691,桜鹿は見舞われる
早朝から校内が騒がしかった。最初は、テルが気にかけている男子生徒の事か、と思ったが、血相を変えたセイリンの暴走っぷりに、すぐさまそれ以外の件と理解する。シャーリーと教室に入るや否や、壁一面に広がる血痕の跡に生徒達が腰を抜かしていた。確認の為に他の教室も覗くと、そちらにもある。ふーん、と声を漏らしながら、2年生の教室に向かうオウカの後ろをシャーリーがついてくる。
「寮で、人が居ない、なんてなかったわよね?」
「ない。そんな声は聞いてない。けど、血の匂いだった…」
彼女を振り返って確認を取れば、彼女も小さく頷く。ルナが居る教室の前には、人集り。セイリンが、下がれ!下がれ!と怒鳴っているというのに、誰も動かない。オウカは、すぐさまシャーリーの手を握り、
「良い?この肩で生徒を突き飛ばすから、教室に入って。セイリンさんを手伝うの。」
「はあ?」
シャーリーの反論を待たずに、女子生徒にぶつかっていく。悲鳴をあげる生徒を無視して、シャーリーを教室に押し込み、オウカは木が生える幻覚を通路の生徒達に見せた。簡単に道を開ける生徒を見下しながら教室に入ると、床に赤い血で描かれた魔術陣を見つけた。その中心に、ルナ。彼女の血ではない。彼女は、人形なのだから。
「リティ!」
セイリンが殴る蹴るの行為を繰り返す、ルナまでの距離の見えない壁。要は、結界だ。センが無言で魔術陣に触れると、精霊達が荒ぶる。ここに双子は来ていないらしい。
「私、何かお手伝いします?」
「いえ。やった本人が出てくるまで待ちますから、大丈夫です。」
オウカは手を挙げたが、ルナから断られた。彼女は、セイリンよりも遥かに冷静だ。何度も、死地を潜り抜けているのだ。当たり前か。オウカはシャーリーと顔を見合わせてから、
「リティアさんだけが、そこに行ったのですか?」
「いいえ。一緒に居たセイリン、ちゃん達は弾かれたんです。」
オウカが聞けば、リティアを真似て答えてくれるルナ。少々不自然さが残るが、彼女なりに頑張っている。
「選択性の結界は、魔法士ではないと…ですね。」
オウカが結界に触れようとすると、セイリンに制止された。貴女に何が、と口から出そうになった時、ルナが立ち上がって、
「ええ。そうですよね?何も得られない聖者紛いさん?」
黒板に亀裂を入れた。結界の外に魔法を作用させたのだ。センも、精霊達を乱し続ける。
「…お前、誰だ?」
「偽物を掴まされて、今どんな気分かしら?」
知らない男の声と共に、平たい筈の黒板の亀裂から顔を出した仮面は、大精霊ルーナ教のもので。オウカが、すかさず男に桜の花びらを吹き飛ばす。
「ぐっ!?」
パンパンと小爆発を起こす花びらに男はよろめき、隣の教室へと後退した。花びらで追撃をすると、
「サクヤ・ブルドールは、この一投を後世の聖女の為に捧げよう。」
センの手の中に金剛剣が出現し、それは黄金の弓に姿を変える。放たれた黄金の矢は、オウカの花びらを串刺しにし、男の腹部に命中した瞬間、ブォンと音を立てて形を無くした。
「…ふっ。ラグリード家は、恐れを成したか。」
男が、己の無傷な腹部を触って笑えば、
「長たる者は、勇敢である事を求められるのだ。自らの巣に戻り、主の身体を確かめてくると良い。我が愛しき子孫との合わせ技は、その鱗を貫いた。」
「可哀想な子。貴方なんかと繋がらなかったら、その痛みを知る事なく眠れたというのに。」
センが鼻で笑い返し、ルナの冷ややかな目が男を突き刺す。オウカが、更に花びらを飛ばそうと手を挙げた時、背後からシャーリーのうめき声が聞こえた。メルスィンが、シャーリーの首にナイフを突き立てている。
「そこの無礼者!その方は、国の為に戦われておられるのです!すぐに攻撃を止めなさい!」
彼女の目はオウカを見ているが、シャーリーが大人しくしているとでも思っているのか?セイリンの足首が軽く動く素振りを見せたが、それよりも前に、ギラリと光を鋭く反射させる大鎌がメルスィンとシャーリーの間に出現した。不特定多数の不協和音の悲鳴が響く。
「死して漸く、妹への想いが形を成したようね。」
静かに呟くルナの口角が上がった。オウカは、テル達から軽くしか聞いてはいないが、シャーリーの姉と推測する。大鎌切に喰われたという、それであろう。
「オウカ、その幻覚の形を変えられるかしら?」
ルナからの無茶振りに、いくら何でも首を横に振る。どういう原理か分からないだけでなく、シャーリーの姉の顔を知らない。そう、と一言で終えるルナに、セイリンが眉を顰めながらもシャーリーをメルスィンから引き剥がす中、センは男を見据える。大精霊ルーナ教の正装を纏う男の手から黒い球体が飛び出し、オウカの花びらが1つ1つにぶつかりに行く。衝突して消失する度に、オウカの胸が苦しくなり、回数を重ねると、喘鳴に見舞われた。母の死に顔が目に浮かび、オウカに乱暴した貴族や、その使用人達が一斉に押し寄せてくる。足に力が入らなくなり、その場に崩れ落ちると、男の手がオウカの頭に触れた。悲鳴をあげる前に、ケッチャの見慣れた呆れ顔が浮かび、涙が溢れる。
「我が子に何をしてくれた?」
「ごっこ遊びに付き合う気はないのでな。」
ケッチャのような誰かに足に重い頭を寄りかけるオウカの耳に、2人の男の声。
「貴様の仕えるアレよりも、古き存在への敬意が全くなってないようだな。この一投は、我が子を守る為に贈る事にする。」
耳に入る声は知っている筈だが、オウカの頭は何も判断できない。光の雪が頬を掠める、手の中に落ちてくる。その1つが目の前で弾け、日常を映し出した。シャーリーがパンケーキを焼いて、オウカがパンケーキの上に林檎で作った花をトッピングして、テルが珈琲を淹れて、店内で座って待つ白銀の髪の少女に運ぶのだ。その表情は、人形のように可愛らしい笑顔で、
「ありがとうございます!とても美味しそうです!」
鈴のような声が響いた。
町に属するギリギリのラインまで足を運ぶ。馬車に乗った友人との別れを惜しむ為に。カルファスの手配が早く、校長の家にまでお邪魔する事になった。ボロボロと泣くのは、テルだけじゃない。手を振るアギーも、大粒の涙を流す。校長とミィリ、そしてラドが、テルとソラの後ろで静かに見守る中、カルファスやセセリが御者に何かを伝えて、下がってくる。
「では!お元気で!」
「王都に辿り着いたら、絶対に寄るんだぞ。」
アギーの声に皆で手を振る中、ラドの低い声は彼の元まで届き、
「はい!」
先生、ありがとうございました!と、馬車が遠くなっても、アギーの感謝の声が響いてきた。テルがラドを振り返ると、既にカルファスがセセリとマドンを使って、ラドの退路を断っていた。
「貴様も知っているだろ。俺の母から御守りを受け取るように伝えただけだ。」
「へえ?戦闘狂の貴方から、他人を気遣う言葉が聞けるなんて、国がひっくり返りますね。」
片鼻が引き攣るラドを下から見上げるように嗤うカルファス。テルがよく見ている彼には思えない程に、その瞳は軽蔑を含んでいた。ラドが腕を組み、
「今すぐ、貴様を転がしてやる。」
「教師もあろう方が、生徒と喧嘩しないで下さい!」
地を這うような低い声で威嚇すると、ミィリが慌てるのは2人の間に割り込む。カルファスは数歩下がり、ラドはガタイの良いマドンを押し退けた。丸い目のマドンと、肩を竦めるセセリ。2人は、カルファス達を止めなかった。彼らからしたら、大したやり取りではないのか?テルが首を傾げる中、
「ラド殿は、立派に大人になられましたよ。口で済むなんて、昔では考えられないですからね。」
「校長先生は、ラド先生を昔から知っているんですか!?」
目尻にシワを寄せた校長がラドの肩を叩き、テルの興味を全て掻っ攫った。ソラの制止の声は気にせずに校長に駆け寄ると、
「もう少し若い頃を、ってだけです。あの頃は、毎日誰かと殴り合いをしておりましたから。」
眉を下げて苦笑いをされてしまう。
「…私は、存じ上げないのですが。」
「こんな老いぼれを知らなくて、結構です。ハルド殿は、口外しない約束を守ってくれていたようですね。」
ラドの眉間にシワが寄り、穏やかな笑みを浮かべる校長が踵を返す。ミィリも彼の後ろに続き、テルもソラと一緒についていく中、
「カルファス、黙れよ?」
「まだ、何も言ってませんけど?」
まだ後ろで、啀み合っているラドとカルファス。セセリとマドンに、両肩を押さえられているカルファスは、ラドを睨んでいた。コホン、と校長が咳払いをし、
「まあまあ。学校に帰りましょう。誘き寄せた者が、聖女様に押さえつけられたみたいですよ。」
その言葉で、ラドは校長すら置いて学校へと疾走する。カルファス達と顔を見合わせたテルが、首を傾げると、
「大物取りをしたんですよ。」
ミィリが、厳ついグローブを手に填めた。




