613,姫騎士は納得がいかない
この宙に浮いているリティアの姿を模した女が、聖女ルナ本人である。まさかの事態に、己の失礼な言動を猛省する余裕はない。サファミア付きの従者達のように、床に額をつけようか、と膝を曲げた時、
「どうせ、この器は仮初めですから。本来の姿形とは異なります。」
ラドの肩に手をかけて、床に足を下ろす聖女ルナの姿に、セイリンの腸が煮えくり返りそうになった。頭を下げる事でさえ忘れて彼女を睨めば、
「セイリン・ルーシェ。その顔、絶対にあの子の前ではしないのにね。不公平よ。」
聖女ルナが、訳が分からない発言をしてくる。慌てて立ち上がったサファミアに、セイリンの後頭部が押され、
「わ、私の部下共々、失礼致しました!」
一緒に頭を下げされられる。これが、王女でなければ手で払っている。そのくらいには、納得がいかない。
「良いわよ。私も、覚醒めたばかりだし。さあ、私は忙しいの。校舎から出て行きなさい。」
聖女ルナが扉を指差すと、従者達が急いで扉を大きく開く。サファミアは何度も頭を下げながら、
「承知致しました!セイリンも、行くわよ。」
セイリンの腕を引っ張った為、
「わ、私は、ここでやらねばいけない事があるのです!」
感情に任せて彼女に抵抗した。目の前で、ラドが他の女と居る事がこれ程までに嫌な気持ちにされるというのに、何故サファミアの暇つぶしに付き合わされないといけないのか。
「貴女、誰に向かって!」
「そうよ。セイリン・ルーシェは、私の世話をしなくてはいけないの。連れて行かないでくれる?」
案の定サファミアが怒り出したが、聖女ルナがセイリンを引き止めた。サファミアは大きく目を開き、何度も振り返りながら外へ出て行く。本来なら、せめて見送りをすべきだ。たが、セイリンの足は全く動かなかった。扉が閉まってからも動けないセイリンの手を握ってきた聖女ルナは、
「大丈夫よ。正門を抜けた瞬間に忘れるから。」
「え。」
ふふふっと笑い、セイリンは首を傾げる。聖女ルナはリティアによく似た笑顔を浮かべ、
「聖女は、れっきとした魔法士なのよ。ラドでも、リンノでも、あの子と行動を共にしている人間を集めて。レインの気が変わる前にね。」
教師2人に己が上であるかのように命令して、リンノが素早く職員室に入る。一方、ラドは眉間のシワを深くさせていたのであった。
応接室の鍵を持ってきたリンノに連れられるように、ルナと向き合って座ったセイリンの後ろにディオンが控える。冷や汗をかいているソラは、ラドに担がれて応接室まで運ばれた。痛みに耐えているソラの手の上にハンカチを乗せるテルは、ちょこまかと背後を動いていた。
「ソラ君、久しぶりね?」
「…誰?」
ルナが、リンノからカップをソーサーごと受け取ると、ソラはテルのように丸い目をした。ルナは紅茶に口をつけたから、
「そ。リティアには見えないのだったら、妥協点よ。」
小さく息を吐く。それを見たセイリンはディオンを振り返り、彼とアイコンタクトを取る。
「姫騎士ちゃん。まずは、こちらの話を聞く準備をしてくれる?」
「私でしたら、いつでも大丈夫です。」
ルナのため息の矛先がセイリンに向き、慌てて背筋を伸ばした。ソファの後ろで動き回っていたテルも、セイリンに向けられた言葉を聞いてピタッと動きが止まる。
「まず、リティアに何が起きたのかってところからね。」
ソーサーごとテーブルに置いたルナから語られたのは、一緒に校舎から出た筈のリティアが職員室で魔法士と戦い、空間転移の魔法で遠方へ飛ばされた事。そして、その明確な位置は、レインやルナの魔法を持ってしても調べられない事。既にリファラルが、リティアを捜しに街を出立した事。当面の間は、ルナがリティアのふりをして過ごしながら、潜伏している魔法士を探し出して口を割らせる事だった。
「かなり無理がありませんか?」
「姫騎士ちゃんは、堂々と間違えたんじゃない。今更でしょ。」
そう言われると、ぐうの音も出ない。先程、思いっきりリティアだと勘違いしたのだから。テルの煩い足音がセイリンの後ろを通過して、ルナの真横に駆け寄った。その表情は悲壮感を漂わせ、
「リティちゃんは、無事に帰ってくるよね?」
「そうでしょうよ。私達が手を出せないという事は、彼女を狙う者達にも手が出せないのだから。」
ポロポロと流れる涙を腕で押さえるテル。ルナは目を細めて、彼の肩を軽く叩いた。テルは、垂れ始めた鼻水を啜りながら、彼女の手を取った。
「リファラルさんだけで、大丈夫なの?俺も何かできないかな?」
「彼だったら絶対に見つけられる。テル君は、まずはソラ君を助けなさい。それに貴方達は、ここで彼女の居場所を守るの。私が彼女の代わりに授業に出てあげるから。」
まるで幼い子どもをあやすように彼の頭を撫でたルナは、立ち上がってソラの足元で屈む。
「ソラ君。まず先に断っておくんだけど、この足を完治させる事は私にはできないの。それは、私へのリスクが大きすぎる。それと、貴方にかけられた忘却と洗脳の魔法に関して。私では対処しきれないから、自分の力で振り解いて。リティアみたいには…貴方の記憶を揺さぶられない。一緒に過ごした記憶が、あまりに少な過ぎる。」
彼女が首を傾げるソラの両膝に触れると、ソラの顔が痛みを感じて歪んだ。歯を食いしばる彼は、懸命に耐えているのだ。ラドとリンノは壁に沿うように立ったままで、ルナの行動を静観しているだけ。言葉すら発しない。あたかも、彼女に仕えている従者のようだ。そう考えると、セイリンの胸の中心が嫌な感情に襲われる。ラドに好き勝手言えるのは、サファミアだけではない。彼女もまたそうなのだ。
「これで、杖でもあれば少しなら歩けるんじゃないかな?姫騎士ちゃん、その顔はどうにかならない?殺意とは言わないけれど、その憎しみに満ちた顔をリティアに向けていないでしょ。」
表情には気を付けていたつもりだったが、ルナにバレてしまった。彼女が肩を竦めると、セイリンの背中は丸くなっていく。
「き、気を付けているのですが…」
そうだ、リティアには絶対に向けない。これでは他の生徒に疑われてしまう。ルナが、床についていたスカートの埃を手で払いながら立ち上がると、
「後ろの子なんて、苦笑いしながら貴女を見ているよ。」
セイリンの後ろを指差す。ディオンは、気がついていたくせに何も言わなかったという事か。
「ディオン…」
「セイリン様が、どういう心の内なのかと考えておりました。」
ムッとして彼を振り返ると、彼はどこか楽しそうに笑みを浮かべた。彼を手を振って叩こうとしたが、微妙に届かない位置に立たれていて、ディオンがニヤつく。確実に、面白がられている!ディオンに怒っているセイリンの肩を、ルナが叩きにくる。
「良い?私は、これからリティアよ。貴方達はそう呼ぶし、そうやって関わって。誰にも他言しない事。」
「それをして、ルナ様に何のメリットがあるのですか?」
更に後ろに下がって、安全な距離を確保したディオンが、やっと彼女に対して口を開く。確かにそうだ。どうして、わざわざ聖女である彼女がリティアに成りすます必要があるのだろう?
「成功すれば、この人形の器をもらえるの。そうしたら私、もう暗い部屋に独りで閉じ込められる必要はない。」
彼女は恍惚の表情を浮かべて、人形である自分の身体を抱きしめる。セイリンにとって、聖女への見方がガラッと変わる瞬間だった。




