381,少年は積み重ねる
カルファス達から採取サークルの今後の予定を埋められて、放課後に勉強会した後は喫茶スインキーを訪れた。言葉を発する事ができないリティアは調合室に残り、ディオンはスインキーの前で別れた。セイリンはというと、懸命にグラウンドを走り込んでいるようだ。テルがエプロンをつけて接客を始めると、シャーリーが席につく。姉の失踪から5年という月日は彼女にはあまりにも長過ぎた。その間、文字を全く書かなかった事が勉強の理解を遅らせる。本人もそれを気にしているらしく、仕事が終わると文字を書く練習をしているようだ。一昨日より昨日、昨日より今日と段々と文字を書く速度が上がってきている。
「時間を割いてくださり、ありがとうございます…」
「そんな言葉を投げる暇があるなら、その問題を5問解け。受験当日まで半年もない。この試験が駄目なら来年だが、こちらも忙しくなって面倒を見れなくなる。」
毎回頭を下げてくるシャーリーに、手作りの問題集を渡した。テルとの合作だ。ソラの言葉が足りないところをテルが補ってくれ、前回の試験内容にかなり近いものができたと自負している。
「はい…」
少し傷心気味の彼女を放置して、持参した魔術陣の本を1冊開く。1回では覚えられない為、もう何度も図書館で借りている本だ。今のリティアにどんな治癒魔術が効果があるのか、細かく書いてある効果を読み漁りながら、魔術陣の図を頭に叩き込む。彼女も黙々と紙の上でペンを滑らせる。すぐにできるようになるものではないから、その手は簡単に止まるのだが。暫し問題を睨み、肩を落としたところで、ソラが説明を始めた。彼女は自分のメモ帳に只管書き込み、公式、単語、その公式や単語の意味を書き続ける。時間はかかるが、地道にやっていくしかない。シャーリーが書き終わると、それに合わせてテルから紅茶が運ばれてきた。ソラもその熱いカップを受け取る為、今読んでいる本を参考書の上に積み重ねる。シャーリーの表情が笑顔になり、付け合わせできたクッキーを口に運ぶ。
「テル、ありがとう!そろそろ戻った方が良い?」
「ううん!大丈夫!それ程大変な注文は来てないから、勉強頑張ってね!」
彼女がしきりに満席になった店内を見渡すと、テルが笑顔で首を横に振り、ソラにサンドイッチを渡して他の客の接客する為に離れていく。シャーリーは心配そうに彼の背中を見つめてから、すぐに紙と向き合った。他の客の雑談の騒音は耳に入らないかのような集中力で、先程解けなかった問題の類似問題を片付けていく。数学が終わると、次は歴史。これに関しては難なく解いていく。ソラはその早さに驚き、彼女の解答を眺めて即座に採点をしていった。全問正解だ。
「凄いな。」
こんな他人事を覚えられる事に素直な感想を述べると、シャーリーの頬が赤く染まったように見えた。
「はい!先生の本棚に歴史を題材にした小説が数多くありましたので、文字の練習がてら読み込んでます!」
「…そうなんだな。生憎、小説はあまり興味がない。リティアさんならば、話が盛り上がるだろうが、俺だと…」
嬉々とした彼女の発言を、ソラは軽く聞き流す。先生というのは、ハルドやラドではないと思う。「ハルドのおっさん」と呼んでいるのだから。
「リティアさんはどこか具合が悪いんですか?」
この騒音の中で、シャーリーの抑えた声だけがソラの耳に響き渡った。リティアの病気が何なのかが、全く見当もつかない。魔獣の仕業であったとしても、説明がつかない。突然『奪われた』身体の自由と言語と表情は、魔法での抑えつけなのか。ディオンの証言だと、彼女の口の中から美しく輝く透明な水晶が出てきたんだとか。彼を疑うつもりはないが、無理がある。人間の身体に、そんな物が入っている器官はないのだ。
「…言えないくらいに悪いんですね。」
ハッと顔を上げると、目の前のシャーリーがボロボロと涙を溢して、手作りの問題集のインクを滲ませていた。
「いや、説明が難しい。彼女は突然、表情と言葉を奪われたらしいんだが、俺にはその理由が説明できない。分からないんだ。」
ソラがこめかみに指を当てて、憶測を含まない現状を伝えるが、
「どういう事?」
「いや…その。だからな、分からないんだよ。」
首を傾げられても、こちらだって知りたいくらいだ。彼女が勉強を再開する頃には、己が持参した本の存在を忘れていたのだった。
閉店時間の前にテルとソラは帰宅して、最後の客の接客はシャーリーが担当した。穏やかな表情を浮かべながらビーフシチューを口に運ぶ高齢男性は、何かと声をかけてきた。
「仕事しながら勉強かい?頑張っているね。」
から始まり、
「おじさんが持つから、ここで夕飯をお食べなさいな。家に帰ってからも忙しいだろう。」
知りもしない相手だというのに、優しくしてくれる。しかも彼は常連客ではない。彼の厚意を無碍にするワケにもいかず、ここに住んでいる事を黙ったまま、リファラルの美味しいオムライスをご馳走してもらう。湯気が立つオムライスにスプーンを入れた時、ハルドが閉店時間を無視して入店してきた。怒りたいが、他の客の前。シャーリーは我慢して顔面に力を入れて接客をしようと席を立つと、
「校長先生、お疲れ様です。先生が外食だなんて珍しいですね。」
あいつの方からこのテーブルに近づいてきて、高齢男性に声をかけた。シャーリーは、密かに驚く。目の前の男性はテル達が通う学校の校長先生なのか!いずれシャーリーも世話になる人間だ。粗相のないように気をつけなくては。
「おお、ハルド先生もご苦労様でした。リンノ先生がとても美味と仰っていたので、足を運んでみたのです。ラド先生がボソッと呟いていたメニューを頂きました。」
ニコニコと目尻にシワを寄せる校長先生と、
「あはは。ラド先生は、ここのビーフシチューが大好きですからね。シャーリーさんもそのまま食事をしていて良いよ。少し気になる事を店主に確認しに来ただけだから。」
ハルドは楽しそうに談笑しながら、中途半端に立ち上がったシャーリーを手で制して厨房へと足を進める。彼を見ると、必ずちらつくのはリティアの笑顔。そのくらいよく2人は、この店で一緒に居たのだ。
「あ…リティアさんは無事ですか?」
「勿論。悪い奴に少しばかり悪戯されただけさ。君は試験勉強を頑張りなさい。」
勇気を出して声をかけると、ハルドがいつも通りの胡散臭い笑顔で振り返るだけで、詳細は何も教えてくれる事はなかった。仕方なく、目の前の校長先生が店を出る時まで爆発しそうな心を抑えて接客を努めた。客の姿が見えなくなってから厨房へと駆け込むと、もうそこにはハルドが居なかった。片付けを始めているリファラルに、
「彼も忙しい身ですから、追いかける事はなさらないで下さいね。」
釘を刺されて、渋々フロアの片付けに戻る。まずは片付けの邪魔になる自分の勉強道具を抱えようとした時、見覚えのない本に気がつく。パラパラと捲ると魔術陣がぎっしりと書かれた本で、そこらの書店では販売されていないと思う。案の定、背表紙に「魔術士養成高等学園所蔵資料」と記載があり、ソラの忘れ物である事を理解する。ゆっくりと中身を確認したいが為、いつもよりも素早く片付けに取り掛かる。先程までのモヤモヤは嘘のように、にこやかに就寝の挨拶をして自室に籠もり、魔術式のランプの灯りで明日には返すべき本を開く。ハルドを驚かせてやるという悪戯心の一心で、日が昇る迄の時間を有意義に過ごしたのだった。