528,少女は知る
額にひんやりとした指が触れる。それはとても柔らかくて、安心感を与えてくれるのだ。重い瞼をゆっくりと持ち上げると、視界の隅に、サラサラな紺色のウィッグがずれたまま寝ているセン。視界の真ん中には、微笑むシェクレが映った。
「お、おはようございます…」
「ええ、おはよう。リティアさん、何か食べられそうかしら?」
ぼんやりとした頭で挨拶をすると、彼女の手は頭を撫でてくる。肌に触れるかどうかの強さの指は、とても心地良く感じるのだ。リティアはこの頭で考えてみたが、
「あまり、お腹は減ってなさそうです。」
空腹を感じていなかった。けれど、机の上に湯気立つ口の広いスープカップが置いてあり、きのこの良い香りが漂っている。自然とリティアの視線がそちらへ向くと、シェクレがセンを抱き上げてベッドから足を降ろす場所を作ってくれた。寝ぼけたセンは、眠そうに瞼を擦る。1つ1つの行動が、人間っぽさを醸し出しているのだ。不思議な気分だ。ディオンの仕草を見て、覚えたのだろうか?それにしては、自然な動きだと思う。そんな事を考えていると、センが手を伸ばしてきたので、シェクレが彼をリティアの膝に乗せる。リティアがずれたウィッグを直していると、シェクレからカップを差し出され、
「少しだけでも食べてくれると嬉しいわ。」
「はい、いただきます。」
小さく切られたしめじと鶏肉のおかゆを口に運ぶ。わざわざ食べやすいように、手をかけてくれた事がよく分かる一品だ。祖母もリティアが体調を崩すと、スープでパンを煮込んだトロトロの食事を用意してくれていた。その頃の記憶と重なり、頬に涙が伝う。見上げてくるセンが首を傾げて、
「泣く程、美味いか?」
「はい。とても。」
肩が震えるリティア。彼女が、母の理解者で友人で、母側の考えを持っていたら、こんなに手をかけてくれるだろうか?兄から頼まれているからといって、嫌々であればここまではしてくれないと思う。日々の暮らしにリティア達がくい込んで迷惑をかけている中、更に仕事を増やしたというのに。優しい味が口の中で広がる。
「リティアさんは、まだ子どもなんだから大人に甘えて良いのよ。」
シェクレの手が、また頭を撫でる。一瞬、幼い記憶の母と重なった気がしたが、あの人がしてくれる事はもう有り得ない。
「すみません…」
「謝る事はないわ。だって、私が貴女のお母さんなんだから!」
現実に戻ったリティアが頭を下げると、彼女は両手で頬を挟んだ。手が温かい。じんわりと広がる温もりを見上げながら、
「そう言ってもらえて嬉しいですが、私の母はあの人だけなんです。他の誰かに、『優しい母親』という虚像を求めるつもりはありません。」
申し出を断らせて頂く。誰であっても、代わりに成り得る事はない。残念がるかと思ったが、彼女の瞳は輝いた。魔獣について語るキリンにそっくりだ。いや、キリンが彼女に似ているだけか。
「へー、面白い考え方!母親って虚像なのねー!まあ、リリィ自身が子どもだから母親になれなかったというのはあると思うけど。」
輝かせた目を細めて、リティアの頬から手を離すシェクレ。彼女はリティアが持ったままのカップに触れて、魔法で湯気を立たせてくれた。
「母が子ども?」
そのスープの湯気を顎から鼻に感じながら首を傾げると、
「…お二人は、結構な歳の差結婚なのよ。リリィが嫁いだのが14歳の頃。すぐにリルドさんが産まれて、その後9年間は何人も産んだけども報われなくて、それでもリティアさんを24歳で出産しているから、本来ならばまだ遊び盛りよ。」
「身体がボロボロではないですか…。やっと育った娘が魔法を使えないだなんて、許せなくて当然です。」
彼女の口から語られる母の苦しみ。リティアのカップを持つ手が震える。サンニィール家は近親間での結婚が殆どで、リティアもそうなる。実際に『元』婚約者候補は、ほぼ皆が従兄弟だった。血が近いと子どもが育つ前に亡くなる事が多いと教えられている。
「え、勝手に子どもに期待したのはリリィでしょ?リティアさんが、罪を感じる必要はないわ。貴女が家族を本当に失望させているとしたなら、今こうやって私の家にいないのよ。」
「それは兄が優しいからです…」
頬杖ついて不思議そうに首を傾げるシェクレから、目を逸らすように俯く。こんな自分にとても優しい兄には、感謝しきれない。せめて、兄の為に役に立たなくては。不意に額を人差し指の腹で押されて彼女を見上げると、
「違うわ。いくらなんでも、リルドさんがお願い致しますって来てないの。リデッキさんが自分の足でここに来て、私に頭を下げたの。あの時は驚いたわ。苦笑いした夫が隣にいて、すぐに家の中に上がってもらったもの。」
彼女からの予想外の発言に、リティアの口が開いた。あの父が、私の為に?自分に失望している父が何故?理由が分からない。世間体の為?それならば、兄がやった事を手柄にすれば良い。出来損ないの娘を安宿に放り込むのではなく、わざわざ友人宅に足を運ぶとはどういう事なのか?
「リティアさん、凄く混乱しているのね。ガルーダが王都の上を飛行しなければ、リルドさんと一緒にリデッキさんは夕食会に参加していたのよ。本当に疎んでいたら、最初から参加意思は見せないわ。」
そう言うとシェクレが目を細め、リティアは何度も瞬きをする。膝の上のセンが、足をバタバタと動かしてリティアの脛を蹴った。
「会ってやりなよ。リティアの親父は、死と隣り合わせに生きている戦士だろ。また今度…なんて甘い事を言っていると、次に顔を合わせるのは棺の中だよ。」
「あら。センちゃん、縁起でもないじゃない。」
シェクレが強制的にセンを抱き上げて、リティアの脛は守られたのだが、センに突き付けられた言葉の刃は、まだリティアの首に向けられたままだ。
「まあ、今のリティアに直接伝えても分からないだろう。だって、自分で馬鹿みたいに作り上げた偏見の渦から抜けられないんだから。」
「…そ、それは。」
センの攻撃に、リティアは言葉に詰まる。けれども、彼の攻撃は止まない。彼の冷ややかな眼差しが、リティアへと向けられ、
「自分と同じような事で苦しんでいる相手には、大好きだの、自分と家族だのと口走る癖に、自分はその言葉を受け入れない。そうやって他人に好かれようとしている癖に、自分は出来損ないだと喚く。いい加減にしろよ?本当にお前を大切に思っている奴等に失礼だ。」
「センちゃん!何事にも順序があるのよ!無理に押し付ければ、成長どころではなくなるわ!歪に捻れて、取り返しがつかない事になる!」
今までリティアが、友人達に向けられた事がない『不快さ』を全面に出した彼の口をシェクレが塞いだ。
《こいつが、特定の人間に対しての思考の歪みを変える事はないさ。》
口が押さえられても、脳内に彼の声が響く。センに幻滅されたのだ。入学当初からディオンの傍にいた精霊は、リティアの事も見ていた。ポロポロと粥の中に涙が落ちる。慌てふためくシェクレの腕から逃げるセンは、床に飛び降りて扉をすり抜けた。シェクレの両腕がリティアの頭を包んだが、それに縋っているわけにはいかない。
「シェクレさん、少し1人の時間を下さい。」
大切な粥を溢さないように気をつけながら、彼女に頼む。分かってくれた彼女の腕は離れていったが、その瞳は揺れていた。
「無理はしては駄目よ…。私達はリティアさんを大切に思っているわ。」
「私…この事に関しては沢山怒られてきているんです。」
彼女を安心させるつもりで言った言葉が、自分に突き刺さっていた。




