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552,少女は崩れる

 楽しい筈の時間は、脆く崩れ去った。見下ろしていた市場の活気も消え、誰もが混乱状態になる。パン屋の中で怪我をした人も、リンノを含めてかなり数を出した。店が地面から飛び上がるかのような大きな揺れで、放心状態の客達。幸い怪我をしなかったリティアは、カーテンをオピネルナイフで破り、蒼茸軟膏と魔女茸の粉末の瓶を抱えて応急処置をする。まずはリンノからだったが、

「私は大丈夫です!市場の混乱を鎮めてきます!」

彼はリティアの手をすり抜け、皿と液体で足場が悪くなった床を蹴って階段を駆け降りて行ってしまう。セイリンも彼に守られ、服に珈琲のシミを作った程度だ。オロオロとする店主の奥さんに、セイリンが声を掛け、リティアは怪我人の傷を水差しの水で洗いでから、魔女茸で火傷を負わせて傷口を閉じる。絶叫する怪我人もいるが、構ってられない。その火傷の上から軟膏を塗り、カーテンを包帯代わりに使いながら、セイリンから氷が入った瓶を貰って、火傷に当てさせていく。

「箒で破片を退けるんだ!これ以上怪我しない為に!」

声を張り上げるセイリンの指示に、動けなかった人がのろのろと立ち上がる。セイリンは、他人に指示を出す事に慣れている。的確に指示を出し、店を掃除させるのだ。それは1階も同じ。パニックを起こしている店主の両肩を押さえ、目を合わせて具体的に指示を出す彼女は、前線で戦う騎士よりも指揮官に見えた。リティアは、ショルダーバッグに包帯代わりのカーテンと空っぽの水差しを詰めると、リンノを手伝いに市場へ走る。セイリンは走る事はせずに、理由も分からず駆け出す街の人を力尽くで止めて、ゆっくりとした、けれど力強い声かけで落ち着かせるのだ。そんな彼女から離れ、リンノを手伝う。彼は、商品の下敷きになった人を担ぎ、物が散乱していない場所まで運ぶ。自分で歩ける人や、軽症者は他の人に肩を貸して、その位置まで歩いてくる。リティアは、何処かの店から転がった薬瓶を拾い上げ、蓋を開けて匂いをかいた。これは使えると判断した瓶は、怪我人の避難場所まで往復して運び、リティアが動きやすいように一人一人に離れてもらった。後は、同じ治療をする人を流れ作業で応急処置していく。リンノが来たタイミングで水差しを差し出すと、彼は戸惑う事すらせずに触れてくれ、水差しに水を集めてくれた。骨折した人の怪我を固定する板がない、リンノはリティアが言う前にそれだけ呟くと、他の怪我人を助けながら板をいくつも運んできた。途中からセイリンが、幸い怪我をしていない街の人達と共に、何処かの診療所の備品を台車で運び込み、重症者を見つけ次第、担架に乗せてリンノと一緒に連れてくる。医者らしい人も数人集まってきて、市場での救護体制が整いつつあった中、

《リンノ!リティ!スインキーへ!》

ハルドからの呼び出しに応えなくてはいけなくなり、驚くセイリンにこの場を任せて、リンノに手を引かれながら喫茶スインキーに向かった。


 リンノが慌てて飛び込めば、店内に被害はなさそうに見えた。オウカとシャーリーの姿が見えないが、飾緒を外した団服を身に着けたハルドは仮面を手に持ったまま、

「二人共に、聖女と聖職者のふりをして重症者を助けて欲しいんだ。」

「ハルド殿!それがどういう事か、分かっているのでしょう!?」

リンノの肩を叩くハルドに、これでもかと言わんばかりに目を見開くリンノ。予想もしていなかった事で、リティアの頭はついていかない。リティアが魔法を使えた場合に、就く筈だった地位を騙れと言われているのだ。得体の知らない不安が押し寄せてきて、軽くなったショルダーバッグのストラップを縋るように握る。

「リンノ、だからだよ。今回の騒動を利用する。こちらから『聖女』の存在をひけらかせば、奴等は動かざるを得なくなる。そこを潰す。」

ハルドは仮面をつけると、己の髪に触れて魔法で揺れないように固めてしまう。

「…ハルさん?」

「仮面はあるから安心して。勿論だけど、服もある。」

嘘だと言ってほしかった。リティアの縋る手が彼へと伸びると、彼からは手の代わりに仮面が差し出される。それは、大精霊ルーナ教の紋様が描かれただけの仮面。リティアの横を通り過ぎる際に、彼に赤いリボンを引っ張られて、ハーフアップの髪型は崩れてしまう。リティアが追いかけようとしても風の壁に阻まれ、彼だけが店から姿を消した。リティアは、仮面を見下ろす。

「何でですか?聖女への冒涜になりませんか?」

「なりません!なるものですか!」

リティアからポロポロと落ちる涙をリンノが怒りながら、けれども壊れ物に触れるように丁寧にハンカチで吸う。

「しかし、条件が揃っているのでしたら、起爆剤を投下するしかありませんね。リティア。ハルド殿から聞いております。私達の大切なお祖母様を誘拐した悪党達を炙り出す為に、貴女の力を貸して下さい。」

「り、リンノさん…」

片膝立てて頭を垂れるリンノ。それは、まるで従者かのように。泣き崩れる事は、簡単だ。けれど、リティアはそんな事をして皆に迷惑をかけたくはなかった。彼へと震える手を差し出し、彼に握り返してもらうしかない。機会を見計らっていたかのように厨房から出てくるのは、仮面を手にしたリファラル。

「リティアお嬢様。もしよろしければ、こちらでお着替え下さい。」

「リファラルさんも、その格好をなさったんですね。」

飾緒をつけていない団服を、彼もまた纏っているのだ。己の所属を隠す魔法士団。それは、何を意味するのであろうか。彼から、大精霊ルーナ教の正装と新品のブーツを手渡され、リティアの逃げ道は絶たれた。もう、腹を括るしかない。

「私めは、これでも王国魔法士団でしたから。民を安心させる為に動きます。ラド殿は教師として、動いております。」

それでは、と彼も魔法士団として出動してしまう。

「リティア。」

「リンノさんを何て呼べばよろしいんですか?」

心配してくれるリンノに、頑張って微笑むと、

「ここは、聖者ですかね。」

彼も、表情が引き攣りながらも笑みを返してくれたのであった。


 リンノとリティアが居なくなったからといって、やる事は変わらない。不安がる民を安心させ、怪我人を助ける。敵がいるならば、それを討伐するまでが一連の流れだが、今のところ敵は見当たらない。リティアに教わった止血方法で手当てして、動ける人に水差しに追加の水を足してもらい、やれる事ならば手を抜かない。自分を探していただろうディオンが市場に辿り着き、使える労働力が増えたと内心喜んでいる中、木霊する噂に耳を疑った。

「聖女様が君臨なさっているだと!」

「セイリン様!お気持ちは分かりますが、今は救うべき人々がいます!」

堪らずセイリンが市場から飛び出そうとしたが、ディオンに力尽くで止められてしまう。その聖女は、学校に稀に姿を現すルナなのか?それとも、ルシアンが言っていた『今を生きる聖女』なのか?セイリンは、この目で確かめたかった。しかし、それをする時間は与えられないようだ。実物を見たという話に勇気づけられる街の人の為に、セイリン自ら噂を広げて笑顔を見せていると、

「騎士様だ!」

何処に所属しているかの証である飾緒をつけぬ不届き者が、街の人に歓迎されながらセイリンの前に現れたと思ったら、見覚えのある薬瓶だけを渡されて、額をコツンと叩かれる。お礼と共に睨みつけたが、彼は仮面の下に素顔を隠したまま手を振ってきたのであった。

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