561,偽物聖女は寝返りを打つ
トントントン、トントントン。一定のリズムで刻まれる音が心地良く、ふかふかな掛け布団の肌触りも気持ちが良い。夢心地で寝返りを打つと、クリームの甘い香りが鼻を擽る。祖母が夕食の準備をしている。早朝から祖父と歩き回った自分は、疲れきって昼寝をしているのか。そんな光景が頭の中をゆったりと流れていったが、激しいノックの音で嫌でも目が覚めた。狭い部屋の半分を占めるベッドの上で、リティアは眠っていた。壁にかけられた団服とコート、背広とシャツ。ネクタイもハンガーに並ぶようにかけられた部屋。
「リティア、よく眠れましたか?」
「リンノさん…」
部屋の主がミトンを付けて鍋を運んできたのだ。お怪我は?と聞きたくても、まだリティアの口は寝ぼけている。ノックされたというのに、そちらには行かないのだろうか?リティアが首を傾げるとリンノの冷えた視線が扉に突き刺さり、鍵を精霊が動かす。
「どうぞ。」
リンノの声に応えるように開かれた扉の向こうには、ラド。その後ろにはハルドが立っていた。リンノの視線がこちらに戻った際に彼は肩を竦め、
「お嬢様のお迎えですか?」
「話し合いだよ。何処でしたい?ここ?俺の家?スインキーを貸し切る?」
口を少し尖らせるリンノと、扉の前にいるラドではなく後ろのハルドが部屋に入ってきた。小さなテーブルに鍋を置いたリンノ。リティアの頭を撫でてから、
「狭い事は承知で、ここで頼めますか?あまり長距離は歩けないかもしれません。」
「足をやられたのか?」
リンノがラドに入るように促すと、彼は訝しむ。リティアは、まだ眠れそうな瞼を擦りながらベッドを椅子代わりに座り直すと、リンノが背中と壁の間に枕を立ててくれた。その厚意に甘えて寄りかかると、
「いえ。治癒に魔力を回し過ぎて、足に力が入り辛いのです。」
リンノの風に乗せられて皿とスプーンが泳いでくる。リティアの前で、リンノが出来立てのクリームシチューを皿に取り分けて、スプーンを皿の上に1つずつ落下させると、隣に座ってくる。ハルドとラドは、ベッド以外に座るスペースがなく、ハルドだけがリンノの隣に座り、ラドは壁に寄りかかりながらシチューをスプーン無しで一気に飲ま干した。ハルドからのブーイング、リンノのため息を聞きながら、リティアは熱々の一口目を口に運ぶ。このクリームシチューは、濃厚なだけでなく塩分が強い気がする。首を傾げながら、更に一口と食べ進めていると、
「折角なら、追いチーズして表面焼いても良かったね。」
「オーブンがあれば、是非やりたいですね。」
ハルドとリンノから答えが聞こえてきた。隠し味にチーズが入ってるようだ。チーズが固まって重くなる前に、リティアは少し急ぎながらも味わう。
「狭い部屋だから、ないのは仕方ないか。ラド、チーズが入ってるって分かったのか?」
「知らん。」
フーフーと息をかけて冷ましながら食べるハルドが指差せば、そっぽを向くラド。
「あんな奴に、凝った料理は食わせたくないよな。」
「本当ですよ。それならば、珍しく食が進んでいるリティアのおかわりに残したかったというものです。」
ラドの事で意気投合状態の2人が頷き合い、肩身が狭いラドは流しに皿と空っぽの鍋を持っていって、自主的に洗い始めた。リティアは、この2人がここまで楽しく話す光景が初めてで、何だか嬉しくなる。
「リティアが、笑窪を作ってますね。」
リンノに頬を人差し指の背で撫でられてくすぐったくなるリティアだが、顔を背ける事なくされている。ハルドもこちらを覗き込みながら目を細め、
「病み上がりに作った甲斐があるんじゃない?それで、どのくらい傷は治った?」
リティアが知りたかった事を代わりにリンノに聞く。
「恐らくは完治かと。全く、この身を持って彼女の強制精霊流し込みの恐ろしさを実感しましたよ。」
「な、何ですか、それ…」
懸命にリンノを治して欲しいと頼み続けたリティアにとって、酷い言いようだ。自然にリティアの口がひん曲がっていくと、リンノに完食した皿を引き取られ、
「貴女が校長を助けた時、私は言いましたよね。貴女は、ただの精霊と精霊の中継地点でしかありません。精霊は、本来この肉体の心臓部で魔力に変換されて力になります。貴女は、その循環速度を無視して処理しきれない程の精霊を押し込んでくるのですよ。弱っていると、精霊を多く呼ぶ事自体が難しいので助かるといえば助かりますが、押し寄せられれば心臓が悲鳴をあげます。校長もよくあれだけ流し込まれて、目を覚ましたと思いましたよ…。ん?ハルド殿。」
「何だい?」
説教が始まったと思えば、リンノの眉間にシワが寄った。ハルドが人差し指で風に指示を出して、3人の皿をラドに飛ばしながらリンノに振り向く。
「あの校長は、魔法士ですよね?そうでなければ、リティアから注ぎ込まれた精霊を力には変えられない筈です。けれども、私は彼を知りません。」
「…リファラルさんよりも先輩って言っていたかな?魔術士一族からの先祖返りで、彼だけ魔法が使えたらしい。俺自身は、リファラルさんよりも前に退役された彼とは、あまり接点はないけどね。」
リティアは全く考えもしなかった事が、リンノ達によって咀嚼しやすい形で知識を注がれる。リティアが精霊に頼んで傷口を癒やしてもらうという事は、精霊に治療される側にもかなり負荷をかける事になるという事だ。リンノを助けたい一心だったが、精霊への頼み方を変える必要がある。心臓が使えなくなったら、助けるどころか殺してしまう。
「そうでしたか。それでは…」
「じゃあ、リンノ。次は俺が質問する番だ。君の階位は何だい?」
必死に考えている中、2人の会話はどんどん進んでいく。校長が魔法士である事も驚くが、まるでリンノを大精霊ルーナ教の聖職者としての地位を持っている前提で、ハルドの鋭い視線が突き付けられたリンノ。彼は目を伏せて、
「やはり、疑っていましたか。一族の性質上、仕方ないのかもしれませんが。私が聖職者であったのは14歳まで。弟を残して15で魔法士団に入団しております。」
「ふーん。なるほどね。けれども、今も階位は所有しているよね?リダクトと同じで、さ。」
首を横に振ったが、ハルドは疑う事をやめない。
「いえ、あの男のような事はしておりません!そこまで自分を騙せる程、器用には生きられませんし、兼任なんて汚職を助長します!」
そんなハルドに、リンノも声を張り上げて抗議する。それはもう必死で、リティアは自然と口を挟んだ。
「だから、私がオムライスを作った時に校長先生は来られたんですね?」
「うーん。リファラルさんの店はもう6年以上はやっている筈だけど、リンノが勧めるまで校長は店に行かなかったみたいだから、特別仲が良いわけではないかもよ。単に互いに知っている程度ではないだろうか?」
リティアが強引に流れを変えた事にハルドの眉が下がったが、しっかりと乗ってくれた。リンノの肩が微かに力が抜けたのだって、リティアが気がつくのだ。ハルドが見逃すわけがない。ハルドが空間を捻じ曲げてクッキー缶を広げて、食後のデザートを勧めてくれると、リティアがまずリンノの口に1枚運ぶ。それをぎごちなく食べながら、
「あの方は、ゴーフルに命を狙われています。であれば、こちらに引き込みましょう。ハルド殿でしたらできるでしょう?」
「…既にさ。リティの事を理解した上で入学させたと思うんだよ。積極的に関わりには来ないけれど、何かと気にかけてくれている。あの年齢に、これ以上を求めるのは酷だ。」
リンノが提案をすると、真面目な話をしながらハルドもリンノの口にクッキーを突っ込んで、愉快そうに笑った。顔が真っ赤になったリンノが、
「わ、私は雛鳥ではありません!」
ふざけるハルドを怒鳴り、リティアの耳がキーンとしたのであった。




