393,少女は特等席に座る
この移動教室の席取りは、誰にも負けられない。他の組の生徒よりも先に、次に授業を受ける教室に到着しなくてはいけない。疲れ気味のディオンを置いて、授業に必要な一式と小袋を大切に抱え込んだリティアは、急ぎ足で向かった教室の扉を開くと、リンノが静かに教卓に広げた資料を読んでいる。教室内を見渡しても、他の生徒はまだ来てない。リティアは声も表情にも出せないが、内心は飛び跳ねる程に喜んでいた。以前、調合室でリンノに言われた事を忘れたわけではない。それでも彼が自分に向けた物は、兄から注がれた愛情に近しいと理解している。リティアは彼の邪魔をしないよう、音を立てずに特等席に座る。教卓の目の前、一番前の中央の席。ここならば、見上げた黒板の文字は見えなくても、彼の言葉を一番近くで聞く事ができるのだ。
「本当、懲りませんね。」
リティアが席についた事でリンノの視線が資料から離れて、教卓が教室の隅へと運ばれた。リティアが首を傾げると、
「そこでは、黒板の文字が見えないでしょうが。何故こうも貴女の気配を感知できないのか、不思議でたまりませんよ。」
額を押さえるリンノ。そう言われても、リティア自身も分からない。彼は、もう片側に首を傾げたリティアの額を指で弾き、
「懐いては駄目なんですよ。分かって下さい。」
彼の眉が下がったが、リティアは拒否の首振りをした。今更、昔みたいに嫌う事はできるわけがない。
「…リーフィも貴女程に折れない心を持っていたら、きっと母も喜んだでしょう。」
彼はそう呟いて、他の生徒が到着するまで教卓の資料を読む作業に戻った。
リンノが行った地形の授業の後は、昼休憩となる。この授業を一緒に受けているのは、セイリンとディオンで、ソラとテルは歴史の選択科目だ。生徒が出て行くまで席に座っていると、他の生徒から、
「婚約者だから毎回残っているよね~。」
とか、
「破断になったんじゃなかったの?」
とか声を潜めた噂話が聞こえてくるが、セイリンの睨みに誰もが口を閉じていく。普段ならディオンも静かに圧力をかけるのだが、今日は朝から覇気がないのだ。日々の疲れが蓄積しているに違いない。リンノが、教卓を元の位置に戻して肩を竦める。
「リティア。早く出て行きなさい。友人達が困っているだろう。」
2人共が、自分を待っている事くらい知っている。それでも、他の生徒が居なくなってからリンノに渡したかったのだ。リティアはやっと立ち上がって後ろを確認してから、小袋を彼に差し出す。彼の目が丸くなった。この手からそれを受け取り、すぐに目の前で開く。
「クッキーですか。麦芽の香ばしい香りが広がりますね。」
感心する彼に、首を勢い良く上下に振るリティア。言葉に出せないけれど、これは感謝の気持ちだ。リティアの身体を守るこのハイネックの服に、リンノからのかなり多くの精霊が編み込まれているのだ。自分の事を嫌っていてはできない程の量だ。この場で口に運んでくれるかと期待して彼を見つめると、彼は袋を持たぬ左手で口元を押さえて小刻みに震え始めたように見えた。話しかけたくても声がない。トントンと彼の右手を軽く叩くと、
「大人になりましたね…」
彼は涙ぐむ。それはどういう感想なのか。セイリンの冷めた視線と、ディオンから棘のような眼差しが彼に向けられた。
「こ、これは有り難く頂戴致します。異性に無闇やたらに贈り物をなさらない方が…宜しいかとは思いますけどね。」
彼はどうにもこうにも一言多い。それ以降はリティアから視線を逸らして、黒板を消す事に注力するリンノ。セイリンに促されてリティアが退出する際に、ふと教室を振り返ると、小袋を見下ろしたリンノの横顔は、微笑んでいるように映った。青灰色の髪の隙間から覗かせる頬が、ほんの少し赤みを帯びているようにも見えたのは、リティアの気のせいだっただろうか。
青が兄よりも割合として少ないこの灰色の髪をウサギの尻尾より少し長い三つ編みにしたまま、目尻の紅を拭い取る。今は聖職者として、酒場に居るわけではない。父親からの指示を兄に伝える為に一般人に紛れ込んだのだ。あの馬鹿な娘さえ居なければ…この学校で兄が働く事は無かった筈だ。こんな貧乏くじを引かされて可哀想な兄。この前は、酒が進まない程に苦々しい表情を浮かべていた。それが突然立ち上がって勝手に帰宅したから、こちらが動揺したくらいだ。
「兄さん…」
先にウイスキーを口に運びながら、ぼんやりと考える。何故、長は兄をこの学校の調査隊員に指名したのか。他の一族には任せられないが、リグレスは『聖者』で、動き辛いからか。リゾンドを送ってしまえば、長が頭を抱える目障りな娘は消せるというのに。カラランと扉が開く音が聞こえて、そちらに視線を動かせば、兄が何やら小袋を持ってこちらに手を振っていた。
「リゴン、お待たせしました。」
「兄さん、お疲れ様。今日は呑めそう?」
兄弟にも敬語を使う兄さんが、こちらの誘いに応えるようにワインを注文する。ワインが運ばれてくると小袋を開いて、少し形が独特なクッキーを中から取り出した。
「いつになく、嬉しそうだね。それ、どうしたの?」
表情が読み取りにくいリンノの口元が少し上がっている事くらい、弟であるリゴンには簡単に分かる。
「…生徒に頂きました。リゴンと一緒に味わいたいと思ったので。」
1枚どうぞ、とリンノに手渡されて、リゴンは口に放り込んだ。少し硬くて素朴な味だ。とても店で出せるようなクオリティの物ではない。リンノは既に2枚目を味わっている。
「犬の肉球や、龍の手の形なんて。どうやって切り出したんでしょうね。」
3枚目を取り出してクスッと笑うリンノは、喉をワインで潤し、
「ラド殿に『下戸』だなんて嘘をついたので、いずれバレたら喧嘩を売られるかもしれませんね。」
そう呟くと勢いよくワインを飲み干して、もう一杯とお代わりを注文した。リゴンからしたら、リンノのこの機嫌の良さが気持ち悪いくらいだ。ずっと一緒に育ってきた兄が、見た事ない一面を見せる。誰に対しても冷ややかな視線を投げ、他の人間と関わる事を最小限にして生きてきた兄。愚かな弟を軽蔑する冷たい眼差しで、四番隊に入隊した弟が擦り寄って来ないように牽制していたと父親から聞いた。その兄とは思えない程に、『穏やかな』表情を浮かべているのだ。
「兄さん…?」
「はい?…ああ。父は、何て言っているのですか?」
まるで別人の兄に不安になったリゴンの呟きで、彼はいつも通りの表情に戻った。少し眉間にシワを寄せた普段の顔だ。どちらが『本当』の兄なのか。リゴンの中で密かに疑念が渦巻く。けれど、それを深掘りする為に訪れたのではない。
「あいつを連れ出すフィールドワークは、いつ頃になるのか。予定を早めに教えろ、と。」
「それだけですか?」
父親からの言伝を伝え始めると、表情を動かさないリンノに更に催促される。リゴンは己の酒で喉を焼きながら、
「え、えっと。精霊人形とコンタクトが取れたかどうかも、確認しろと。それと、可能ならば『あの2人』に深傷を負わせろと。」
ボソボソと小声で話す。兄のあの眼差しが、紛れもなく自分に向いているのだ。リゴンの背中が丸くなっていく。まるで自分が悪い事をしているような気分になってくる。
「まず、精霊人形と話す事は1度だけ叶いましたが、良いように弄ばれただけでした。あと、あの2人と共闘する機会がありましたので、己の力量と比較しましたが…やはり、一番隊の中でずば抜けているだけあります。私には難しいのです。」
サラサラと答えるリンノの中に、明らかな違和感を覚える。彼が、『敵』を評価するとは何事か。自然とリゴンの拳に力が入る。
「彼女の件は難しいかと思います、とお伝え下さい。私が生徒の前でやる事はありませんから。」
更に続けられた言葉で、リゴンの拳はテーブルを叩き割る。リンノの手は小袋だけを救い出していた。
「…残念でなりません。リゴン。」
何が残念なのか。彼は唇が震えるリゴンを静かに見つめて、慌てて駆け寄った店員に金貨を数枚渡して店を後にする。
「クソっ!あいつら、俺の兄に何をした!!」
割れたグラスの後始末をする店員に金貨を投げつけ、リゴンは兄を追いかける事なく街から出て行った。




