711,偽物聖女は駆られる
はじめましてのフリをする筈が、宿屋のサリーはリティアを憶えていた。2度目の町で、またお世話になる。初夏に吹雪が吹く事はおかしいとの事だが、何故か今も降り積もっている。食堂で夕飯の準備を手伝うリティアは、鍋を回すサリーの深いため息を聞くことになる。
「この雪だと、今年の作物は不作ね…」
「芋も、雪の重さで痛むかもしれませんね。」
リティアは相槌を打ちながら、ぼんやりとリーキー達の帰りを待つ。クラゲを帽子のように被ったナックが食堂まで顔を出し、
「男3人は、元凶を探しに行くみたい。リティアは、俺とピースの世話をしてね。」
「お、お世話ですか…?」
不思議な事を言うナックに首を傾げると、
「リカーナも居るから、4人でぬくぬくする。」
無邪気な笑顔を向けられてしまう。世話って何だろうか?ひっかかりを覚える中、宿泊客に食事のコールをしに行った。
月が見えない夜空を見上げながら、大部屋でリカーナとココアを飲む。ピースは既に自分の分を飲み終えて、ベッドに転がっている。ナックは、そのピースをクラゲと一緒に見下ろすのだ。ここを出る前にリガが言ってた事は、人為的な妨害が入っているとの事。リガも吹雪で二の足を踏んだらしく、子ども達が行方不明になったり、宿泊客に賊が紛れ込み、ピースを捕まえようとしていたらしい。彼らを倒したら雪が収まったとの事で、この地域に影響できる程の存在があるという事だろう。リティアの前で揺れる精霊達は、この前訪れた時と変化は見られない。実際、リティアの訪問時は何も起きていないのだ。突然、ベルが鳴る。リガ達と再会してから、ほぼ鳴らなかったベルがだ。リンリンと鳴るうちに、部屋の風が踊る。リカーナが、楽しそうにベルの音に合わせて手拍子をすると、ピースも釣られる。ナックとリティアは、風の中心を凝視するだけに留め、相手が形を成すまで動かずに居た。徐々に浮かび上がる輪郭は、爬虫類のような角を持つ。縦に長い虹彩が、リティアを見つめる。そしてその瞳は細められ、
《我等が聖女。リティア、無事で何よりだ。》
優しい男の声が頭に届く。今まで堪えてきたもの、蓋をしていた感情が一斉に洪水を起こす。ボロボロと涙が溢れて止まらない。
「ハルさん…?」
リティアが懸命に涙を拭う中、優しい声は続く。
《そうであり、そうでない者だ。》
「飛龍さん?」
この声がハルドでなければ、彼に心臓を与えた飛龍である可能性が高くなる。完全には見えない風の幻影を見上げるリティアに、
《如何にも。》
声の主は微笑んだように思えた。気がついた時には、無我夢中で空気の渦に手を伸ばす。頭では触れられないと分かっていても、触れたい衝動に駆られていた。
「お二人共、ご無事でしたか?お怪我は?アリシアさんから酷い事をされませんでした?」
やっとの思いで抱けたものは、自分の肩。その肩を震わせながらも、彼を見上げる。龍の瞳もまた見下ろしてくる。
《元より承知の上で罠に掛かったのだ。アリシアが、信用に足りない事。リンノを仲間に引き込もうと必死で、彼のぎこちない芝居を見抜けなかったようだ。》
だから、無事だ。そう、彼は笑う。これが嘘でも本当でも、リティアの中から嬉しいという言葉が込み上げてくる。リカーナがそっと寄り添い、リティアの背中を擦ると、飛龍の瞳が大きく見開く。
《この魔力は、リカーナ婦人かい…?ああ。そうか。そうなのか。我等が聖女は、奇跡を引き寄せる。》
飛龍の中からハルドらしい話し方が飛び出し、彼の瞳に釘付けになるリティア。まさか。リティアの胸の奥で細い糸が引っ掛かるように、そしてそれは他の物を絡めて大きく育つ。
「ハルさん、飛龍さん、魂が混ざり合いましたか?」
元はと言えば、幼きリティアが元凶。2人の融合に関する記憶は既に、思い出されているのだ。
《そうだよ。2人で楽しく生きてるさ。この前は、ディオン君を驚かせた。》
これは、ハルドだ。途中からハルドが表に出ていたのか?いや、本当は最初からハルドだったのか?彼の事だ。これは、教えてはくれない。楽しそうに笑う声を打ち消すように、大きな足音が扉の向こうまで迫ってきた。ピースが、反射的に飛び起きる。クラゲとナックが、ベッドに乗り上げて扉が開く様を眺める。扉を開いて短くなった白銀の髪を乱暴に掻き分けて凄むのは、リーキー。飛龍の瞳がゆっくりと振り返る。
《リーキー。結構、おっさんになったね。》
「貴様、何のつもりだ!長らく、魔力を揺らせど、出てこなかったではないか!」
ハルドの笑い声が止まらない中、リーキーが怒鳴る。眉を顰めたリガに押し込まれて、とりあえずは扉が閉められた。リガとリファラルが、風の渦を囲むように立ち位置を変える中、
《出て行けなかったが、正しい。ここの地域のヌシは、あまりにお強いようで、ねえ?》
ハルドの視線が流された先には、ベッドの上のナック。皆の注目を集めた彼は、
「俺は世代交代してきたから、もうヌシじゃないよ。」
鼻を鳴らして、何だか自慢気だ。リティアの知らない間に、秘密裏のやり取りでもあったのだろう。リーキーの大きめなため息が吐かれ、
「そうか。それで、今更何だ?」
《邪龍の瞳がこちらを見ている限り、この豪雪は止まらない。》
ハルドが教えてくれた事実に、リガの片眉が上がったように見えた。しかし、ピースがリガに抱きつき、その表情は優しいものに変わってしまう。風の渦を凝視するリーキーの眉間のシワが、段々と深くなる。
「どうすれば、目を逸らせる?」
《聖女の御成りを他の地域から響かせるのさ。少しだけ待っててよ。ルナと話をつけるからさ。》
飛龍の瞼が閉じられ、リティアの寮室が映し出される。リティアのベッドに座るリティアに似せた人形が、こちらを見上げて目が合ったように思えた。スズランも、こちらを見上げて声を上げる仕草を見せる。セイリンだけが首を傾げていて、彼女は元気そうで安堵する。ダンダン!と地団駄を踏む音に、映っていた景色が消えてしまった。物寂しいと感じるリティアの前で、
「この時間に女性の部屋を覗くとは、何事か!」
《やっぱり怒った。別に、困る物は映ってないよ。それよりも、リティが残念がっている。》
空気の渦を握り潰そうとするリーキーと、それを笑うハルド。次の注目の的は、リティアだ。止まらない涙を流しながら、微笑むしかない。ピースの頭から手を離したリガが、一歩だけ前に出た。
「今、映ったリティア様が、聖女ルナだと言うのか?」
《そうそう。流石、リガ。よく分かっているじゃない。今回の妨害の原因君?》
ザワッ。今の一言により一瞬で空気が変わる。暖炉がついている筈なのに、息が白い。窓が激しく震え、その刃は1番窓際のリティア達に降り注ぐ。クラゲが壁を作るよりも先に、ハルドの風が外へと吹き返した。リガの拳に、力が入る。
「…俺が何をしたというんだ?」
微かに震える声だが、その瞳は強く渦を射抜く。ピースが感情のままに渦に飛びかかり、大風が彼を簡単に弾いた。飛龍の瞳がゆっくりと開き、
《親父に居場所を教えているようなものだろう?》
ハルドが言わんとしている事が分かる。リガの心臓に、リダクトの物が寄生しているのだ。リーキーが苦々しい表情で腕を組む。リガは唇を噛んだ。
「父の命令で兄さんを探しに来たのに、何故妨害が入る?」
《まさか、邪龍をあいつの意思で動かせると思っているのか?邪龍と繋がっているあいつの心臓から、お前へと干渉が可能ときたら、危険因子には来てほしくないものだろ?》
飛龍の顔が険しくなると、リーキーは深いため息を吐いた。
「要は、親父の心臓から位置を割り出した邪龍が妨害しているんだな?怖いのは、俺か、ナックか。」
《そこまでは分からないよ。心が、読めるわけではないし。》
何も言わずに静かなリファラルへと視線を流すハルドは、
《直接的に作用はできないだろうから、中継地点とされた生物を探しても良いかもよ?》
またね、リティ。と笑って姿を消した。途端に、大吹雪が部屋に押し寄せる。リファラルの急ごしらえの氷の窓が作られて、事なきを得たが…。




