395,男は縋り続ける
両親が長らく今は亡き兄を溺愛して、自分に無関心であった為、幼い頃から他者との関係の持ち方が分からない事は理解している。自分自身、他者に関心はない。自分の命令で他者が死んだところで、痛む心もない。だから、自分よりも愛されて生きている子どもから、『愛情』を奪ってやる事が生き甲斐だった。他の子どものように親に甘える事ができなかった幼少期は、『あの人』の存在は自分にとって大きいものだった。大精霊ルーナ教に行けば会うことができた『あの人』は、サンニィール家の人間。愛情に飢えていた子どもの自分を受け入れてくれた『あの人』から、どのような仕打ちを受けても、更には今後受けて続けても、『あの人』から受けた愛情に縋り続ける。ベッドのシーツを赤く濡らし、ぼんやりと天井を見上げると、従者が勝手に包帯を取り替え始めていた。記憶を書き換えない事の条件として、『あの人』と従者を殴らない事を約束した。『あの人』が喜ぶ事ならば、何でもしたい。だが、
「…リティア。」
そう呟くと、従者達が慌てて周りを見渡して該当者を探すが、あの女はここに存在していない。あれ程、忌々しそうに『あの人』が語っていた女を殺そうとしただけなのに。思っていた反応とあまりにも異なった。平民だけでなく貴族まで従えていてもおかしくない程の財力をひけらかすドレス姿が、脳裏から離れやしない。顔を思い出すと、大精霊ルーナ教の壁画の『聖女』と見間違う。似ていたのか、思い出せないだけなのか。
「あの人は、本日もお越しにならないのか?」
「ダイロ様!今は安静になさって下さい!ダイロ様がお待ちの方は、その…連絡を頂けてません。」
ぐらつく頭で上体を起こそうとすると、何人もの従者に取り押さえられた。普段ならば、殴り飛ばし、蹴り飛ばす。だが、『あの人』との約束を破るわけにはいかない。この記憶がなくなったら、『あの人』と過ごした日々まで失われる。それだけは死んでも避けたいのだ。告げられた言葉を受けて空虚感に蝕まれたダイロは、再びベッドに身体を戻した。深くため息を吐くと、何やら外が騒がしくなり、従者達の動揺と共に部屋の扉が開いた。そこには痩せっぽちな少女と、『あの人』が護衛を後ろに控えさせて立っている。そのそばかす顔に不釣り合いな豪華な紅いドレスは、ダイロがルビネリアに贈った物だ。姉と比べられながら育ってきた彼女の内気な性格は、ダイロの傍に置いても嫌な気分にはならなかった。自分が長らく言語化できなかった感情の数々を彼女が代弁してくれる。この激痛の中、2人に微笑みかけるダイロ。
「お二人共、ようこそいらっしゃいました。この見苦しい姿をお許し下さい。」
「ダイロ、大怪我をなさったと聞きました。私、心配で、心配で。リダクト様に頼んで連れてきて頂いたのです。」
ウエーブがかかった金色の髪と紅い瞳の少女がベッドに駆け寄る。従者が道を開き、その後ろを『あの人』が歩いてきた。
「そうでしたか。本日も、ルビネリア様の美しさを紅が引き立てますね。」
彼女がそこに居るならば、『あの人』よりも優先しなくてはいけない。この国の第2王女であられるルビネリア。いずれ、彼女と隣で玉座に腰を掛けるのは己である。彼女の姉を潰す為に、幾度も暗殺を画策しているのだ。
「こんな時に、社交辞令なんて不要です…。痛いですよね。酷く血が滲んでおります。リダクト様、この怪我は治せないのですか?」
「どうでしょう?試してみますか。」
ポロポロと涙を零す彼女の隣までやってきた『あの人』が、ダイロの額に手を翳す。目の前がチカチカと輝き、痛みが和らいできた。魔法を施す『あの人』の口元が歪な程に引き上がっていたが、ダイロは何も言わない。その代わり、シクシクと泣くルビネリアの小さな手を握った。
この客が居ない1時間は、テルとリファラルがナイフ投げをして、シャーリーは昼分の片付けをしていた。週末のテルが都合の良い日は、大体こうだ。テルも懸命に教わっている。シャーリーは危なくないところで働いて、時折様子を窺う。
「…良いな。」
シャーリーは、皿を拭きながら呟いた。リファラルが生き生きしている。テルも夢中で投げている。これが魔獣を倒す為の練習だと言われていても、その輪の中に入りたかった。勉強漬けの毎日で、純粋に身体を動かしたいだけかもしれない。シャーリーが、魔獣と戦う事があるかは分からない。けれど、自分を利用した2人の人間には命を狙われてもおかしくない。いつでもリファラルが傍に居てくれるとは限らないなんて、理由をつけて参加させてもらおうか…と、忍び足で練習場と化しているフロアに足を踏み入れようとすると、
「シャーリーさんって、物語を紡げるんだっけ?」
「ひゃあ!?」
背後から男の声がして、間抜けな悲鳴を上げてしまった。テルもリファラルもこちらを振り返る。そしてシャーリーも恐る恐ると振り返れば、
「ハルドのおっさん!!驚かすなよ!」
「せんせーい!」
シャーリーがにこやかに手を振るハルドを怒ると、テルが尻尾をブンブンと振ってハルドに飛びついた。ハルドは彼の頭をヨシヨシと撫でて、すぐに地面に降ろしてから笑う。
「おやおや。ハルド殿、如何しましたか?」
「少し確認したい事があって。2階とシャーリーさんをお借りして良いですか?」
穏やかに微笑むリファラルに、軽くお辞儀するハルドがシャーリーの頭を撫でたので、その手を払おうとしたら簡単に掴まれてしまった。ガーッと怒りたくなったが、
「それでは、孫の部屋をお使い下さい。テルさんは、もう少し練習したら片付けて、ハルド殿と一緒にブレイクタイムにしましょう。」
「じゃあテル君、また後で。」
リファラルは即答で許可を出してしまう。彼が助けない来ないところを見ると、シャーリーも大人しく連行された。先生の作業部屋のベッドに腰を掛けるのは、ハルド。シャーリーは、扉の近くで立ったままだ。彼は別に座れとは言わないし、近づけとも言わない。それでも逃げ道は確保しておいた方が良い。
「俺、シャーリーさんに暴行した記憶ないけど。」
「警戒をするに越した事はない!」
笑いを堪えているハルドを睨む。睨んだ筈だ。瞬きする間もなく、視界から彼は消えていた。首に触れる体温に、血の気が引いて身体が震える。
「シャーリーさん、分かっているよね?本当に相手を警戒するなら、そんなものでは生温いんだよ。君には魔術士になってもらいたい。けれど、それまでに首を落とされるわけにはいかない。」
「おっさん、何した…?」
髪の毛に彼の息がかかる距離。潜められた声に引きずられるように、シャーリーの声も小さくなった。
「さあ?それでは本題に入ろうか。」
大袈裟に首を傾げて笑うハルドが、怯えるシャーリーを見下ろし、
「本一冊で終わる短編小説を書けるかい?」
「ん??やればできるとは思うけど…」
彼からの問いに、シャーリーは首を捻りながら腕を組んだ。今の話とどう繋がるのかが理解できないが、これだけの本に日々触れているのだから、やってできない事はない筈だ。
「では、練習して。ジャンルは何でも良いよ。今年中に君の物語を製本できる友人を連れてくる。」
ハルドはそれだけ言うと、シャーリーの肩を叩いて部屋を出て行った。突然の事に呆気に取られたシャーリー。自分の作品が販売されるのかは、分からない。けれど、確かに書いてみたい意欲はある。どんな物を書こうかと悩み出せば、笑顔のシャーヌが浮かび上がり、
「…お姉ちゃんに本の中で生きてもらおう。」
この喫茶店で、姉妹2人仲良く。誰が求めてくれるかは分からない内容だが、練習ならばそれでも良いだろう。沢山物語を生み出して、いずれは憧れの先生の隣に…。そこまで考えつくと、鼻歌交じりで階段を駆け降りた。彼が物語をどうするのか、この時のシャーリーはまだ何も知らなかった。