624,退役魔法士は薔薇を創り出す
万羽の大森林を抜けたリファラルは、山盛りの荷物が破かれていないかを頻りに確認しながら馬を進める。リティアを保護した際に必要な魔除けの首輪、聖女としての装束よりも防寒着、魔法薬と、念の為の魔術薬、そして彼女の父兄からの手紙。どれも大切な物を抱えて、大昔に通った街道を目指して進む。できれば、何の憂いも無しに旅をしたかった。しかし、大切なお嬢様を奪われて呑気に旅をするわけにはいかない。変わらぬ草原と山を眺めながら、変わった街道の道筋を確かめる。いくら経験があっても、迷うかもしれない。それでも見つけるまでは、止まらない。夜には村の傍を通るだろうが、村に寄る時間が惜しい。それに今から見える村に彼女が居たのであれば、とっくにトレントの枝を折って工作しているであろう。彼女は、そんな女性だ。村が寝静まった後に付近を馬で駆け抜けつつ、彼女の残り香を探す。しかし、リファラルの瞳に映る精霊は彼女の色を持たなかった。ここには来ていない、と判断してからは、脇目も振らずに夜を跨ぐ。雑草すら疎らに生えている道へと歩みを進めた馬が、突然立ち上がった。氷の馬であって、本物とは程遠い筈だが、反応は同じ。何かを嫌がっている。振り落とされないように馬の背にしがみつくリファラルは、馬が足を降ろしたところで尻を叩いた。走りたくない彼を強制的に走らせる。首をぶんぶんと振りながらも走る馬の上から、昔にはなかった人里が見えた。何度も嘶き、幾度となく立ち上がり、あの人里に近づく事を嫌がっている事が分かる。人の足で歩いて、半日はかかりそうだ。既に先の夜を寝る事なく、2つ目の夜を迎えたリファラルにとっては、歩かずに宿に入りたい。その為、ここで馬を降りて彼の腹を叩く。
「私は、今から他の方法で町に向かいますから、貴方は先に街の向こうに…」
「ブルルッ。」
こちらが言い終わる前に顔を横に振る馬。どうも、リファラルも行ってはいけないようだ。そうなると、野営するしかなさそうだ。リファラルは彼の顔を軽く掻き、
「分かりました。今夜は、この近くで焚き火をしましょう。」
そう伝えると、グルッと大きな円を描くように粉を振り撒き、その中心の地面に魔石を挿し込んだ。魔石の結界が広がり、リファラル自身も結界を張る。馬も納得したようで、足を折り曲げて座った。リファラルも冷たい彼の身体に背中を任せて、焚き火を始める。彼の身体を預けて見上げる夜空は、若き頃に見た姿と変わる事なく輝いていた。
日が昇る頃には町に辿り着いたが、町というよりも小さな集落だった。そこに住む皆が不思議そうに馬を眺める中、不思議な残り香に目を奪われる。
「これは、リガ殿のものでしょうか?それに、まさか…彼も居るのか?いや、そんな筈は…王都周辺での目撃情報が相次いでいるというのに。」
白に近い青色の精霊の前を赤く燃え上がるよえな精霊が飛び、古びた小さな家に帰っていった。どうも気になって、馬の上から家を観察していると、
「あそこは、頭がおかしい婆さんが住んでいるんだよ。宿はこっちだぞ。」
「どのような女性ですか?」
親切にも宿に案内してくれる同じくらいの年齢の男性に聞けば聞くほど、居ても立っても居られなくなり、リファラルは宿に辿り着く前に気になった家まで引き返してきた。そうであって欲しい。そうであるならば、この命をいくらでも差し出そう。心臓が砕けても尚、戦い続けられる。他の人達にも止めるように声を掛けられるが、リファラルには彼らに微笑むだけで聞く耳を持たない。大きく深呼吸してから、扉を叩く。思ったより音を立てられない。この手が震えているのだ。緊張なんて、いつぶりだろうか。
「はーい。魔法士様、帰ってこられたの?」
弾んだ女性の声と共に扉が開かれ、彼女の瞳に目を奪われる。どちら様?と首を傾げる彼女を前に、リファラルは声を出せない。こみ上げる物が溢れ返り、どう振る舞う事が正解であるのかが判断できない。最後に目にした姿よりも遥かに小さくなってしまった彼女だが、その美しさは衰える事を知らない。彼女を守るように、リガと『彼』の精霊が傍を泳いでいる。まさか、孫が書いている小説よりも先に再会ができるとは思いもしなかった。だが、ここで満足するわけにはいかない。偶然にも、リティアが繋いだ奇跡をモノにしなくては。リファラルは涙を止める事を知らず、片膝を立てて屈めば、ゆっくりと彼女に右手を差し出す。その手を軽く握り、精霊を手の中に集中させた。これが人生2度目のプロポーズだ。いつだって貴女は、最愛である。若かりし日と同じように、1輪の氷の薔薇を創り出し、
「麗しきリカーナ姫。白と言うには程遠い私の心を受け取っては頂けませんか…?」
彼女に微笑むと、彼女は小刻みに震えた。その薄青紫色の瞳から自分と同じように涙を流して。
「私の、私だけの魔法士様!不束者ではありますが、どうか私をお導き下さい…!」
彼女のシワを増やした細い指が薔薇を受け取ると、花びらに口づけをする。まるで、あの日の再現のようだ。一族しか居ないパーティーで、たった一度だけの機会を手に入れたあの日。遠縁にも程があるリファラルが、親が決めた結婚をしたリザンに背中を押されてプロポーズをしたのだ。報われぬ恋が成就した日のように、彼女の笑みは女神のように綺麗だ。既に年老いた自分だが、あの頃のように軽やかに立ち上がり、彼女に触れないよう、けれども優しく抱きしめる。フリでしかない。抱きしめてしまえば、この震えが伝わってしまうだろう。彼女はとても優しい。この格好悪いリファラルに、自ら身体を傾けてきた。
「ああ…まるで夢のようです。」
「私もそう思います。カーナ、貴女を忘れた日は一度たりともありません。」
彼女の髪に擽られる頬がくすぐったい。彼女だけを視界に映す幸せに浸るリファラル。
「わ、わ、私、夢の中の魔法士様が沢山教えてくれましたから、今からでも頑張って思い出しますね。最愛のアナタ…」
背中に手を回してきた彼女に合わせるように、リファラルも腕の中に彼女を包む。他人なんて何も目に入らなかった。
夜は、2人だけの時間を過ごす。小さなベッドで彼女を抱きしめ、彼女が眠るまで優しく頭を撫でる。馬の魔法を解き、家に入れた荷物で扉を塞いだが、侵入者には良いトラップとなる。
「夢の中の魔法士様が…目の前にいらっしゃるなんて…」
寝言のようだが、悪い気はしない。話せば話す程、彼女の記憶は大半が抜け落ちている事が分かる。だから、リファラルは思い出話を彼女にし続けた。瞬間的に、彼女からその時の情景が口にされる事もしばしばあった為、時間をかければきっと…。
《餌を求めて、グールが彷徨い始めた。貴方に関しては抜かりがないとは思うが、細心の注意を。》
聞き覚えがある、否。人生を一変させたあの男の声が、頭に響く。忘れようにも忘れられるものか。波立つ心を抑えつつも、
《ああ…。やはり、ガルーダ殿でしたか。何故、ここに彼女を攫ったのですか?》
微かに彼女を抱きしめる力を強めて、姿がない彼と対峙する。赤い精霊が、リファラルの枕元に降りてきた。
《攫ったのではない。守った。あの青から。逃げる最中に己が身は捕らえられ、彼女のみを大河へ。その際に、心臓を一欠落とした。》
《一体、どういう?》
彼から語られる言葉に耳を疑う。若かりし日のガルーダは、リカーナに淡き恋心を寄せていた。彼よりも歳上の彼女は、その時既に我が子を育てていた時期だ。力技で私から奪ったのだと、長らく思い込んでいただけであったのか。
《あの青が、欲した。魔を産み出す母体として。目をつけられたは、本家とは暫し遠き彼女だ。貴方の耳に入れる『時』がなく、全てをかなぐり捨てて、守る為に己が身を魔獣に落とした。》
精霊がリファラルの額に触れた時、彼の記憶が流れ込んだ。




