361,少女は駆け出す
リティアが怒った日の翌朝、いつもよりも早い時間に目が覚める。まだセイリン達は夢の中で、リティアが服を着替えても目覚める気配がない。セイリンが起きない事よりも、ケルベロスが瞼を開かない事に違和感を覚えて、彼の背中を撫でてみた。ピクリともしない。彼らがリティアに触られて動かない事は、流石におかしい。何処かで何かが起きていると見たリティアは、肌身離さず首に下げている飛龍のペンダントを握り、
《ハルさん、聞こえますか?》
と心に呼びかけたのだが、ヴォンと雑音が聞こえただけで彼からの返答がない。
「ケルベロスさん?セイリンちゃん?スズランさん?」
1人1人に声をかけてみるが、全く反応がない。リティアは、ベッドに腰を掛けて今の状況を考える。これは夢の中ではない。リティアを誘い出す何かがあって、他の存在との間に壁のような隔たりがあるのだと判断する。こちらから働きかけが出来ても、向こうからは難しいのだろう。知らないふりしてベッドに戻るのも1つ、相手の罠に誘い込まれるのも1つ。とりあえずは、簡単にできる前者からしてみようとベッドの中に潜ると、
《聖女への供物として、その首を差し出せ。》
男の声が頭の中に響き、咄嗟にベッドから転がり降りる。首があったところに大鎌の刃が落とされ、ベッド下まで貫通していた。リティアの背筋が凍る。すぐさま、自分が身につけられる武器になる物を装着し、クラゲの傘を抱きかかえる。ケルベロスが動けないくらいに、相手が強いのだろうか。それならば、リティアが戦ったところで勝ち目はない。カノンもロゼットも傍に居ない中、自分に何ができるのか。落ちてきた大鎌に手を伸ばそうとすると、
「リティア!あいつの思うつぼだから止めるのです!」
大鎌とリティアの間にアメジストの腕が挿し込まれた。その腕から身体が生えて、アリシアが出来上がる。
「アリシアさんがやったのではないのですね。」
「リティア、その偏見は酷いと思うのです!貴女には、あの子を理解して欲しいだけですので、こんな風に命を狙いませんから。」
リティアの周りをくるくると飛びながら怒る彼女は、
「それでですね、リティア。この魔法罠は、一昨日の朝まで貴女に仕込まれてませんでした。一昨日、普段関わらない相手に触れられたとかなかったですかー?」
ツンツンとリティアの頬を突いたり、頭を叩いたりしてきた。一昨日のダンスパーティーと言えば…と思案し、
「…ありました。ダイロって人です。」
馬鹿にしてくる男に辿り着く。それ以外の人は兄以外、この学校に在籍している人ばかりだ。アリシアの鋭い眼光がリティアへと向けられ、
「今、学校にいます?」
「いえ、いませんよ。勝手にダンスパーティーに乗り込んできたんです。」
リティアは慌てて否定する。アリシアが、こういう怖い表情をすると思わなかったから、リティアは少し戸惑いが隠せない。
「そいつの周りに何色の精霊が居たのですか?」
「…あ。彼は不自然でした。魔法士でも魔術士でもなさそうでしたが、傍に何も浮遊してなかったと思います。あの時、何故気がつかなかったのか、自分でも分かりません。」
傘を持っていないリティアの手をグイッと引っ張るアリシアに、リティアは抵抗せずに唇を震わせていた。あの時であれば、兄に助けを求められたというのに!そう思うと、血の気が引く。魔法を前にして無力である自分。魔法の発動速度を考えても、魔術陣を描く時間を要する魔術では太刀打ちできない。
「それは、貴女の傍に大量にいるからなのです!」
アリシアのこの大声で誰かが起きる様子もなく、リティアはされるがままに扉の前に立たされる。
「飛龍君の所までだと、学校の外は守ってあげられません。本当はアレの所に送るの嫌ですが、背に腹は代えられないので、銀龍ちゃんの棲家へ送ります。」
「龍ではないと難しい相手ですか?」
扉をすり抜けて、顔だけこちらに戻すアリシア。リティアは、彼女が誘導するままに取っ手を掴む。大鎌がギギギと音を立て、後ろを振り返ると、
「あいつを知らないのでしょうから、分からなくて当然でーす!そこの鉄鉱ちゃんは、まだその力の殆どがスヤスヤしてますので今は役立たず。」
今にもベッドから抜けそうな大鎌にアリシアからの雷が落ちた。ベッドも焼けてしまうが、自分の命には代えられない。アリシアの罠にかけられていたとしても、ここで拒否をする事の方が危険を伴う。
「寮室も安全じゃないですし、通路も校内も安全のあの字もありません!けれど、ここにいるよりは銀龍ちゃんに守ってもらった方が良いと思います。」
リティアが何も言わなくても、彼女はひたすら話し続けて、アリシアの言う『あいつ』から助かるであろう方法を教えてくれる。
「どちらに行けばお会いできるのですか?」
「聖堂までいけますね?」
目的地を聞くと、実習棟4階にある女子寮と対角の場所を指定された。アリシアの話だと、この時間にハルドが学校に居ないようなので、
「シャッターか、鍵か、開けて下さいね!」
リティアは浮遊するアリシアに頼んで、この寮から駆け出した。
ずっと隣を浮遊するアリシアが、ブーブーと不満を垂らしながら、1階の接続通路のシャッターを動かしてくれている間にも、大鎌が向かってくる。リティアは傘を開き、相手の動きを傘越しに警戒していた。
「リティア!開いたんですよ!」
「分かりました。」
アリシアの声と共に傘を素早く閉じて、少しだけ持ち上がったシャッターの下に滑り込んで通路を走る。ドンと音を立てて落ちたシャッターの下には大鎌が挟まれていた。
「あんなの、すぐこっちにくるんですよー!」
「本当にあの鎌だけですか…?」
実習棟側のシャッターも開けながら怒るアリシアに確認を取ると、
「まさかー!このアリシアちゃんが、いくつか動けないようにしてやりましたよーだ!」
「ありがとうございます。」
ドヤ顔するアリシアに、再び持ち上がったシャッターの下を潜りながらお礼を言った。
「何度でも言いますが、これは私じゃないですからねー!!あいつみたいな悪趣味ないんですよー!」
「『あいつ』というのは、何なのですか?」
隣で叫ぶアリシアと共に、一気に職員室側の階段を駆け上がる。大鎌がシャッターを壊してブーメランのように回転しながら追いかけてくる為、3階のシャッター横の扉から通路へと飛び出して、聖堂に近い階段へと向かう。その間も、大鎌がシャッターを壊そうとしてガンガンと音を鳴らしていた。
「あいつは…」
朝日を浴びるアリシアの表情が、曇った。どこか憂いを帯びたその表情に、リティアは目を離せなくなる。この短い時間で、知らない彼女の一面をどれだけ見ただろうか。以前、リティアの前に現れた時からは感じ取れなかった部分ばかりだ。アリシアが4階へのシャッターの隣の扉を開けようとした時、シャッターが天井に向けて折れ曲がった。リティアが慌てて傘を構えると、
「レインさん…!?」
2人の前に現れたのは、銀色の鱗が生えた腕を持つ茶色髪の少年。確かに彼の腕には銀龍の鱗だった。アリシアが言っていたのは彼か。
「ぼさっとしてないでこちらへ来い!」
レインがリティアへと手を伸ばし、アリシアの雷が通路を塞ぐように何本も落ちる。すぐそこまで迫っていた大鎌は床へと叩き落されたが、数秒の時間稼ぎにしかならなかった。リティアの首めがけて飛んできた刃。傘を広げて刃に向けるよりも早く、レインの背中から出現した龍の翼がリティアを包み込んだ。