼女に魔獣化しろと言っているだけだ。」
「それが、精霊に更に近付く近道だよ?新しい友達なんだから、当たり前でしょ?」
サクヤの幻影に対しても氷の刃が投げられたが、それは空を切る。だが椅子に刺さり、リティアは子どもの無事を目視で確認してしまう。腿が斬りつけられた彼女の肌から血が流れる事はなく、代わりにキラキラと精霊達が溢れていく。止血を!リティアは咄嗟に、自分のスカートを落ちている氷の刃で引き裂いていく。ナックが待ってくれるとは思わないが、傷を放置したくなかった。ナックに一瞥を与えてから、彼女の腿にスカートだった布を巻いていく。何も写さない彼女の瞳が、気のせいかもしれないが、リティアを見下ろしているように思えた。
「そんな風に気に掛けるなら、縄を外してあげなよ。」
「こいつの戯れ言に耳を貸すな!」
ナックのため息を掻き消すように、サクヤからの2回目の制止が響く。リティアも、不思議と外そうと思わない。恐らく、外すべきものではないのだろう。早く治るように、と願いながら布を結ぶリティアの頭に水が当たった。反射的に顔を上げると、彼女の瞳が大粒の雨を降らせる。
《おか…さんに、あいさ…たい…》
彼女の悲痛の叫びに、リティアの唇がきつく締まった。ある時から、ずっと。ずっと。ずっと、ずっと。
リティアは、その存在と再会する事を拒んできた。
そうした方が、自分を守れるから。
不用意に心を傾ける事なく、一線を引いて無関係な他人と扱った。
それを今、彼女は再び向き合えと言うのだ。
リティアは、目の前の彼女から手を離す。とりあえずは攻撃を止めたナックを振り返り、
「ナックさんは、彼女と私は別人だと認識してますよね。理由は何ですか?」
リティアの目に映らない何かを見ているだろう彼に、問うてみる。彼は氷の剣を生成しながら、
「それは、さっきも言った通りだよ。その子を解放する事に、不都合を感じているように見えたから。」
「それだけ?」
リティアは、鋭く睨む。けれど、彼は眉を動かす事なく、
「うん。十分過ぎる理由だよ。」
そう言って、剣を構えた。サクヤの幻影が、光の矢を放つ。リティアは、その眩しさの中で彼女をもう一度見据え、
「ずっと、その飢えを1人で抱えてくれて、ありがとうございました。色々な人から沢山貰いましたから、貴女にも渡さないと平等ではありませんね。」
その細い身体を抱きしめる。セイリン達や教師としてのハルド達、少し強引な愛情をぶつける兄や、間接的な愛情を注いでくれる父の顔を思い浮かべ、最後には大好きな祖父母の笑顔を思い出す。彼女に、どれだけ伝わっているのかは分からない。ただ、彼女はこちらを拒絶する事はなかった。頭を傾けて、リティアの肩に寄せている。彼女の瞳が、リティアを見上げ、その瞳は同じ藤色を宿す。光の矢の威力が弱まったのか、眩しさが軽減された。ナックの剣が、リティアへと振り下ろされている。サクヤの絶叫に呼応するように、彼女の瞳が揺れる。守らないといけない。恐らく、ナックの狙いはリティアだろうが、彼女を置いて避ける事はできない。怖くないわけはないが、ここで目は閉じない。彼女を抱きしめながら彼の動きを見据え、タイミングを見計らう。髪に当たるギリギリまで相手を引き付けると、リティアは上体を捻って半身となり、彼が剣を持つ右腕に添わせるように己の右腕で耳を狙った。たった微かな力で、剣の軌道が反れる。丸い目をしたナックの胸から、光の矢が咲いた。彼もまた、血の代わりに精霊が飛び出す。
「へー?えー。俺達の新しい友達は、リーナでもやらない事をする。生への執着が、凄いや。あの子は、生きる事を諦めたのに…」
「私はその方ではなく、リティアですから。幼い頃からどれだけ罵られても、死のうとしませんでした。それが、私なんです。」
ナックの身体が透明になり、パーンと弾けた。彼の後ろにいたサクヤの幻影も、今にも消えそうな程に光が弱まっていく。
「リティア。学校で待っているよ。早く、帰っておいで。」
「ありがとうございます。王都でやるべき事を終わらせてから、帰りますから…。その、もう少しだけ時間を下さい。」
触れられないって分かっているというのに、彼は頭を撫でてくれる。こんなにも強くて優しい彼は、まるで兄のようだ。
「分かった。誰かに伝えたい事があったら、今言って。ここに残した力は、これにて使い果たしたから、君の心から出なくてはいけない。」
ふわっと微笑む彼の顔は、ディオンによく似ていて、本当に親戚なのだと理解できる。ディオンよりも更に逞しい身体つきは、密かに父を想起させる。まるで兄や父に伝えるように、
「私は元気に冒険してますから、土産話を楽しみにしてて下さい!」
目いっぱいの笑顔を見せるリティアに、
「ふふっ。無理は禁物だよ。」
彼は、リティアに手を振って姿を消した。
叩き起こされた朝。ベッドのシーツが、赤く滲んでいる。顔を青くするテルの頭を撫で、口をすすぐ水差しを持ってきたソラに礼を言う。
「魂だけで、リティアを助けに行ったんだ。そうしたら、身体への負担が思った以上に大きくてね。」
「リティアちゃん!?だ、大丈夫なの!?」
口の中の血を水で洗い流してタオルに吐き出すサクヤに、縋り付くテル。ソラの冷静な瞳も、若干揺れて見える。
「彼女からの言伝を受け取ってきた。本当に、肝が座ったお姫さんだよ。」
まずは2人に伝えると、ご機嫌になったテルは車椅子の改造を再開した。ソラは、テルが放り出す工具を拾う。サクヤは制服に着替えて、女子寮へと向かう。まだ寝惚け顔のルナに脳内会話で出てくるように頼めば、スズランを抱えたセイリンと、仲良く手を繋ぐオウカとシャーリーも一緒だ。可愛い娘達に目を細めてから、
「リティアからの言伝を預かってきた。」
この口から一言一句違える事なく伝えると、オウカの安堵を掻き消す程の号泣をするシャーリー。ルナは、静かに涙を溢すセイリンを見上げてから、
「サクヤ殿。私に何かがあっても、彼女達を頼むわね。」
ルナの自信に満ちた瞳が、こちらを射抜く。オウカの視線が、警戒するようにルナへと動いたが、彼女は口を閉ざした。サクヤは敢えて気が付かないふりをする。
「遂に、動くのかい?」
「ええ。そうしないと、リティアが帰って来られないそうだから。」
早く会いたいの。ルナは、楽しそうに笑った。




