535,一番隊隊員は狙う
いつもの異なる香りで落ち着かない。この店も、自分もだ。ずっと慣れ親しんだ月光香草の香水を辞めさせられ、森の中に引き込まれるウッド系をハルドに押し付けられたのだ。店主のケッチャが作業している間、ケーフィスは膝を抱えている。ガタンと、乳鉢をテーブルを置く音が聞こえ、
「ケーフィス、仕事を抜けてきたのか?」
「少し休み時間を多めにもらっただけ。」
彼の視線がこちらに向けられた。兄のような存在であるケッチャに心配されたが、正当な理由でここに居る事を伝え、
「ハルドが命を賭したいという少女は、どんな奴なんだ?」
彼の時間を無駄に割く事がないように、聞くべき事を口にする。王国団の内部崩壊の為に囮に使うという団長の娘は、何者なのか。何故、サキやジャックは知っていて、自分だけ知らないのか。以前、四番隊隊員の頭を撫でた際の隊長の言葉を思い出し、本当に『妹』が存在していた事に驚愕した。
「雪兎が気になるのか?リルドさんをあのまま女の子にしたって感じだな。」
「それは外見の話か?それとも性格なのか?」
雪兎…それは本名ではないだろう、とすぐに理解する。ケッチャの具体的なようで抽象的な説明に頭を抱えるが、
「…自分の目で確かめろ。」
「すまない。」
興味が失せたように、彼の目は乳鉢へと戻った。これ以上居座る事は迷惑になる。あまり何も得られないまま、作業部屋を出ようと立ち上がった時、
「彼女が店に来た時、空間の精霊が大歓喜した。あれだけの存在が、公の場に出ずに魔術士として教育を受けている事に違和感を覚えるものだ。」
「魔術士だって?サンニィール家の長女が?」
知り得ぬ情報を投げられ、ケーフィスの足が止まる。魔法士の中心的な一族の本家の娘が、何故魔術を学ぶというのか。ケーフィスには理由が分からない。
「理由までは知らん。彼女自身は、俺の仕事に興味があるようでわざわざ手紙まで寄越した。サンニィールの頂点に立つ気はなさそうだ。」
ほれ、と投げられたオフホワイトの便箋には、女性らしい柔らかな文字が認められているのだ。ざっくりとまとめると、魔術薬学を可能な限り知りたいから、今後手紙を送って良いかと書かれているのだ。そんなものを学ばずとも、いとも簡単に魔法薬を作れるだけのポテンシャルを持っている筈だ。学校で魔術を学ばせるフリをして、彼女に寄って集る魔獣を潰す算段か?それにしては。
「…ハルドは何がしたい?」
ハルドが命の恩人という存在に、わざわざ危ない道を歩かせるのだろうか?あいつならば、ある程度の効果が得られつつ、安全な場所まで守る筈。学校内と言えば、最早敵陣のど真ん中。何故、そこに放り込んでいるのか?
「2度も言わせるな。自分の目で確かめろ。」
「ああ、すまない。本人が帰る前に聞いてみる。」
ケーフィスの呟きをケッチャに拾われてしまった。本日2回目の会話をしてから、彼に頭を下げた時には、
「…」
既に仕事に集中していて、ケーフィスに興味は向いていなかった。
ハルドの話の中では、旧校舎の件と王国団の内部崩壊が繋がっているように思えた。他の団員よりも多くもらった休憩時間で、帰ろうと街を出たハルドを捕まえる。城壁の外側で、仮面をつけたハルドは他の旅行客の目を引いた。
「少し、話す時間をくれ。」
「ジャックと一緒に送り届けるから、明日の昼まで休みをもらっておいで。」
ハルドに快諾されたケーフィスは、すぐさま一番隊隊長室に戻って休暇の手続きを踏む。じーっと見つめてくるカノンを抱きかかえて、ハルドの元に戻ると、
「カノンちゃんも学園都市に帰る?」
「帰るわ!だって、お家の事をしないとぐちゃぐちゃでしょう?」
ケーフィスの腕からカノンを拐うハルドと、嬉しそうに微笑む彼女。ハルドが大切にしていた存在というだけあって、扱いは丁寧だ。そう、ハルドならばこうである筈だ。大切だからこそ、丁寧に扱う。けれど、隊長の妹は魔獣の巣窟に戻すのだから、考えが読めない。そんな事を考えているケーフィスに、ハルドの手が伸び、
「多分、ジャックがゴミを散乱させていると思うね。じゃあ、ケーフィス。振り落とされるなよ?」
「ああ。」
その手を両手で握りしめ、視界が猛スピードで流れていく大空へと駆け出した。数時間の暴風は、ケーフィスの目の水分を存分に奪った。10時間近い空飛びで、視界がぼやけて足がふらつくケーフィスに肩を貸してくれるハルド。閑静な住宅街で唯一、結界が張り巡らされた家の扉を開けた。ジャックは、まだ仕事だろうか?ケーフィスも、ハルドを手伝って掃除をしなくてはいけない。そう思っていたが、リビングは以前来た時と同等に整頓され、銀色の龍の赤ちゃんに布団がかけられている。ジャックならば、そのくらいの優しさはあると思うが、掃除が行き渡った部屋には違和感しかない。キッチンからリビングへと帰ってきたハルドの口元が引き上がり始め、
「リンノを巻き込んだな、あいつ。」
これぞ、悪人の笑み。カノンの冷めた瞳を向けられても、笑みをやめない。ハルドが、ここの3人分の珈琲を淹れ始めると、庭のヒメが嘶き、龍の赤ちゃんも目を覚ます。
「スズちゃん、おはよう。」
ハルドが微笑むと、キューっ!と元気に鳴く赤ちゃんは、バサバサと飛びながらハルドに抱きつく。ケーフィスの膝の上のカノンが足をバタつかせ、
「ハルドちゃん、パン屋さんにご挨拶してきても良いかしら?」
「そうだね。あいつらが帰ってくる前に一緒に行こうか。」
折角淹れた珈琲を置いて、カノンとハルドは出掛けるらしい。ケーフィスは、このままソファで待つ事にした。楽しそうに談笑するカノンを抱き上げたハルドは、
「ケーフィス。リンノが来たら、力尽くで押さえつけておいて。」
それだけ指示して出て行った。ジャックが来てから話すつもりなのだろう。一族の地位向上を使命に入団したケーフィスが、いつの間にか面倒事の渦の中に飲み込まれている。珈琲の香りで落ち着く筈の心はまだ波を立て、
「一族の首が断頭台に並ばない事を願うしかないのか…」
「何、阿呆な事を言っているのです。ジャックは帰ってきませんでしたか?」
ケーフィスの呟きを拾う、青と灰色の髪が目を引く男性がリビングへと足を踏み入れてきて、
「あ、お前がリンノか。」
本人の答えを待つ事なく指を弾いて、光の矢の大嵐をお見舞いした。相手は風圧で応戦するが、一番隊との雲泥の差を見せつける。こちらは一歩も動く事なく、光の矢で囲い込んで相手の動きを封じた。龍の赤ちゃんが悲鳴をあげて、リンノの周りをぐるぐると飛ぶが、こちらは手を緩めない。
「誰の命令ですか?リダクト殿…か?だとしたら、私からお伝えできる事はございません。あの子はここにいないのですから。」
冷静な口調で話す相手は、自在に動き回る矢を観察している。こちらも怪我をさせるつもりはないが、少しでも足を動かせば突き刺さるギリギリを狙っているのだ。互いを探るように視線を交じわせ、
「あの子って誰だ?」
「その感じだと違いますね。ハルド殿の命令ならば、逃げないので外して下さい。」
ケーフィスは問うが、相手は答える気がないらしい。相手にどう言われようともハルドの指示を違えて、聞きたい事が聞けなくなる事は避けたい。
「本人に言ってくれ。」
冷たく言い放つと、相手の身体から水と光が噴き出した。キラキラと水滴に光が乱反射し、こちらの目を眩ませようとしてくる。
「1つ1つの魔力が弱いな。どれか、1つに絞れなかったのか?」
ケーフィスに光は効かない。ぼんやりと宙を浮かぶ水の動きを見ていると、
「…そんな事をしたら、リルド様をお守りできないではありませんか!」
相手は声を張り上げ、水を槍に形を変えさせた。こいつは、白銀の髪を持たないサンニィール家か。妙に納得したケーフィスは、
「リルド隊長の妹君について、何か知っているか?」
相手の攻撃をソファに座るケーフィスの幻影に集中させて、本物のケーフィスは真後ろに立ってやる。目を見開いた相手は、
「あの子は、渡しませんよ!」
何を勘違いしたのか、鬼の形相で光の矢の檻を力技で抜け出して、血だらけになっていた。




