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529,少女は引っ張る

 雨がまだ降り続く森の奥で、人の手に捕まった多眼鼠は奇声をあげていた。

「弟よ、これで自由になれるのだ。悪くなかろう?」

男の声に反応を示す鼠は、身体を拗らせて絶叫する。明らかに賛同の声をあげていない鼠を見下ろして笑う男。男の前には亀裂が入った地面があり、炎の海が見え隠れしていた。

「お前に罪はない。あるとすれば、お前が女を見る目がなかったという事か。」

そう呟くと、多眼鼠の頭を鷲掴み…亀裂から噴き出した炎へと投げる。肉が焦げる悪臭が広がり、様子を見ていた小動物が一目散に逃げていった。

「幼き娘を虐げたお前の嫁と、その身内の子孫諸共剣の楔にしようではないか。」

骨が炭化するまで見届けた男は、踵を返す。目的を持って、一直線に歩き出した。空間がずれていく。何層にも重なった空間は、眩しい輝きを放ち、森であった痕跡まで消えていく。眩しさが落ち着いた先に、玩具が不自然な程に転がっていない子ども部屋があった。身丈に合わぬ質素な椅子に縄で縛られた銀髪の幼女。その頬に涙の道を作り続ける彼女の頭をそっと撫でて、

「娘を思わぬ父親があるものか。この娘も会いたがっているのだ。人喰いの忌まわしき剣よ、その心に応え給え。」

この子ども部屋の扉を開けに行くと、持ち手に付着した精霊が抵抗する。

《駄目だよ。》

《いけない。》

「邪魔だ。彼女が望んで開いた扉を貴様等に閉じる権限はない。」

バチバチと手から雷を発生させて、対応する精霊を溶かし、他の属性を弾いていく。そして、

《可哀想だと思わないのかい?》

聞き覚えがない男の声が響いたと同時に、扉をこじ開けたのであった。


 塩っぱい粥を最後の一粒まで味わったリティアは、カップを机に置いて窓の外を眺める。雪が庭を白く染めていて、ふわふわとしているように見えた。ベッドに立てかけていた傘を抱きしめ、

「クラゲさん、いつも傍に居てくれてありがとうございます。」

傘に感謝の言葉を伝え、瞼を閉じる。サンニィール家でありながら、魔法が使えない。学校で再会したハルドは、こんな私を魔法士だと言ってくれた。こんな私が自分を恥晒しや出来損ないと言えば、すかさずセイリンが怒る。それは入学当初から変わらない。こんな私を主だと言ってくれるリーフィ。こんな私を殺したくないと苦しむカルファス達。多忙な仕事をこなしながらも会いに来てくれる兄達。

「…分かっているつもりです。」

愛されている事くらい。それでも。それでも、幼い頃から蓄積された毒が抜け切るわけではない。センが怒るのも、理解できる。要は、自分の甘えなのだ。その毒が少しでも表に出ると、誰かが手を差し伸べてくれる。その優しさに甘えて、根本的な部分に触れてこなかった。自分の中にある恐怖と向き合う努力をしなかった。であれば、機会は今しかない。明日には学園都市に向かう。そうしたら、また『今』が繰り返されるだけ。相手は、父親と言えど王国魔法士団を束ねる団長。たった一言聞けば良い。マグルと対峙ができたのだから、やればできる筈だ。この毒を抜く一手になるのか、ナイフを深く挿し込まれるだけになるのか。

「…母にこんな感情抱かないというのに、不思議ですね。」

とっくに母親に認めてもらいたいという欲望は、消え失せている。その分、いやそれ以上の愛情を祖父母から溢れる程与えられた。あの瞳は、そこらの身内と変わらない。リティアの中での位置づけも変わらない。けれども、父はそうではない。毒を彼から与えられた記憶は何処にもないのだ。だからといって、頭を撫でられたり、抱き上げられたり、笑顔を向けてくれたりする記憶もない。彼の本当の思いが分かれば、リティアの行く先が分かる気がする。見えぬ恐怖に立ち向かう為に顔を隠す梟の仮面をつけ、傘を抱きしめながら窓の桟に足をかけた時、空間が歪んで真っ逆さまに落下していった。


 魔法具専門店『アリア』の扉の内側。いつの間にか、リティアはここに居る。エプロンをつけたライエが、リティアの手を握りながら苦笑いする。

「護衛無しにここまで来ちゃったのは褒めるけど、アレは売れねーや。」

「お父さんに会うためには、真っ向からでは無理なんです。」

品物を取らせないようにするライエを何とか躱そうとするが、させてもらえず。彼女と見つめ合う事しかできない。キリンの兄の友人が使ったという他人の目から見えなくなる魔法具が欲しかった。手にする前に、彼女によって阻まれているが。

「分かるけど、駄目。私も旦那も、リティアの嬢ちゃんに恩がある。けどな、駄目なもんは駄目。知らない男がわんさかいる場所に年頃の女の子を1人で向かわせられない。誰の娘かを知る前に手を出す輩でもいたら、それこそ大変な事になるんやから。」

「…」

ゴンと額で額を叩くライエ。ここでも怒られたリティアは肩を落とす。外れかけた梟の仮面は鼻にかかり、リティアの瞳は彼女を見据えた。ライエの肩が軽く上下してから、

「だからって、分かりましたって帰るようには見えないな。ここまで、来ちゃったんだもんな。仕方ない、明日納品分を届けに行くか。」

リティアの手を離して両手を叩く。エプロンが上から降ってきて、仮面を直す前に頭からかかってしまった。仮面を片手で押さえながら、エプロンを引っ張ると、

「何ぼさっとしてるのさ!ほら、ついておいで!」

リティアの視界が布で覆われていた数秒の間に、ライエは両手に木箱を抱えていて、リティアは慌ててエプロンをつけた。仮面もつけ直して、イヤーカフを指で触り、大切な傘を抱きしめてから、勇気を振り絞って彼女の背中を追いかける。馬車を捕まえる事はせず、その足で歩いていく。西地区から中央地区は、それなりに距離があると思う。けれど、彼女は自分の足で歩く。その隣を離れないようについて行けば、目の前で風が吹き荒れた。ハルドの声に応えたと思われる精霊達が、他の精霊の中に混じっている。

「ハルさん…止めないで下さい。お父さんに会いたいんです。」

何処に同じ学校の生徒がいるか分からない中、呟くようにお願いをする。彼の風に乗せられれば、こちらが小声でも聞こえる筈だ。

「今のが、ハルド君だって分かるのか。こりゃー、たまげた!」

《それは、俺達の可愛いリティだからね。キリンが血相変えて、ケッチャの店の扉を壊したんだよ。毎回だけど、勝手に行動しないで欲しいなー。》

驚いたライエに、自慢気に脳内に話しかけるハルド。姿は見えないが、恐らく遠過ぎない距離に居る筈。言葉が出なくなった時も怒られた事で、また怒られた。家を抜けて会いに行こうと思って行動に移したが、

《…床から落ちたんです。恐らく、剣の力かと。》

《そうなのか。封印してやるしかないかな。まあ、それは追々で良い。頑張るリティの邪魔がしたいわけではないからね。俺とキリンは、先に本部で待っているよ。》

自分の足ではなかった事を伝えると、ハルドの風がリティアの周りをくるくると踊ってついてくる。髪は色々な方向に揺れるが、歩けば違和感は減るであろう。西地区の住宅街を抜けて、中央区に聳え立つ城を目指した。


 懸命に土産を選ぶテルと、その隣で見守るソラから離れ、1人で赤い紅を選ぶセイリンの後ろに控えた瞬間に、足が飛んでくる。その足を躱すと、

「くーるーなー!」

「セイリン様へダメ出し致しませんから、従者らしい事をさせて下さい。」

次はセイリンに睨まれてしまった。ディオンが苦笑いしながらも彼女の傍を離れなかったら、

「…何、悩んでるんだ?リティの事か?」

察しの良い彼女が声を潜め、ディオンは無言で頷いた。

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