525,少女は挟む
夕食の後は、セイリンが必死にハルドの腕を掴んでいた。ハルドは、玄関に向かう筈だったのに。リティアは読書を再開する前に、キッチンで用事があった。
「キリン様に、トレントの木のランスだけはなくさないで下さい、とお願いして下さい…!」
「あれは、ただの脅しだから大丈夫だよ。それにしても、珍しい物を選んだね。硬いと言われる龍素材のランスの方が魅力的ではなかったかい?」
セイリンが両手でハルドの左腕を引っ張るものだから、ジャケットが肩からずれ落ちるハルドは眉をハの字にしながら苦笑いしている。リティアの後ろからディオンとラドが様子を見に出てきて、リティアと顔を見合わせた。
「思いましたよ。けれど、もしスズランが悲しんだらと思うと、手を出せませんでした。」
「…俺もラドも、更にディオン君だって龍素材の武器を使っているのに、そんな事を言われたら、罪悪感に苛まれるじゃないか。」
後ろからも俯いている事が分かる程頭を下げるセイリンに、ハルドがラドを指差す。恐らく、彼女の興味がラドに移った瞬間を見計らって、家を出るつもりだろうが、
「俺は思わん。どうせ、お前も思わないだろ。」
「あっ、コイツ。一発殴ってやろうか。」
ラドの即答に、ハルドの笑顔に影がさしたように見えた。ディオンの腕がリティアの顔の前に伸ばされ、ラドから距離を取る形で後ろへと下げられる。ハルドが拳を振り上げそうになると、セイリンが手を離してハルドと両手を広げて向き合い、
「や、や、止めて下さい!そうやって、すぐ喧嘩に持ち込む!」
ラドを背中で守る体勢に入った。そろそろ、リティアも2人を止めるべきかとぼんやりと考えていると、こちらが踏み出すより前にラドのゲンコツがセイリンの頭に落ちる。状況を理解できないセイリンが目を丸くして振り返ると、
「お前は何様のつもりだ。女に守られなければいけない程、落ちぶれた覚えはないぞ。」
ラドが彼女より前に出て、ハルドを蹴り飛ばそうとしたが、
「ラド。俺との喧嘩は毎度セイリン君に守られているから、説得力が全くないよ。じゃあ、また明日ね。」
その足を軽々と避けて、取っ手を握ったハルドは言い逃げした。歯切りと大きく踏み込んだラドを行かせないように、セイリンが彼の腰に両腕を回して、彼女の重心を床へと下げる。重石状態の彼女を見下ろしたラドが、
「リティア様、こいつを退かして頂けませんか?」
「ラド先生がハルさんを追いかけなければ、退いてくれますよ。」
セイリンを指差すものだから、リティアは彼女に頼む事はしない。真剣に守ろうとしている彼女に失礼だ。ラドは小さく息を吐き、
「…分かりました。おい、退け。」
セイリンの腕を掴んで外させる。セイリンも抵抗する事なく、大人しく外されて、
「ラド先生って、香水をつけていらっしゃるのですね。意外でした。」
不思議そうに首を傾げる。セイリンが言っているのは、月光香草の香水の事だと思う。一番隊の皆でつけている識別用の香水だ。ラドは眉を顰め、
「…リティア様、連れて行って下さい。」
セイリンの腕をディオンとリティアに渡してくる。人形のようにくるんと回るセイリンは、
「香水の事は、聞かれると困る事なんですか?」
鋭い眼差しで彼を見上げた。ラドは、適当な言い訳を持っていないのだろう。リティアはここで口を挟む。
「セイリンちゃん、ハルさんもつけているんですよ。以前、私のおばあちゃんが作っていた香水なんです。」
「そ、そうなのか?ハルド先生もつけているのか。気が付かなかったな。」
良い香りでしょう?と微笑むと、セイリンは少し大きく目を見開いたが、すぐに笑顔が生まれた。ディオンが、セイリンとラドを静かに見比べているが、ここは気が付かないフリをする。
「調合室は、蒼茸の香りが強いですから。私のお兄ちゃんとかもつけている筈です。友達同士で同じ香水をつけているって聞いた事があります。」
「先生、何もやましい事がないなら言って下さいよ。」
更に、ハルドとラドの2人だけではない事も強調すると、セイリンがラドの腕を肘でつつきに行く。その前にラドの手に掴まれていたが。
「俺が何を言っても、お前は疑うだろう。これは識別用の香水。魔獣の中には幻覚だけでなく、人間になりすます輩もいる。その時、誤って仲間と戦わないようにする為のものだ。」
ラドからの説明にリティアが何度も頷き、嘘ではない事をセイリンに教える。ディオンの指がポキっと鳴った時、
「何か、かっこいい!!ね!ソラ!かっこいいよね!」
「テルなら、できるんじゃないか?」
その話をリビングで聞いていたらしいテルが顔を出し、生返事気味のソラの声が聞こえてくる。ソラから背中を押されたテルの瞳がキラキラと輝き、
「そうだね!リティちゃんと一緒に作る!」
手を握ろうと、距離を縮めてきた。咄嗟にリティアはセイリンの手を握り、
「えっと…明日、どんな香水にするか相談しましょう。私は、今からセイリンちゃんと一緒に夜食を作ってきますから。」
ニコッと笑顔をテルに向けて、セイリンを引っ張る。先程、ディオンの怒り姿が鮮明に思い出されるリティアとしては、テルのアプローチは火に油を注ぐ気がするのだ。
「え、え、え?夜食?夜食を作るのか?」
「はい!キリンさんとハルさんに、ラド先生の夜食です!」
何度も瞬きをするセイリンを連れて、キッチンへと逃げたリティアであった。
キッチンの鍵が閉められていて、
「ディオン、先に寝とけ。夜食を作り終わったら、こちらも休む。」
セイリンの僅かに弾んだ声は、ディオンを階段へと向かわせた。彼女が自分を邪魔だと思ったら、後々面倒になる。ラドに詳しく話を聞こうにも、リビングの壁に寄り掛かって寝息を立てているのだ。仮眠の時間を邪魔するわけにはいかない。仕方なく、ソラとテルが本に夢中になっている間は自室へ戻る。襲撃の件がある。セイリンとリティアが終わって出てくるまでは、眠るわけにはいかない。あと2日で王都を出発すると思うと、テル達に土産を買うように声をかけておかねばいけない。ここのメンバーの1日のスケジュールを管理しているハルドの事だ。日程調整をしてそうではある。少しの時間だけだが机に向かい、叔父オギィスから渡されていた宿題を鞄から取り出す。読めない精霊文字が羅列している紙を何度も見て、一文字でも頭に残す為に。隣に置いた白紙の上でペンを滑らせていく。こんなにも出来ない事なんて、今まで1度もなかった。本当に魔法士の血族なのか、と疑心暗鬼に陥るのだ。仮に魔法士としての力があったとしても、魔法士の戦闘跡をラド達に見せられて思い知る。渡り合えるのか?あのサキとの戦闘にでもなったら、なす術なく潰されかねない。ディオンは、血が出る程唇を噛んだ。
「アテスラ、手が止まってる。」
センの声が聞こえて、現実に引き戻された。いつの間にか、ベッドで転がるセン。その身体の大きさで、どうやって乗り上げたのかが理解できない。
「セン…さん。」
「家族なんだから、さん付けない。」
ペンをインクボトルに戻してセンの隣に腰掛けると、彼は膝に乗ってくる。
「はい…」
彼が落ちないように手を彼の腹の前で交差させるディオン。無意識にため息が漏れると、
「アテスラ、今のままで良いの?」
「良いわけないですよ、早く強くならないと。」
センに叱られて、駄目過ぎる自分に嫌気が差してくる。
「あー。そうじゃなくて、リティアとの中途半端な関係。」
予想外の発言に、ディオンは彼の顔を覗き込んだ。




