388,少年は指を舐める
野営地に戻ると、カルファス達が予想していた通りだった。山盛りの柘榴、林檎と洋梨が布の上に積み上がっている。葉苺もリティアの手の中にあり、彼女の隣に真っ赤な瓶が置いてある。ラズベリーてんとう虫だろう。今回の外出に、リティアはあれやこれやと採取道具を持ってきていた。彼女としては、薬の材料の採取もついでにするつもりだったのかもしれない。テルはディオンがいないのを良い事に、リティアの隣という特等席に座る。ソラのスティックが回されて、テルの手の上に水風船ができる。バシャッと音を立ててテルの手を濡らし、カルファス達にもスティックを向けるソラ。突然の事で理解が追いつかないテルに、セイリンがハンカチを乗せて、
「私も先程、リティにされたよ。要は手を洗えって事だ。覚えたての魔術を応用できる柔軟な頭は、本当に羨ましい。」
「そっか!ソラ!声をかけてくれても良かったんじゃないの?」
彼女に教えてもらい、セセリの手に水をかけたソラにテルが頬を膨らまして文句を言うと、
「かけただろ。」
「えええ…」
振り返ったソラの眉が下がり、全く覚えのないテルが困惑する。ソラの傍にいるカルファスが小さく笑い、セイリンのため息が漏れると、
「テル、私の耳にも届いていたぞ。」
「あちゃー。ごめんなさい。」
彼女に呆れられてしまった。どうも聞いていなかったのは自分だけだったようだ。これは、素直に謝る。リティアの隣という特等席に目が眩んだのだ。ソラが手を洗えるように、セセリがスティックを回して水を作り上げた。こんな風に軽々と魔術を使いこなすソラが、羨ましい。自分には到底できない。簡単な魔術を覚える事はできても、彼みたいには思いつかないだろう。やはり自分は…
「…」
無言のリティアにトントンと濡れた手を叩かれて、現実に引き戻される。表情が動かない彼女から、香りが強い葉苺を手渡されて、こちらの頬が緩んだ。一粒口に入れると甘い汁がジュワッと広がる。まるで苺のジュースを飲んでいるみたいだ。
「リティ、私も頂きたいな。」
カルファスもにこやかに声をかけて手を差し出すと、リティアが1人1人に配ろうと立ち上がった。カルファスから始まり、ソラ、セセリ、そしてハルドが手渡される。テルの目が大きく見開いた。帰ってきた事すら気がつかなかった。何故か、ハルドが輪に加わっていて、少し離れた所からディオンが歩いてきている。
「リティ、待つように言わなかったかい?」
ハルドの笑顔の後ろに見え隠れする静かな怒りに、テルの背筋が伸びる。リティア当人はブンブンと顔を横に振り、残りの葉苺もハルドの手に乗せて、ディオンへと駆け寄って行ってしまった。ハルドは呆れ顔で肩を竦め、
「とりあえず、木の魔獣に君達が捕まってなくて良かったよ。」
「何の収穫もありませんでしたが。」
カルファスが深々と頭を下げると、
「下手に近づけば、君達が喰われていたよ。」
ハルドから、怖い発言がサラリと出てくる。あの時のソラの判断は正しかった。それに対して自分は、そこの木から収穫を望んだのだ。自分がよく潜っていた森には、そんな木は無かったと思う。もしあったら、小さい頃に死んでいただろう。顔を上げられなくなり、俯き始めるテルの手に枝が渡された。不思議に思って見上げれば、リティアが他にも枝を持っている。ハルドが赤い塊を後ろから持ってきて、
「土竜の肉を各自焼くんだよー。」
と、テルの手の中の枝へ小さめに切ってはある生肉の塊を刺した彼にコツンと手の甲で額を叩かれた。それだけでテルの沈んでいた心がリズミカルに跳ねる。皆に枝を渡し終わって、隣に戻ってきたリティアのもう片側にはディオンが座ったが、そんな事は今のテルには気にならない。大好きな彼女と、大好きな先生が『自分』を見てくれた。彼女の手の動きに合わせて、自分も獣臭い夕飯が焼き上がる瞬間を楽しみに待った。
土竜はかなり匂いが強烈だったが、ハルドが1人ずつ回りながら、洋梨を潰して果汁をたっぷりと垂らしたおかげで口に運ぶ事ができた。リティアに至っては、自分で葉苺を肉の切り込みに挟んで食べている。ディオンにも、テルにも葉苺を手渡してくれたので、テルも鼻歌交じりで真似てみる。
「リティは、勝手に何処かに行ったのかい?」
ハルドが柘榴を摘みながら聞けば、リティアの否定を込めた首振りが激しい。髪が乱れるだけでなく、テルの方も向いている筈なのに速すぎて顔すら見えない。
「せ、先生…その。わ、私が花を摘みに行きたかった為…ついてきてもらったのです。」
セイリンが怖ず怖ずと手を挙げると、一瞬にして気まずい空気が流れた。ハルドの目が見開かれた瞬間、リティアが林檎を彼に投げつける。ハルドは自分にぶつかる前に掴んで、
「これは失礼したね。リティが怒るのもご尤もだ。」
苦笑いしながら林檎を丸かじりし始めると、
「テル、どうして皆が口を結んだ?」
この重い空気の中、隣のソラが肝が冷えるような質問をしてきた。
「寮に帰ったら、教えるから!」
大慌てでテルが彼の口を押さえると、カルファスが気を利かせて話を変える。
「この森に入る時はいつも、長袖、手袋、帽子は必需品でしたが、今回はなくて大丈夫でしたか?」
「そうだね、ここは人間を捕食する寄生型は生息していないんだ。けれども、その判断は生徒には難しい。だから一律で、森にはあの装備で入ってもらう事にしている。俺が赴任する前は、本当に散々だった。教師が無知故に己の身だけでなく、生徒まで危険に晒したからね。」
ハルドもそれに乗ると、
「本当にハルド先生は、教師に向いていると考えるのですが、期限付きである事が残念でなりません。」
「え!先生、いなくなるの!?」
カルファスからの惜しむ言葉に、テルの血の気が引いた。ハルドが居なくなった学校なんて、想像するだけで寂しくなる。調合室にいつも通り足を運んでも、あの笑い声も茶の香りも、皆との楽しい時間も消えてしまうというのか。串焼きを落としそうになったが、反射的に左手で受け止めた。ハルドはいたずらっぽい笑顔を浮かべ、
「あと何年だっけな。とりあえず、君達が卒業するのは見送りたいから留年はしないでね。」
林檎の芯を焚き火の中に放った。不安で仕方ない。あと2年先まで、ハルドは本当に居てくれるのだろうか。彼が学校を出て行く時にはついて行こうとまで考えていると、リティアに左手を指でつつかれた。彼女を見てもその無表情からは何も読み取れない。刺された手を見ると、人差し指に赤紫色の丸い物があった。それはとても甘い果実の香り。先程肉を受け止めた時に、葉苺の汁が飛んだのかもしれない。知らなかったら、制服につけてしまうところだった。リティアに感謝しつつ、指を舐める。彼女がブンブンと顔を横に振って、瓶を差し出してくるが、ラズベリーてんとう虫がうじゃうじゃとしている瓶に、首を傾げた。ブチッと口の中で音がした瞬間、瞬く間に広がる強烈過ぎる苦みに、口に含んでいた咀嚼していた肉ごと吐き出す。
「大丈夫か!?」
ソラに背中を擦られ、リティアはずっと瓶を指差していた。
「あー、まさか。」
ハルドが笑いながら駆け寄り、他の皆も、そして御者も心配して集まってきてくれて、一気に恥ずかしくなる。
「ラズベリーてんとう虫、食べちゃった…」
居た堪れなくなって、テルは顔を覆った。リティアからのジェスチャーの意図を読み取れていれば、こんな酷い味を口に入れる事は無かっただろうと、反省できるだけの冷静さは、持ち合わせていたようだ。