59,少女は波立つ
調合室を後にしたリティアは、図書室の隅で床に積み上げた本を読み漁る。魔獣の生態、植物図鑑、サバイバルスキル、魔獣遭遇時の戦闘方法などのリティアが大量の本の中でも厳選したものだ。地べたに体育座りで座り込み、左股には本を、右股にはノートを乗せている。学校の勉強だけで満足している生徒はなかなか近づかないような奥の本棚であるため、誰にも邪魔されることなく、読み進められた。一見集中しているように見えるリティアの心の内は、ハルドの言葉に波立てていて、気を抜くとすぐに思考の海へと落とされる。通称は魂喰いセイレーン、正式名称は鮮肉食カズラ、死体は食わず、獲物を弱らせてもギリギリ理性を保たせてその身体を操りながら、獲物が喰われる恐怖に襲わせることに悦を感じているという。以前、コレから採取出来るもので惚れ薬が作れるだなんて根拠のない噂が流れ、売るために狩りに行く者が増えて、野生種の数は激減したのも事実。祖父が亡くなって祖母と2人暮らしだった幼かったリティアにとってはよく分からない群衆の心理だし、今も求める人の心理は理解できない。何気なく手に取った植物系魔獣の生態の図鑑によると魂喰いセイレーンは、ネナシカズラの派生なだけあって根はないが、その魔石を壊すことに苦戦する魔獣でもあり、花そのものには魔石はなく、心臓部でもある魔石を蔓の中で移動させる事が可能であるため、全てを燃やさなければ、本当の意味で倒せたとは言えない。また完全な再生にかかる時間は大体5〜10年となるらしい。
「カルファスさんが倒したというのにもう再生したとは考えにくいから、他個体である可能性も出てくるってこと。他個体が複数いれば、土の中に潜る場所が異なってもおかしくないのね。」
けれどリティアの今まで蓄積した知識から考えると、その場合はテリトリー争いで相手を威嚇するために移動をすることと、獲物争奪でセイレーン同士が殺し合うはずだ。手を取り合って、1人の獲物を食べるなんて考えにくいし、ハルドの話の雰囲気からは、アギー以外に同じ症状を持つ生徒がいないようだった。何で私ではなかったのだろうかと考え始めると、本が雪崩れるように思考に落ちていく。私なら何があっても驚かない、一族がこの存在を煙たがっている、消したがっているのだから、そういう魔法が魔獣にかけてあっても驚かない。けれど、そんな痕跡はこの前のウミヘビにも、郡民コオロギにも感じていないし、実際セイレーンも私ではない生徒を狙っている。
「こんな出来損ないなんて殺す価値もないってこと?」
ページを捲る音に消されるほどのか細い声が漏れる。兄のところの隊員であるハルドもラドも私を殺そうとしてないのは、一族ではないから?なんて邪推してしまうほどには落ち込んでいた。昔から知り合いのハルドがそんなことしないって頭は分かっていても、心が怖がる。セイリンもディオンもソラもテルも私を殺すことはしないだろうが、彼女達から冷たい視線を向けられたらと思うとゾッと背筋が凍る。出来損ないの私が頼ったらどんな目を向けてくる?ウミヘビに喰われると分かって回避したら、私なんかをディオンは身を挺して守ろうとしていた。お茶会の勉強で皆が頭を傾げた治癒魔術の発動方法も、魔法士の一族で仕組みを知っている私が答えるのは怖かった。魔法士の一族が紛れていると知られたら、必ず軽蔑される。それなら、ニコニコしてテルを持ち上げたほうが私の心は守られた。郡民コオロギも私一人で囮になる事で誰にも迷惑をかけないで、使えない人間というレッテルを貼られることなく事なきを得た。纏まらない思考がリティアの首を絞める。ハルドは世界に私しか居ないみたいだと言ったけど違う、私以外で溢れていて、たった1人のちっぽけな私に向けられる視線と感情が怖い。だったらいっそのこと、そうならないように最初から期待しないし、頼らない方が楽だ。だから1人でひっそりと学校生活を過ごして、魔法士になれなくても魔術士になったらまた家族に認めてもらえると思っていた。
「何もやる前から喚くな!やるだけやって、それでも駄目なら喚き散らせ!」
会ったばかりの私をセイリンは真剣に叱った。本当に怖かったけれども、あれのおかげで目の前に迫ってくる事だけでも私に出来ることをしなきゃと思ったことも事実だ。彼女ならこんな私に手を差し伸べてくれる気がして…
「リティア様!?どこか体調でも優れないのですか?」
壁のようにリティアの前に山積みにしていた本のタワーを大柄な男子生徒が崩して、思考の海へと落ちて俯いている顔を覗き込んでくる。リティアの瞳よりも深い紫色の髪の毛が、リティアの目の前に現れ、壊れかけたぜんまい仕掛けの人形みたくぎこちなく顔より先に目を上に向けると、カルファスの従者であるマドンが顔を青くしてリティアを見ていた。
「まるで死人のように血色が悪いようです。すぐに医務室にお連れ致します。」
「お、お気になさらず。魂喰いセイレーンを倒す方法を探しているだけですから。」
マドンに身体を抱えられそうになり、慌てて拒否をする。マドンは一瞬だけ躊躇したが、リティアの隠れ家に無理やり足を突っ込んでお姫様抱っこで引き上げてしまう。バラバラと足に乗せていた本が落ちる。
「リティがここにいるのかい?」
本棚に挟まれた通路からひょいっと顔を覗かせるのはカルファスだ。リティアが抱えられている姿を見て、彼もまた顔色を変える。
「リティ、何故そんなに衰弱してしまっているんだい…。マドン、彼女が嫌がっても医務室へ頼むよ。セセリ、彼女の荷物を仕舞ってから医務室へ向かおう。」
「承知いたしました!」
マドンとセセリは同時に返事をして、マドンは本の瓦礫を飛び越えながらリティアを運んでいき、セセリは筆記用具をリティアのバッグへ戻していく。マドンを見送りながら、カルファスは広がりすぎた本を棚に返した。
「お、降ろしてください…」
「こんなに体調の優れないリティア様を降ろすことはできません。お願いですから、お困りの際は私達を頼ってください。カルファス様も我々も貴女様を決して傷つけたりはしません。」
他の生徒達に注目されてもお構いなしに、マドンは図書室の扉に大きな背中でゆっくりと体当たりして通路へ出ていった。こういう対応をされるなんて、今のリティアには理解が追いつかなく、
「どうして?私がパーティーに顔出すたびにあんなに指差してきたのに…」
「あの頃のカルファス様とその側仕え含め、私達は貴女を苦しめるようなことは発言しておりませんし、指差しをしておりません!あんな下品な大人達と一緒にしないで頂きたい!」
2階の医務室へ向かう階段を駆け下りているマドンが感情に任せて声を張り上げた為、リティアの身体にビクッと力が入る。
「大声を出して申し訳ございません、大変失礼致しました…」
「いえ。こちらこそ何も知らずに嫌な思いをさせてしまい、申し訳ございません。」
医務室の扉も背中で開いたマドンは、ゴーフルが居ないことを確認したら、出来るだけ優しく振動を与えないように、顔色の良くないリティアをベッドに降ろし、ゴーフルの机の後ろの棚から薬の瓶と、机の上の水挿しとコップを持ってくる。身体が開放されたリティアは、上体を起こしてベッドに座った。
「リティア様、カルファス様が来られるまで少しお話をよろしいでしょうか?」
話しながらマドンはリティアの隣に瓶を置き、コップに水を注ぐ。リティアが瓶のラベルを見ると、ハルド作の栄養剤だったため、1錠だけ取り出して口に含み、マドンが注いだ水で流し込んでから、リティアは小さく頷いた。リティアの前の床に片膝を立てて座ったマドンは声を抑えながら話し始めた。