43,少年は投げかける
7時間目の終了の鐘が調合室の中まで響く。調合室内にある流し台で、リティアが洗おうとした皆のカップをディオンが代わりに洗ってくれた為、リティアは洗い終わった食器をタオルで拭いていく。
「リティ、ここでハルド先生が帰ってくるのを待つか?」
「はい、そのつもりです。セイリンちゃんは先に帰られてください。」
「ああ、分かった。」
「ディッ君、洗い物終わりそう?」
テルは、自分で取り出した茶筒を棚に戻しながら聞くと、返答の代わりに蛇口を閉める音がした。
「テルの食べていたところが1番汚い…」
そして机を濡れた布巾で拭いていたソラが呟き、
「美味しく食べてたからね!ソラだって結構食べてたじゃん。」
「美味しかったけれども、机を汚さないように気をつけて食べるべきだぞ。」
ソラに投げた言葉の返答が、座る椅子を移動していたセイリンから返ってくる。
「…すみません。」
セイリンに叱られ、テルはしょぼくれながら戸を閉めて、使った布巾を流し台で洗って干しているソラが、テルに伝える。
「テル、俺もハルド先生に聞きたいことがあるから。」
「俺も残る!」
「何で?」
即答してきたテルに、すぐに理由を問い正すと、
「ソラとリティちゃんが2人きりでいるなんて、うらや」
「テル、リティが困っているだろう。」
やり取りを聞いていたセイリンが、額を押さえながらため息をつく。
「テルが思っていることは何も起きないから。」
「テル、リティアさんは私の恋人と学校内で触れ回った貴方がそのようなことをおっしゃいますか?」
こめかみを指で支えるソラに加え、ディオンが乾いた笑いを零す。
「そこは事実じゃん!」
「まあ、大いに活用させていただいております。」
「リティを守れるなら、何でも良いが。」
子供のように手をブンブンと振るテルに、ディオンはパッと鉄壁の笑顔を描き、セイリンが眉をひそめた。
「…?」
自分の話をされていることは理解しているリティアは、何の話か分からずにキョトンとする。
「リティ、こちらの話だから。ロビーで待っているからな。」
「はい、早めに帰れるようにします。」
セイリンは、喚くテルの腕を無理やりに引っ張り、ディオンが開いた扉から退出していく。教室は静寂に包まれた。ソラは、手近な椅子に腰掛けて、リティアにも座るよう促す。静寂の中、先に切り出したのはリティアだ。
「ソラさん、えっと放課後に仰っていたことって。」
「昨日の夜、1階の接続通路で魔獣らしきものに追いかけ回させて、その時に会った人からリティアさんに伝えてくれって。」
昨夜のことを全て説明しても…と一度口を閉ざしたソラは、瞼を閉じて少し考えてから口を開いた。
「これが夢か現か分からない。蝙蝠と人間の頭と鬼に追いかけられて、その時に助けてくれたルナという少女は、リティアさんに『今度こそ私の元へたどり着いてね』って伝えるようにと言われたんだ。」
「ルナさん…?」
眉をひそめるリティアを見て、淡い期待を寄せるソラは声を抑えながら確認する。
「分かるか?」
リティアは、目を伏せて顔を横に振った。
「いえ、存じ上げません。あまり交友関係は広くないので、ルナって名前自体、御伽話でしか聞いたことがないのです。」
「聖女ルナか。確かに絵本なら家にあったな。」
「…。今度、お兄ちゃんにでも確認してみます。」
本当にすみませんと、頭を下げるリティアに、ソラの方が申し訳なくなってくる。
「なんか、すまない。夢かもしれないし。だから気にしないでくれ。」
「いえ、それは現実だと思います。」
リティアからの断言によってソラは目を見開き、頬に冷や汗が伝わっていく気持ち悪さを感じる。後ろでギィと扉が開いた。リティアとソラは、会話をやめて視線を扉に注ぐ。
「リティ…」
何で居るの…と腰に片手を当ててため息をつくハルドが帰ってきた。
「ハルさん、おかえりなさい…」
「あ、おかえりなさい。ハルド先生に伺いたいことがあります。」
しぼんでいくリティアと反対に、ソラは背筋を伸ばして立ち上がり、大股でハルドに迫る。ハルドは、近づいてくるソラと距離を取ることもなく、あと一歩でぶつかるほどの異常に近い距離をたもったままで笑顔で対応する。
「ソラ君、なんだい?」
「何故、今回のメンバーに俺を含めたんですか?魔術の練習をしたいと言ったセイリンさんとその場にいた人だけでなく、俺まで入れる理由が分からない。」
「それはあの日朝5時から、テル君のソラ君に対する愚痴から始まり、その後はソラ君のリスペクトを延々と聞かされていたからね。」
いやー、仮眠明けから凄かったよ。と陽気に笑うハルドに、ソラはさーっと青ざめて、その場で土下座してゴンと床に頭をぶつけた。
「すみません…テルがご迷惑おかけしました…!」
「テル君はソラ君に対して複雑な感情を抱えているよ。特に君への羨望だね。そんな彼にとって君なしに今回の件は難しかったと思うよ。ソラ君も参加させてほしいって言うだろうなって思ったし。」
ハルドは少し屈んで、土下座している細いソラの腕を掴み、立ち上がるように促したが、なかなか立ち上がらないため、仕方なくハルドは隣に体育座りする。背中をポンポンと叩く。
「…テルが俺に羨望?」
何とか顔を上げたソラは、絞り出すような声を出す。ハルドは視線が合わないソラの顔を目を細めて見ているだけだ。
「俺はあいつは凄いと思っているのに?」
「そこは2人で話し合ってみたほうがいいかもよ。聞きたいことは聞けたかい?」
ほら立ち上がりなさいと促すと、今度はスムーズに立ち上がった。
「…はい。ありがとうございました。」
ソラはペコッと頭を下げて、リティアを置いて調合室からスタスタと出ていく。リティアは、ただ静かにその光景を見ていただけだ。
「リティ、申し訳ないんだけど、これに君が聞いたことを書いてほしい。」
いつもの引き出しから紙を1枚、インクボトルとペンを取り出して、リティアの前に置く。すると、リティアは表情を変えることなく、さらさらと項目を埋めていく。
「私の『目撃情報』というわけではないけれどもよろしいですか?」
「ああ、大丈夫だよ。それでリティのご用事は?」
書き終えた書類を返却し、改めてハルドに向き合うリティアは、指を2本立てて、
「聞きたいことは2つあって、1つ目は昨夜も空間がひっくり返ったので何したんですか?と聞きたかったのですが、今ので解決しました。」
「なるほどね…、リティはこの学校内に魔獣がいることに何の疑問も感じないんだね。」
普通はいないものなのだけれど、これが初めての学校になるリティアは知らなくて当然かとも思ってしまう。
「精霊が数多く発生しているところは魔獣が絶対に発生しますから。この学校は街と比べ物にならないくらいに精霊が多いと思いました。それに魔術士団ではなく、単独任務に特化している魔法士団1番隊のハルさんが配属されているんですよ。」
「…良い洞察力だよ。あー、でも誰にも言ってはいけないよ。」
キリッとした顔で言い切ったリティアの顔の前で、指を立ててシーッとジェスチャーをする。
「勿論他言はしません。」
「良い子良い子。で、もう1つの聞きたいことは?」
「スインキーの旅行戦記の新刊発売のサイン会は今度いつありますか…?」
「あー。」
ボリボリと頭をかくハルド。リティアのバッグからは、まだ発売されていない『スインキーの旅行戦記2』5巻目が取り出され、ハルドに手渡す。
「今回ももしよければ。」
「分かった、もらってくるよ。」
実はこれが初めてではなく、シリーズ2からはハルドが代行していた。これはリグレスの書いている小説であり、リティアはこの小説が大好きだった。リティアに書いていることを教えていないリグレスにとって、サイン会で出くわすと気まずくなる。書籍が発売されてから、団内で会ったリグレスに書かせるのは、互いに都合が良かった。多忙な業務の中、リグレスが息抜きに書いている小説だ。あまり量産をしていないため、発売される書店は本当に少ない。リティアは、そんな本を求めてリルドと書店に並んだこともあり、その次の巻からはリグレスが、何かを渡すついでに紛れ込ませて、発売より先に渡すようになった。リグレスは自分が書いているなんて絶対言わない。
「いつになったら、自分から貰いに行けるようになるか楽しみだねー。」
「わ、私がサイン貰いに行くなんて…!」
先生はとてもお忙しいのに、ご迷惑をおかけしてしまいます!と、リティアは真っ赤になった顔の前で両手をブンブンと振った。