605,偽物聖女は混ぜ合わせる
調合室の予備薬がなくなった放課後、来週の野外活動について話し合いながら、皆で補充作業をする。ソラだけは、ここに入れない為、手伝いを申し出てくれたが、ハルドが断った。彼の事は気になるが、朝のアレがあやふやになった事も気になる。
「じゃあ、リティちゃんはソラと動くの?」
乳鉢で乾燥蒼茸を砕くテルに聞かれ、
「はい、そのつもりです。未踏破遺跡の本格的な調査は、王国騎士団の皆さんがなさるという事ですし、単独行動を取りやすいソラさんが紛れ込んでいっては大変です。」
ディオンが包帯を洗っているシンクの傍で、軟膏を混ぜ合わせるリティア。セイリンが、医務室や職員室用に小分けをしながら、
「リティは、他人の事を言えないだろう…」
小さく肩を竦めた。苦笑いをするハルドが、使用したピンセットをバケツの中に作った石鹸水に浸す。
「リティよりも、ソラ君は無知による無謀だよ。危なっかしいから心配だ。」
軽く石鹸水を混ぜながら、1つずつピンセットを取り出すハルドに、
「それで、先生はリティちゃんと結婚するの?」
テルが乳鉢を抱えて彼の隣までわざわざ来てから、首を傾げた。セイリンの鋭い眼差しがテルに向くが、全く気にしていないようだ。
「何でそうなるかなー。40過ぎた男が、10代の奥さんって色々と問題しかないよ。それにリンノは、俺の元相棒ともリティをくっつけようとしていたし、あいつの尺度で物を考えたら、リティを困らせる未来しか見えないよ。」
「リティが、一妻多夫…」
ハルドが、パッ、パッと指から石鹸水をテルに飛ばしていると、小分けしていたセイリンが手を止めてしまう。みるみるうちに彼女の顔が青くなり、リティアは彼女の頬を人差し指で突く。
「あるわけないからね。リティも、リンノから何言われても真剣に悩まないで良いから。全ての元凶は、ディオン君の悪戯だし。」
ハルドが肩を竦めたと思ったら、シュッとピンセットをディオンに投げ、彼は水を滴らせる包帯の面で弾いた。2人の遊びのせいで、リティアの足元がびしょ濡れだ。
「いやー。リンノ先生が、ハルド先生とリティアさんが交際すれば幸せになれるって、話をしていただけですから。」
ディオンの嫌に強調された口角の上がり方に、リティアは確信した。これは、喧嘩に発展する。ハルドの手が出る前に止めさせなくては。
「今、こうやって皆さんといられて、既に幸せですよ?」
ニコニコっとセイリンに笑顔を向けると、彼女の頬が色を取り戻し、
「リティが、純粋で良い子だ。ディオン…?」
セイリンの睨みがディオンに向き、
「ええー。私が悪いのですか?ハルド先生ー。」
「いや、責任転嫁しないでくれるかい。」
ため息を吐いたハルドが、ディオンの頭を叩く。これで、ヒートし始めていた2人の喧嘩の腰が折れた。ハルドはピンセットを水で洗い流すと、
「皆、シャーリーさんに会いに行かなくて大丈夫なのかい?明後日は、生徒達は学校から出されるんだよ。」
「明日、行きますよ。喫茶スインキーでのソラの反応も見たいので、リティアに頼むつもりです。」
テルから乳棒と乳鉢を取り上げる。セイリンは、すぐさま空瓶を上体で覆って奪われないようにしている。そろそろ調合室から出て行け、という事か。
「無理だよ。今の彼は、あそこにも入れない。オウカさんの張った結界が、阻むだろう。」
「そうですね。リファラルさんに、先に伝えておきますか。」
軽く首を横に振るハルドに、リティアが頷く。正確には、リファラルの結界だ。魔法士と公にしているのは、オウカだけ。だから、彼女の結界と言ってしまえば、誰しもが納得する。手持ち無沙汰になったテルが、雑巾を取り出して濡れた床を拭き始め、
「…昨日、言ってあるよ。大丈夫。俺、諦めないから。あいつが俺を見えるようになったら、いっぱい喧嘩するんだ。あいつも俺も、気が済むまで。そしたら、また一緒に家族に戻るんだから。」
雑巾の上にボロボロと涙を溢すテルの表情は、どこか自信に満ち溢れていた。
海辺の町で、小麦色の肌の人に囲まれながら踊る。市場を舞台として。彼らの手拍子が楽器の代わりだ。踊りと踊りの間でポーズを取ると、拍手喝采を浴びる。ロゼットの踊りが終盤を迎えた時、海が大きく揺れた。噴水のように舞い上がる海水が、キラキラと光を反射して幻想的な瞬間を作り上げる。魔術士達は警戒態勢に入ったが、住民は気にしない。
「ららら〜♪ら〜♪」
ロゼットが終わりの一礼をしようと足を揃えた途端、女性の澄んだ歌声が海から聞こえて来た。ざわつく住民達、魔術士達が砂浜へ急ぐ。
《きたきたー!セイレーン!君に会いたかったよ!》
自分の中に入り込んだ精霊が喜んでいる。どうも危ない相手ではないらしい。ロゼットは、その姿を見る為に魔術士達の後を追う。彼女を探しに海水に触れた時、ロゼットのエメラルドが輝き始め、精霊が身体に流れ込む。酷い空腹ではなかったが、身体の中はしっかりと満たされた。
「ロゼット君、危ないから避難してて欲しい!」
ロゼットの面倒を見てくれているロディが、ロゼットの手を引く。彼の必死の形相に、首を傾げた。
「どうして危ないと思うのかが、分からない。」
「あの歌は、セイレーンっていう魔獣の物なんだよ!」
動かないロゼットを懸命に引っ張るロディ。小波が、ロゼットの足を撫でる。
「うん。知っているよ。俺達に手を貸してくれるから。」
彼に微笑んでその手を緩ませると、ロゼットは後から来た大波に身を拐わせた。真っ逆さまに海底に落ち、神殿へと招かれる。水と一体化した巨大な龍が、ロゼットの周りを泳いでいる。
《水龍さん、またお会いしたね。セイレーンは、何処かな?》
ロゼットの中の精霊は、龍と知り合いらしい。ぼんやりと眺める白石の柱から精霊が溢れ出し、ロゼットを包み込む。
《ここですよ。と言っても、見えませんよね。》
女性の声は、その精霊達から聞こえてくるのだ。口を満足に開けられないロゼットは、全く話す事ができない。
《そうなんだね。君は、母なる海となっていたなんて、あの時は気が付かなかったよ。》
中の精霊は、勝手に話しているが。ウミムシが、あちらこちらで点滅して綺麗だった。
《談笑をしにきたのではないでしょう?あの幼き娘は、どちらかしら?》
《あの子は、ここには居ないよ。けれど、あの子に仕えていた女性をここに誘い出したい。手伝ってよ。》
精霊が魚の形を模して泳げば、ロゼットの身体がその隣を泳ぐ。こちらは、全く何もできていないのだが、体内の精霊に身体の操作権を奪われた感じだ。
《ロゼットが何を考えているか、分からないけど…神殿という大舞台を差し上げましょう!》
《俺もセイレーンが何を考えているのかが、全く分かんないや!》
楽しそうに笑う2つの声に呼応するように、海底から気泡が上へ上へと飛び出した。白石の床がガタガタと揺れ始め、ロゼットの身体は中央へと向かっていく。辺りが見えなくなる程の泡ぶくが噴き上がり、水が四方八方へ流れ落ちた頃には、燦々と降り注ぐ太陽の光をこの身体に受け、関節の至る所から水を溢した。砂浜でスティックを構えるロディの姿が、豆粒みたいだ。橋らしきものはなく、陸までが遠い。これで浮き上がり終わったのかと思ったが、どうもまだ空へと向かうのだ。どうやって帰れば良いんだろうか?というか、これはどうするんだろうか?ロゼットが、口から水を吐き出すと、
「る〜♪るる〜♪」
楽しそうに歌う精霊の声が、飛び回る。その綺麗な歌声に、身体が疼く。やっと口から声が出る事を確認してから、
「もう少し水が抜けたら、歌に合わせて踊って良いかな?」
「勿論よ。精霊人形ロゼットの中に住まう草食系魔獣の赤ん坊さん。」
歌声へと声をかけると、自分の知らない自分が暴かれたのであった。




