501,少女は瞬間を狙う
ケルベロスへの声は届かなかったのか。彼の気配が近づいてくる感じはしない。その代わりに、別の気配がスキップのような軽い足取りで、翼を叩き斬ろうとしているディオンの肩を叩く男性が現れた。
「ラドぉ、炎にお前の炎をぶつけても無駄だってば!いつも言ってんじゃんか!」
話し方から、ラドの知り合いらしい男性がくるくるな赤茶の髪の毛を数本抜いたと思ったら、炎の海へ投げた。ジュッと音を立てて灰と化した髪。ラドにガルーダと呼ばれた男の眉間にシワが寄る。
「貴様は低能か?」
「そんな事は言うもんじゃないぞ。あんたが、苦手とする部類の魔法士だからね!」
その明るい声に呼応するように、精霊が四方八方に弾けていったのだ。オルトロスに、ラドまでもが、吹き飛ばされる。ラドはすぐさま落下体勢を整えて、足から着地したが。ガルーダが扱っていた精霊が消えた事で炎が鎮火されると、キリンが腹を抱えて笑い始めた。
「流石!兄さん!格好良い登場の仕方をありがとうございます!けれど、もう少し早く来なさい。リティア様とセイリン姫に何かあったらどうしてくれますか?」
「わっ!キリンが本気で怒ってる!今日は、魔獣が闊歩する王都に変貌しそうだ!なーんて。俺のブーメランに刺さったら、即死だけどね。」
キリンからの棘の言葉をもらって笑うその魔法士は、彼の兄のようだ。先程のキリンみたいに口元を引き上がらせたと思ったら、とても無邪気そうな笑顔を振り撒き、
「俺の可愛い弟を苦しめた人間の顔くらい見分けがつくよ。お前、誰?報告では左瞼に傷はなく、右瞼に3本の傷跡だ。ああ、違う。左瞼に2本、右瞼に1本も存在するんだっけ?」
「お前…阿呆か?」
2つのブーメランを空間を捻じ曲げて取り出す魔法士。ガルーダからの呆れ声での罵声に小首を傾げると、
「駄目だよ、この顔を忘れちゃあ?あんたが、こんな風にしたんだよ。魔術士達が喰われる瞬間を見てただろう?それともそれは、もう1人のあんたかだったのかなー?」
ガルーダの至近距離でブーメランが勝手に飛び交う。水滴を飛ばしながら。無色の毒液なのだろうか?ガルーダの翼に付着した瞬間、
「クソっ!」
悪態をついたと共に、肉が『溶けた』。悪臭が漂う中で、ラドの俊足が呆然としていたディオンを蹴り飛ばす。あのディオンが簡単に転がって、そして軽々と立ち上がった。
「戦闘中に失礼致しました。」
ディオンは改めて剣を構え直したが、剣は姿を消した。ディオンの黄金の鎧までなくなり、戦える状況ではなくなった。それは、槍として飛ばされたリティアの傘も同様。落下した他所の家の庭で、力なく転がっているのだ。リティアが呼んでも、全く動く感じがない。
「おい!サキ!こちらまで作用させるな!」
「それは無理だって。俺の周囲は魔法系を全て無効にするんだから。」
ラドが怒鳴るが、サキは笑顔で振り返った。リティアの隣のセイリンが身震いをする中、ブーメランが翼に突き刺さり、骨を剥き出しにさせた。
「魔法が使えない場合って、毒がよく効くよね。」
サキが戻ってきたブーメランを手にすると、両端からポト、ポト、と液体が落ちるのだ。ガルーダは舌打ちし、
「…分が悪い。ずらかるか。」
その場で、腐臭を発生させる人骨と土として崩れ落ちたのだ。驚く様子を見せないサキはブーメランの両端に蓋をした後、悪臭の発生源に手を翳して『何処か』に移動させてしまう。散っていった精霊達が、当たり前のように周囲を漂い、ディオンの手に剣が戻っていた。リティアも再び傘を呼ぶと、今度はこの手に収まってくれる。ラドの蹴り技がサキへと繰り出されたが、彼も軽々と躱しながら門を潜ってきた。オルトロスも門を潜ろうとする素振りを見せたが、門より少し離れた場所でしゃんと座ってしまった。リティアの足がオルトロスへと向くが、彼に辿り着く前にサキの手で両肩を捕らえられてしまう。
「改めまして自己紹介!王国魔法士団、一番隊隊員、サキって言います。キリンのお兄ちゃんです!」
「よ、よろしくお願い致します…」
ニコニコと少年らしさを残した笑顔を向けられたリティアは、後退りしながら頭を下げる。自分の兄に近い何かを感じるのだ。過保護そうな…
「…それで兄さん。本当に『彼』はあの時の魔法士?」
「まさか。意識を反らしただけに過ぎない。けれど不思議だね。ガルーダは複数存在するみたい。人間だった物が、どうやってだろうね?」
彼の手を捻るのはキリン。だが痛がる事なく、捻られたまま笑顔のサキは、サラッと怖い発言をしてくれる。リティアとしては好奇心で原理を知りたいと思ったが、それができてしまったとしたら、同一の人間に同時に殺される危険性が膨れ上がるのだ。ゆっくりと考えて対策を練る必要があった。サキの手が離れた瞬間を狙って、軽く屈んで彼から離れようとしたが、彼はこちらに視線を向ける事なく腕を掴んでくる。力では勝てない。困り果てて、セイリンやディオン、ラドへと目で助けを求めると、
「あ、あの!俺、テルって言います!その毒液って何ですか!?どうやったらブーメランから噴射できるんですか!?」
テルが走ってきて、リティアが捕まっている手に指を絡めるように握った。彼が出てきた事に驚きはしたが、微々たる隙間も利用させてもらう。今度の脱出はサキの目が動いたが、するりと抜けたらこちらのもの。短距離でも全力で門の外へ飛び出し、オルトロスを抱きしめた。彼の尻尾が激しく振られている。
「オルトロスさん!助けて下さり、ありがとうございました!お怪我はありませんか?」
《大丈夫。いっぱい頑張ったよ。また眠ってて良い?》
2つある筈の顔が1つしかない違和感を覚えながらも彼の頭を撫でて、
「ええ。ゆっくり休まれて下さい。」
その頬へキスをすると、クレイジードレインウルフの身体からリティアの身体へと光る魔石が移動していった。抱きしめている幼体は、オルトロスが居なくなっても尻尾を振っていたが、それも徐々に動かなくなり、次第に命の灯火が弱くなっていく。
「リティア様。その犬をこちらへ。」
ラドが片膝をついて、この仔犬を連れて行こうとするが、リティアは覆い被さるように包み込んで抵抗した。
「この子がもう永くない事くらい、分かってました。だからこそ、最期に見る景色を炎の中にしたくなかったんです。せめて、この数秒だけでも幸せに満ちた色を見せてあげたい…。腕長岩猿の子みたいに絶望に埋めたくないんです!」
リティアの涙が溢れる。親と引き離されながらも血の繋がりがない親に愛され、その親をも喪ったあの子猿と、仔犬がリティアの中で重なっていたのだ。だから、なりふり構わずに抱きしめにいった。
「くぅーん…」
ペロッと、リティアの涙を舌で掬い取った犬はぶるると身震いをして、この腕の中で力なく横たわった。キリンも、セイリンも、ディオンも、駆け寄ってくる。サキを置いて、テルも走ってきて、この仔犬はラドが抱き上げてしまう。リティアの手を取るのは、セイリンとディオン。2人に両手を引かれて立ち上がれば、テルの頬を涙が伝っていて、
「先生…、魔獣だったら殺して良い世界っておかしくないですか?」
「テル、俺に確認しても仕方ない事だ。リティア様、家に入られて下さい。」
縋るテルから距離を取るように、ラドは家から離れていく。足が動かないリティアの背中をキリンが優しく押してくれるが、彼からしたらトランプの中から魔獣を出しただけ。要は武器だった魔獣に、リティアが勝手に感傷的になっているという迷惑極まりない状況だ。
「…はい。分かってます。私の我儘だって。」
「リティ、誰もそんな事を言ってないだろう!」
キリンから言われる前に呟くと、セイリンに顎を持ち上げられて、彼女の怒りに満ちた瞳が目に映される。
「身勝手だって構いません。貴女様の優しさは、こうやって救いようもない化け物の心を触れて下さるのですから。」
犬を何処か連れて行こうとしているラドが振り返って、こちらへ目を細めるのであった。




