521,少女はつま先を向ける
痛みに耐えるマグルを睨むのではなく、ただ静かに凝視するリティア。この機会を逃がしはしない。密かに燃え上がる怒りが、恐怖心を抑え込んでいくのだ。
「そ、そう、怒るな。母親のようにヒステリックを起こすかと思ったが、そうではないらしいな。もう一曲踊るわけにはいかぬから、後ほど侍女に案内させる。」
「その時はハルドさんだけではなく、私の知り合いの魔法士の皆さんにお願いして来て頂きますね?」
曲が終わり、手を離すマグル。リティアは行儀良く両手を下腹部で重ねて、端からはお辞儀をしているかのように見せた。全く感謝の心は、存在しないが。
「やめろ。殺されるではないか。しかし、本当に強くなったな。己の望みの為ならば、虎の威を借るか。」
顔を引き攣らせるマグルから離れ、まだ一緒に踊っていないセセリへとつま先を向け、
「私だけで挑んでも、勝てませんから。」
それだけ言って、セセリの手を取る。本当は1人でどうにかしたいが、あの男相手にできるわけがない。ダンスをしながらマグルの様子を盗み見しつつ、セセリからマドンへとダンスの相手を変えて、呼び出しがかかるまで大人しく待つのだった。
マグルが応接室に入る。何度も通路と窓を確認して。そしてソファに座り、
「そこにいるであろう?誰だ?」
窓を凝視してくる。こちらに出てこいと言っているようだ。
「リティア様をお守りする者だ。」
姿を見せずに声だけ出してやる。マグルは、顎の髭剃り跡を撫でながら、
「その声は…一番隊の者だな。あの娘に仕える魔法士は居なかった筈だ。兄からの依頼か。」
「…。」
その質問には答える義理はない。いつでも息の根を止める事ができる範囲から刃を向ける。
「まあ、良い。今からあの娘もこちらに来る。…聖女の肖像画と同じような瞳をするようになり、血の力を感じざるを得ない。」
この男の独り言は聞き流しておく。そんな事はどうでも良い話なのだ。ハルドの笑い声とリティアの声が聞こえてきた。そろそろ監視場所を移動する時間のようだ。侍女らしき女に扉を開かれて、ハルドが先に入室してからのリティアが、あいつにエスコートされて足を踏み入れる。
「まさか…わざわざ追いかけてきて下さったのですか?」
「ほら、あいつは足が馬より速いから。」
リティアがこちらに気が付き、ハルドは法螺を吹く。そんな事があるか。人間の姿では、馬より速いわけがない。マグルが腕組んでこちらを睨むが、どうせ人間の目に映るわけがない。窓の上、煉瓦の僅かな出っ張りを鷲掴んだ左手だけで身体を持ち上げているのだ。武器を仕舞った状態でも戦えるのだから、音が出るものは少ない方が良い。ハルドが指を鳴らし、一旦ここから離れる。近場で音を立てぬように壁を一蹴して屋敷の5つ向こうの部屋の窓の下、地面に降り立った。この後は、ハルドの代わりに『教師』として生徒達の身を守る。屋敷の従者達の目を掻い潜って、あたかもそこに居たかのように、疲れて部屋に戻る生徒達に声を掛ければ、
「ラド先生!先生、踊りましょうよ!」
今までの疲れを何処かに飛ばした女子生徒達が、ホールにラドを連れ込んでくれる。ディオンと目が合い、リーフィが震え上がり、セイリンの瞳がギラギラと輝く。まるで獲物を狩る獣のように。ダンスは踊れない、とホールへ案内した生徒達の誘いを断り、リーフィへと足を進める。震え上がる兎か、蛙か。その図体で似合わぬ怯え方をする。
「リティア『君』の従者の方が、何故こちらにいらっしゃるのですか?」
「も、申し訳ございません…。すぐ、退出致します。」
セイリンが辿り着く前に、リーフィを外に追い出す。彼女が止めに入りそうであれば、ディオンにこの場を任せるしかなくなる。ペコペコと頭を下げて駆け足で退出するリーフィに、
《3階。階段から右に3つ目の部屋。》
《承知致しました。着替えてすぐに向かいます。》
脳内会話で情報共有し、2人を見比べるセイリンを待ち構えた。だが、セイリンよりも先にテルが辿り着き、その謎めいた女装を視界に入れなければならない。
「テル君、楽しめてますか?」
子どもの眼差しを向けてくる彼に聞けば、
「はい!凄く楽しいです!」
白黒のない笑顔が返ってくる。見るからに男がスカートを履いているだけであるのに、ハルドは女装を認めたのか。ラドには、全くもって理解が出来ない。
「そうですか。閉会まで思う存分楽しまれて下さい。」
この場を立ち去り、オーケストラの付近から警戒しようと思った時、
「先生、踊って下さい!」
その無邪気過ぎる笑顔で手を伸ばすテル。笑顔が曇る事は目に見えてて、別に何と思われようが良い。しっかりと断らせてもらう。
「テル君、私はダンスを得意としませんから。」
「先生!」
小さく首を横に振った瞬間に、セイリンの手が視界に飛び込んできた。反射的に彼女の腕を掴み、
「是非、手持ち無沙汰なセイリン君と踊って下さい。」
伸ばされたテルの手の上に、彼女の手を乗せる。それと同時に勝手に指に力が入り、
「先生、痛い…です!」
ブンっと手を振りほどくセイリンに怒られた。慌てて手を離して、教師の仮面を被った状態で2人から離れる。丁度良い具合にオーケストラも演奏し始め、2人は致し方なく、けれど笑みを溢しながら踊っている。その2人を見ていると、腹の奥に何かが膨れ上がるのだ。それが何であるかが、全く見当が付かない。
「先生、怖い目をしてます。」
「黙れ。」
ダンスの輪から抜け出したセセリに指摘をされたが、一瞥もくれてやらなかった。
テーブルに片足乗り上げたハルドの飛龍牙が、マグルの首に触れる。緊迫した状況でハルドが白い歯を見せた。
「もう1度言ってくれるかい?」
「ああ、何度でも言ってやる。私は、その手紙を知らぬし、書かせていない。だから、それは私ではない。第一、何故カルファスに従順なセセリ、ルーシェ家の一人娘であるセイリン姫、ましてや勝てるわけがないハルド殿まで狙わねばならないのか。理解に苦しむ。」
飛龍牙から逃げる素振りをせずに、ハルドを見据えるマグル。リティアは冷静に2人を見比べ、
「私達の学校の保健教諭とは、お知り合いですか…?」
「校長や教頭ならまだしも、わざわざ下の教師に声を掛けねばならぬのだ。いや。リティア、その頭は何を考えている?」
首を傾げずに見つめれば、彼の力強い瞳だけがこちらに向いた。首を動かせば、飛龍牙の餌食になると理解して。あの頃殴ってきた彼が頭ごなしに怒るのではなく、リティアの意見を聞こうとする姿勢を見せるとまでは思っていなかった。リティアは、内心驚きつつもハルドの顔を覗き、
「貴方の文字ではないのですが、貴方の名前が書いてある物をその人が所持しておりましたから。」
ゴーフルの机の引き出しからすり替えてきた手紙をハルドに出してもらう。
「ほら。」
「…こ、この字は、いや、そんな馬鹿な。ハルド殿、アーティオ書記官の文字を見た事はあるか?」
マグルはテーブルを挟んだソファから立ち上がる事はせずに、食い入るように手紙を凝視した。
「魔術士団の書記官の文字まではないよ。どうせ、代筆だよね?」
ハルドは飛龍牙を天井に投げて、マグルのソファの背もたれまで歩いていく。マグルの目は手紙を睨み、
「そこまで疑うのであれば、魔法士のお得意の記憶を見る魔法を使うと良い。私は指示していない。」
意を決したように膝に手を置いて頭を下げた。ハルドは手紙を空間を歪ませて仕舞ってから、マグルの後頭部へ手を伸ばす。その手が触れる時、
「リティア、今後も迷惑をかける事になりそうだ。自ら魔法を隠して生き、この国の膿を出しているその姿こそ、セセリが受けたお告げの『聖女』なのだろう。」
マグルがそう呟き、瞼を閉じた。




