332,黒少女はこの手に握りしめる
閉店の時間前には、テルが学校へ走って帰った。「CLOSE」の札を掛ける時間を心待ちにしながら、扉の傍で待機していると、扉が開き始めた為、シャーリーは肩を落とす。
「そこまで残念がる?」
「ほら、また今日も残業かって思うとさ…。この後、夕食でランチメニューの練習をしたくってさ…」
ハルドが入ってきたのだ。いつも、閉店時間にコイツがくる。料理の練習をする時間が取れていないというのに!リティアと一緒に作る事は楽しいが、自分だけでも作れるようになりたかったシャーリーからしたら、かなり料理練習の邪魔だと思う。
「そうか~。今日はいつも生徒達が世話になっているから、夕食になりそうな惣菜パンを買ってきたんだけど。」
「何これ!こんなパン、見た事ないぞ!?」
盛大にため息を吐いたシャーリーに紙袋を投げてきて、慌てて受け取ると、美味しそうなバターの香りに誘われて覗き込んで…心を躍らせた。
「だろうねー。俺の家のご近所さんのオリジナルのパンだよ。」
「ハルド殿、いらっしゃいませ。ラド殿とリンノ殿は来られますか?」
シャーリーは失礼な事を言ったというのに、ニコニコと笑顔を見せるハルドに、気がついたリファラルが厨房から顔を出す。
「いや、2人は仕事に追われていて、先程差し入れを渡したので来ないと思います。」
「おっさーん、これ!食べていい?」
待ちきれなくて、勝手にシャーリーが手に掴んだパンは、半分に開くように切り目が入っていて、タレがたっぷりとついた薄切りの豚肉が何枚も挟まれていた。
「勿論どうぞ。その為に買ってきたんだから。札は俺が掛けるよ。」
「気が利くー!ん!肉!」
彼は笑顔のままで、シャーリーの代わりに札を掛けてくれる。それに甘えて早々に口に運ぶと、存在感のある肉の下から千切りキャベツまで出てきて、口の中で色んな味が混ざり合って楽しい。サンドイッチとは異なる組み合わせだ。只管、豚肉が柔らかくて美味しい。具だけ先に口に入ってしまったが、タレを口の周りにつけながらも残さず食べ終わると、
「どういう感想なんだい、それ。」
勝手に椅子に腰をかけたハルドの苦笑いで、耳まで熱くなるシャーリー。美味しかったのだから、良いではないか!
「珈琲を淹れましたので、シャーリーさんも座られて下さい。」
微笑むリファラルに促されてハルドの前に座ると、テーブルにカップが3つ置かれてリファラルも座った。シャーリーが紙袋をリファラルに渡すと、彼も中から1つ取り出して、
「良いですね…アボカドチーズサンドですか。良い塩梅で。」
目尻にシワが寄りながら口に運ぶ。ハルドにも勧めたが、
「俺は先に食べてきたので、お二人分ですよ。」
「そうなのか!じゃあ、もう1つ食べて良い?」
ハルドからシャーリーの手元に返されて、自然とシャーリーの口角が上がった。
「召し上がれ。」
そう微笑むハルドに礼を言いながら、次のパンを取り出すとレンコンの輪切りが挟まれたパンだった。シャーリーの首が傾げられると、
「美味しいから食べてごらん。」
彼に促されて、恐る恐る口の中に入れてみる。パンの柔らかさと、レンコンの少し硬めの身の両方が同時に歯にぶつかり、不思議な食感になる。レンコン以外の味もじわじわと口の中で広がり…
「辛っ!?」
「鷹の爪も入っているからねー。そのピリッと感も美味だろ?」
悪戯を成功させた子どもの笑顔を浮かべるハルドの目の前で、必死に首を横に振るシャーリー。
「んー!んー!」
これは無理、食べられない。口から出すのは行儀が悪いし、満足に食べられなかった時期が長いから抵抗がある。
「ごめんごめん。シャーリーさんには、まだ早かったね。」
ハルドが笑いながらこの手からパンを取ると、パンの代わりに可愛い手帳を手に持たされた。シャーリーが食べられなかったパンは、当たり前のようにハルドが食べてしまう。間接キスって知っているか、と問い詰めたくなったが、それをすると後で恥ずかしくなるのは自分かもしれない。ここはグッと堪えて、数日前に見せられた『姉』の手帳をパラパラと捲る。
「つらいとは思う。けれども、それは君の手にあるべきだと思ってさ。」
大好きな姉の形見。彼女の苦しみが書かれたページを捲れば捲るほど、シャーリーは涙を溢さずにはいられなかった。
「そ、そうだよ。これは私が埋めてと…」
身体を土に戻せば、人間の魂は空へと還る。けれども、姉の身体はあの爆発で無くなってしまった。その代わりの物を彼女の為に、たった1人の家族である私が埋葬しなくては、とこの手で握りしめる手帳を、
「埋めなくて良いんだよ。最後のページまで捲ってごらん。」
ハルドは優しい声をかけてくれる。シャーリーは涙を膝に落としながら、言われたように捲り進める。テルが捕まったメッセージの後は、数ページの白紙が続き、裏表紙の裏に到達するとそこには、
「『可愛いシャーリーが、たくさんの幸せに囲まれますように』なんて…」
手帳を濡らさないようにしたくても、涙が留まることを知らない。口に落ちてきた雫は、しょっぱいし、飛び散るし、これ以上言葉が出せない。
「ハルド殿、これは?」
「憶測の域を出ないのだけどさ、この手帳に作用するにはかなり魔法的要因が絡んでいる筈で、大鎌切の部屋に踏み入れた時に、カノンちゃんの魔石が現れた。ずっとカノンちゃんは彼女の細やかな願いを叶えていたんじゃないかなって。カノンちゃんは、シャーヌさんを捕らえている大鎌切の事を知っていたんだ。」
この目ではリファラルの顔は見えないが、怪訝そうな声で聞いていて、ハルドも答えているが、シャーリーにはちんぷんかんぷんだ。
「そうだとしたら、不思議ですね…」
「身体が眠っていても、生きている魔石ならば意思を持つからね。」
もう2人の会話が聞こえてきても分からないし、どうでも良い。ただ今は、大好きな姉の笑顔で、この心を埋め尽くしたくなった。
冷えた空を見上げれば星が降る。長い白髪の髪を束ねた女性が鼻歌を歌いながら、夜道をたった1人で歩いていた。そんな彼女に忍び寄る影が増えていく。
「なあ、婆さん。俺達、腹減ったんだよ。金ねえ?」
小柄な女性の腕を捻り上げるタトゥーを入れた男の手。痛がる声すら上げない女性に、男達は眉をひそめた。
「はて?ここでは、自分で作物を育てるんだよ。しっかりとお仕事なさい。」
「何だこいつ、偉そうだな?とっちめるかね。」
男達は説教してくる女性を囲み始めたが、
「怖いとは思わないのよねー。不思議なものだわ。」
「クソ喰らえ!ババア!」
手を離されないままであっても痛がる素振りを見せない女性の顔に、手を捻り上げている男が殴りかかろうが、悲鳴を上げたのは男達だった。暗い地面から氷の棘が無数に飛び出し、
「そこまで。王国団一番隊の俺の前で、狼藉は許さない。」
彼らの背後には、棍棒を振り上げたリガの痛恨の一撃が迫っていた。声でやっと気がついても時既に遅し。棍棒を振るわれた男達は、バタバタと地面に倒れて、リガに手足を結ばれていく。自由になった女性が、パチパチと控えめな拍手をして、
「貴方、凄いのねー!私の夢の中に出てくる格好良い魔法士様みたいだわ!」
「そうなんですね。この近くに集落でもありますか?屋根の下で休みたくて。」
喜んでくれたので、リガは彼女の話を流しながら聞きたい事を聞くと、彼女はコクリと頷き、
「もう少し歩くけど、村あるよ。もし良ければ夕飯をご馳走するわ!」
「ありがとうございます。助かります。」
折角のご厚意に甘えない手はない。リガは丁重に頭を下げながら彼女についていく。少し後ろでは伸びきった男達がゴロゴロと氷の筒になって、リガに引っ張られていた。
「名前は何て仰るの?」
「リガです。貴女様は?」
笑顔を向けてくる女性に、簡単に答えるだけにする。これ程の田舎ならば、苗字を言ったところで分からないだろうが、念には念を入れるべきだ。お偉いさんが来たと勘違いされても困る。雑談がてら彼女に名を聞けば、
「私?夢の中の魔法士様に『カーナ』って呼ばれていたわ!」
カーナと名乗る女性は、夢見る少女のようだった。