341,教師は握り潰す
来週から科目選択授業が始まる為、他の教師が帰ってからも職員室で教材の確認をしていた。貴族出身の生徒との癒着で解雇された前任者が残した資料に目を通して、頭の中で授業構成を組み立てていく。教師なんて仕事をやった事は愚か、家庭教師以外を知らないリンノにとって重荷である。けれど、既に先にこの任務に就いている2人はやっているのだ。弱音を吐く事は、自分のプライドが許さない。こんな事をやっている間に、あの2人は旧校舎へ討伐に行ったのだ。本来の目的を果たしたいが、こちらの仕事に慣れるまでは難しい。
「…全く。」
机の上の紙の束を地形の種類ごとにまとめていき、そこに地形の名称のメモ書きをつける。こんな単純作業をしていると、頭は別の事を考え始めるから作業時間が増幅した。ハルド達は、ジャックを魔法罠本に無事入れたようだが、その時にリティアが炎の渦の中にある無虚の空間に手を伸ばして、何かに触れる動きをしていたとの報告。本人に聞くとジャックであると言ったようだが、あの炎の魔獣にジャックの姿はとうに消え失せていた。魔法士としての目をリティアが持っているという事なのか?使えもしない癖に。自分にもハルド達にも見えない『何か』を見るだけの目。
「…絶対に有り得ない。」
そんな物があるのであれば、リーキーが一族を捨てる事はなかった筈だ。リティアが子どもながらに隠していたなら許せないが、あの時の彼女の瞳からはそんなものを感じる事はなかった。今回の違和感だって、彼女の『勘違い』か、溢れ出した『想像力』でジャックの姿を補完したに過ぎない。リンノは悶々としながらメモ書きを何枚も書いて授業で質問が来ても大丈夫なように、必要な地形情報とその周辺の地域の特徴を書き残していく。紙の束をある程度といっても、足元の箱の中にまだ纏まっていない紙の山が詰まっているのだが、机の上の紙はブックエンドに立てていった。そして綺麗になった机には、1枚の封筒。宛名も差出人もない封筒から手紙を取り出すと、差出人に『リデッキ・サンニィール』と書いてある指示書。ため息を吐きながら目を通して、元あった形にして引き出しに仕舞おうとした時、
「筆跡が異なる気がしません?」
職員室でのリティアの言葉が蘇る。慌ててもう一度手紙を取り出して、用心深く見直すと…リデッキにしては字が殴り書きに見える。ところどころで彼の字の癖と異なる箇所を見つけ始めて、怒りに任せて紙を握り潰したが、
「結論を急ぐのは、得策ではないって話。」
リーフィへの手紙を手伝って貰った時のハルドの言葉が心に静かに浸透していく。1度、ぐしゃぐしゃになった紙を引き伸ばし、
「さてさて、『仕事』に戻りますかね。」
何食わぬ顔して封筒に戻した。
ここ2日間、ずっと悩み続けながらも身体の疲れを癒やす為にベッドに転がるセイリン。いつものようにリティアは、ベッドの上に座ってケルベロスとスズランと身を寄せ合って本を読む。
「スズラン…」
寂しさを覚えたセイリンが呟くと、リティアの右股にくっついていたスズランが飛び起きて、セイリンのベッドに頭を乗せてくる。そのゴツゴツな頭を撫でると、少しだけ癒やされる気がするのだ。本を懸命に読んでいるリティアにも声をかけると、
「ソラさんでしたら、分かって下さいましたよ。」
「まだ私は何も言っていないのに…。」
本を閉じて微笑んできたリティアは、セイリンが聞こうとしていた事が分かっていたようだ。ここ2日のセイリンは、ソラからダイロの件で言われる事を避ける為、闘技大会参加を理由に調合室に行かずに、日が暮れるまで走り込んでいたのだ。その間、リティアにソラを落ち着かせて欲しいと頼んだのだ。
「セイリンちゃんのお願いですから。しっかりお伝えしないと。私はダイロさんを知りませんが、既に頂いた情報だけでも彼の影響力が強い人達への打撃は計り知れません。それに、ソラさんも『死んだ人は帰ってこない』って納得してましたよ。」
リティアがケルベロスの右の頭を撫でると、左端の頭が真ん中の頭に顎を乗せて、撫でろと催促する。それを眺めながら、密かにこの3つの頭は喧嘩しないのかが気になったが、とりあえず見た事はない。セイリンは枕に顔を押し付けながら、
「ソラは偉いな…。納得できないのは私だけじゃないか!しかし、あんな汚いやり方で引きずり落とすのは、己の騎士としての品格を疑う。けれど、私の守っている民は今も苦しめられている。」
ダイロをギャフンと言わせたい心と、自分の中の騎士像に揺れて葛藤していた。リティアの言う通り、ダイロの近辺の人間が崩れる事で、治めている地域の民が尻拭いする事になり、困窮する姿も容易に想像できるのだ。フェーシーの息子を殴り殺し、その娘をひったくった屑男自体が苦しむ事は因果応報だろう。その背後の何も知らない善良な民は…!
「…セイリンちゃん。」
「どうした?」
駆け巡る思考の渦に飲み込まれていたセイリンをリティアの声が引き戻す。枕から顔を外して彼女と見つめると、
「この件、噂なんて流したら私達の首が飛ぶかもしれません。」
「なっ…」
恐ろしい発言に、セイリンの血の気が引いた。やはり、そう上手くいくものではないという事か。
「噂を流すなら、日常会話の中の方が怪しまれないでしょう。カルファスさんもそれを理解していると思います。だから本当の彼の目的は、私の『お披露目』かと。」
「お茶会で流す噂ではないが、私をその気にさせて、リティを護衛をさせようって事か。あーもう!」
リティアからの説明で、感情が昂ぶるままにベッドを叩くとスズランが驚いてひっくり返った。慌ててベッドから降りて、手足をバタバタと動かす彼女を抱き上げる。…更に重くなった。しかし、今回のセイリンの武器もかなりの重量な物を選んだのだ。筋トレだと思えば頑張れる。
「カルファスさんは、セイリンちゃんが気がつくと考えているかと思いますよ。」
「何故そう思う?本当は私を陥れたいのかもしれない。」
天使の微笑みを向けてくるリティアに、自分の嫌なところを見せてしまった。騎士として奮い立たせた強がりの皮を剥がせば簡単に見えてくる貴族としての側面。相手の裏の裏まで考え、自分に降り注ぐ災いを極力払い除けなくてはいけない。上っ面の付き合いをして疑ってかかる事は、今のセイリンには負担でしかない。折角、それをしなくて良い学校という環境にいるというのに。
「恨まれるような事でもしたのですか?」
「いや、記憶にない。リティは、何故彼らがそう考えていると思ったんだ?」
こちらのモヤモヤを知らないリティアが首を傾げてきて、セイリンは肩を竦めながら首を横に振った。
「えっと…ですね。今回、私を攻撃した事だって『演技』で、自分達の立場を危うくしてでも守ろうとして下さいました。だから彼が、私達に身に危険が降りかかる事を本心で提案すると思えません。」
「仮にも命を狙われたというのに、肝が据わっているというか…何というか。良いぞ。リティの為ならば、あいつの話に乗ってやる。その代わり、ただのお茶会だ。未来の主にこの顔を売る事は、悪い事ではない。ただ、リティはどこの令嬢として参加するんだ?」
あいつらを信頼しきっているリティアが、心配になってくる。セイリンは、スズランを彼女のベッドに乗せてから彼女に微笑んで、切り込みに行く。彼女の一族について言わない事はこちらから聞かないと貫いてきたが、王女様とのお茶会で身元の分からない存在は参加できない。
「んー。そうですね。サンディ家は、とても小さいですから。…お兄ちゃんにお願いした方が良いのでしょうか?」
「いや、それを聞かれても困るぞ。」
丸い目を向けてこられて、セイリンは膝から崩れ落ちた。騎士貴族のセイリン自身、魔術士一族の事はよく知らないというのに、聞かれても…。
「せめて、ダンスパーティーで顔を会わせられたら、お茶会をしなくても目的は達成できるんでしょうけど。」
リティアの口からぽんと出た提案に、セイリンは脱帽した。