52,少女は囮になる
虫回。ご注意を。
森の中へと走れば、コオロギは一匹のみならず大群で追いかけてきて、リティアは、テルの手を掴んだまま奥へ奥へと逃げる。ソラもなんとかついてこられているが、それでも数歩後ろを走っていた。
「ど、どこまで行くんだ!?」
鬱蒼とした森ではあるが轟牙の森とは異なり、植物達がひしめき合っている。足元が歩きづらいほどに木々の根が表に浮かび上がっていて、ソラは声を張り上げなければ会話ができないところまで徐々に引き離されていた。
「水のあるところです!!」
リティアは構わずにテルを更に奥地へと連れて行く。テルはソラとの距離を何度も確認しながら、後ろのソラに聞こえるようにリティアに問う。
「水があるとコオロギって近寄らないの!?」
「いいえ!私の予想が合っていれば、かなりの数が入水するかと!」
リティアは答えるだけ答えて、大きな根のアーチの下を少し屈んで通り抜ける。テルも合わせて屈むと、アーチの上から大型の鳥の鳴き声が聞こえた。
「ひぃ!?」
「そこの人面鳥は既に顔がついていたので襲ってきませんから。」
リティアが鳥の声に怯むテルに淡々と説明すると、テルが顔を歪ませながら声を潜めてくる。
「顔がなければ…?」
「私達の顔を欲します。」
答えを聞いたテルは、青ざめながら口をきつく閉めて黙々とリティアに連れていかれる。森に光が入りづらいくらいに木々の間隔が狭まってくる頃にテルが走りながら振り返ると、ソラが小さく見えて、
「リティちゃん!まだソラが!」
「分かっております!けれど、テルさんは手を離すと勝手に何処か行ってしまいますよね…?」
「!!」
リティアは恐らく昨日のことを言っているということをテルは瞬時に理解をする。下手に動くと危ないぞと警告されているのだ。テルは、リティアの手を引っ張るように掴まれている左手を身体に引き付けて、彼女の視線をこちらに向かせる。
「行かない!今は行かない!だから、ソラを迎えに」
「…約束ですよ?」
グイッと引っ張られたリティアは、普段しないような強い目つきでテルと目を合わせてきた為、テルは髪の毛が乱れるほど大きく顔を縦に振った。
「ソラさんと合流しましたら、そのままあちらの3つ先にある木のアーチまで走ってください。」
リティアは、腰のベルトから銀色の人差し指サイズの縦笛を取り出して、テルから手を離して3時の方向に変えて走り出す。約束通りに動かないテルは、リティアのこれからすることが何なのか予測もつかない。
「待ってリティちゃんは!?」
「私は、魔獣を誘き寄せて他のルートから川へ誘導します。」
リティアは、走りながら縦笛を口に咥え、
ピィィィィィィ!!
と鳴らすと、後ろから押し寄せてきていた黒い集団や人面鳥などはリティアへと向かっていく。引き離されても追い続けたソラが、テルと合流する頃には虫の声も鳥のさえずりもない静寂に包まれた森となった。
セイリンが小物と呼んでいた魔獣は、太陽の光が届きづらい森を棲息地とする郡民コオロギと言い、彼らは先発隊を放ち囮を使って獲物の動きを観察、何匹で喰いにいけばいいかを考えられる魔獣だ。リティアはコオロギを見た時点で既に自らが囮になることを決めて、魔獣の戦力分散の為にテルとソラを連れて、精霊が作ってくれた通り道を駆けた。テルは良かれと思って何処かに疾走する可能性があるため、リティアは、言うことを聞いてくれやすいソラよりもテルの手を掴んだ。あの時、テルが約束してくれなければ、ソラが怪我をしてもおかしくないところまでコオロギは迫っていたことも理解している。魔獣同士を誘き寄せて戦わせることができる縦笛は『魔獣寄せ笛』と呼ばれ、大自然の中で仕事をする人が携帯していることが多く、リティアも子供の頃に祖父から譲り受けたものだ。よく祖母の手伝いをしていた森よりも遥かに小さい規模の森を駆け回り、魔獣の興味が逸れないように時折笛を吹く。青色の精霊が多く見えるところにヌシが構えている可能性もあるが、水がある可能性が高いため、リティアは青色の精霊が数多く浮遊している場所へと向かっていた。後ろから跳んでくるコオロギの群れを人面鳥が食い荒らしたり、様子を窺っていたオオトカゲが横から飲み込んだりと確実にコオロギの数は減っていく。
「セイリンちゃん達は無事でしょうか…。」
走りにくい地面を蹴りながら呟けば、後方からの羽音や咀嚼音によってかき消されていく。リティアの視界に腐りかけて今にも倒れそうな老木が飛び込んでくる。リティアは走りながら、手探りでオピネルナイフを組み立て、通過する時にその老木の腐りかけた胴体に切り込みを入れる。ギィィィと倒れていく音と共に、地面が振動してコオロギが慌てて跳び上がると、その瞬間を待ち臨んでいた空の捕食者達が群がっていく。振り返ることなく、そのまま近づいてきた水の音を目掛けて根のアーチを飛び越え、せめぎ合っている木々から生える気根を切り落として、気根に群がっている羽虫を驚かして飛び立たせると、またそれを喰おうとコオロギが跳び上がり、更に捕食者によって狩り取られていく。少しずつ見える景色に変化があり、栄養が行き届いて気根すら生えていない太い幹の木々の間を抜けると、目の前が突然と開けて大きな湖が広がっていた。リティアのところから2時の方向には蔦が張り付く木造の建物が小さく見えた。11時の方向から湖のほとりでソラとテルが手を振っている動きが視界にチラつくが、リティアはそちらに向かうことなく、一番直線距離の短い湖の傍まで後方の動きを気にしながら近付く。木々の間から黒い虫の津波が押し寄せ、その殆どがリティアではなく、湖に一目散に飛び込んでいく。コオロギの身体からは、細長い光沢を持つ寄生虫、ハリガネムシが優雅に泳ぎ出す。湖の水面は黒で覆い尽くされ、飛び込まなかったコオロギ達はリティアへと集まってきて、リティアももう一度逃げる為に身体を森へと向け…
ザッバアアン
湖の底から岩泉オオガエルが大きな口を開いて、まるで小魚で水ごと飲み込むかのように、郡民コオロギの軍勢を空気ごと飲み込む。リティアは巻き添えを喰らわないよう地面に伏せ、オオガエルの様子を確認すると、目が合ってしまった。カエルの喉が上から下へと動き、人間なんて踏み潰せるほどのサイズの足を陸へと上げる。
「ヌシだ!ヌシが出たぞ!!急げ!」
リティアの視界に映らない湖の方向から鎧がぶつかる音を鳴らしながら、騎士達が矢を放つ。それはオオガエルの胴体に的中し、悲鳴を上げながら騎士への向きを変えていく。
「リティちゃん!!そのまま伏せてて!」
更にはリティアの後ろから、テルが駆け寄ってきて、小瓶をカエルに投げつけた。小瓶の蓋が緩んでいたのか、中身の液体が飛び出て、カエルの胴体を溶かしていく。続けざまに小瓶を投げつけると、斜め後方から顔に的中にして瞼から目を流れ、ジュウウと溶かしていった。後からソラも駆け寄り、リティアはテルが次の瓶を投げないことを確認してから立ち上がる。
「おい!そこの子供たち!危ないから離れなさい!」
騎士の一人が声を張り上げ、リティア達もそれに従ってカエルのみならず、湖から距離を取る。向かってきていたコオロギは、絶対的王者であるヌシを前にして退散していく。またそれを獲物としていた捕食者達も森へ還っていった。騎士がヌシを囲うように動き、1人が斬りつけると、反対方向からも斬りつけてカエルの反撃の時間を与えないように、時折矢も湖から少しだけ出ている胴体に当てる。されるがままに斬りつけられたカエルはドサッと体勢を崩し、騎士達はこれをチャンスと真上から刃を降ろすも、岩泉オオガエルと言われるように岩のように硬い皮膚を作り始めていて、刃こぼれを起こす。
「ディオン・ラグリードが参ります!道を開けてください!!」
木の間を駆けてきたディオンの一声で、騎士がバッと一斉にカエルの顔から離れる。風のように疾走するディオンはその逞しい両手でファルシオンを振り下ろし、岩と化した顔をメキメキとヒビを入れ、そのまま地面まで叩き割った。