318,少年は起き上がる
瞼を開いた時には、リンノが見下ろしていた。天井を見るからに、ここはプールだ。先程までラミアと闘っていた筈で、そこへリンノが踵落としを落として、それから…
「いっ!?」
頭がかち割れそうな激痛に悲鳴を上げる。その後が全く思い出せない。どうしてここにいるんだ?
「気がついたようで何よりです。全く、背後からの攻撃に気が付かずに頭を叩かれて、気を失うとは。騎士貴族としての」
「リンノさん?」
お小言を始めるリンノに、リティアの低めの声が届き、彼の身体がビクッと固くなる。
「そうだよ、リンノ。彼を責める必要なんて無い筈だ。今すべき事は?」
ハルドからも言われて、リンノは頭を掻き毟って立ち上がる。
「あー、はいはい。さあ、ラグリード殿。お立ちください。私は、ここで別れます。」
「はい…ありがとうございます。」
ディオンに手を差し出し、有り難くその手に捕まらせてもらうと、この重い身体が簡単に持ち上がった。しっかり起き上がってから、転がり落ちる金剛剣を拾い上げ、ハルドに寄り掛かるリティアに駆け寄ると、彼女の顔は青白い。リンノが出て行く間際に振り返ると、
「それでは、皆さん。ご武運をお祈り致します。リティア、貴女にはあまりに無謀な行為です。」
「1言多い。とっとと、行って。」
ハルドが睨んだ。リティアの表情は、曇っていく。
「とりあえず、2人は調合室でお茶でも飲んで休んでて。俺は、他の先生達に報告してから行くからさ。」
ハルドの言葉に、リティアはぎゅっと彼の袖を握ってしまい、彼は苦笑しながら鍵と共に彼女をディオンに引き渡してきた。これだけ甘えてこられても、彼は彼女の手を取らないのか。3人して通路に出ると、
「ハルさん、お願いです。その苦痛を溜め込まないで下さい。」
リティアは、ディオンが予想打にしなかった言葉を投げかけながら2階へ昇る。彼女は、甘えていたのではない。ハルドの心に寄り添っていたのだ。そうやって誰かを思いやれる彼女は、どこの誰より魅力的だ。あの言葉だけが、引っかかるが。
「お1つ、聞いても良いですか?」
ハルドの鍵で入室した調合室で、2人分の紅茶を淹れながらリティアに聞いてみる。可愛らしく首を傾げる彼女に、
「リンノ先生は、婚約者候補ではなく、婚約者ですか?」
「えっと。あれは、今朝読んでいた『カロッティーの恋人達』の主人公の台詞ですね。」
ポンと手の上を拳で叩いたリティアは、ディオンを凝視し始め、
「はい?」
ディオンの首が傾げられた。
「リンノさん自体は、候補のお一人でした。今はどうか知りません。カロッティーの街に住む主人公は、婚約者に裏切られまして、婚約者は他の庶民出の女性と結婚してしまうのです。それでも尚、権力を持つ主人公の婚約者だと言い張り、己の権力以上の物を振り上げる為、怒った主人公が言い放った台詞です。しかし、婚約者は誠意を見せるどころか、主人公を悪者と仕立て上げる噂を蔓延させられました。懸命に噂を払拭して抵抗しましたが、結局主人公は牢獄に閉じ込められてしまいます。絶望している主人公の元に親友が助けにきたのですが、腹ごしらえと渡された1枚のクッキーに毒が盛られてまして、主人公は吐血と身体の痺れに苛まれながら絶命するのです。その有様に、親友はポロポロと涙を流します。」
話し出した彼女は、止まらない。この熱弁を只管聞かされるディオンの視界には、静かに入ってきたハルドが微笑んでいる。それにすら気が付かない彼女は、ボロボロと泣き始め、
「『神様は、貴女を絶対に幸せにしてくれるから』って。」
最早、滝の涙。ディオンがハンカチで拭っても、ハンカチの乾いた部分がなくなり、ハルドのハンカチも差し出された。
「ハルさああん!ハルさんは、私を殺しませんよね!?」
「しないよ!?」
ハルドのハンカチをしわくちゃになるまで握るリティアの眼差しに、ハルドは慌てて首を横に振る。
「良かったです。この言葉に聞き覚えがあって、いつもクッキーをくれたハルさんの言葉で!あああぁん!」
「おおっと…、俺はその本を読んでないんだよね。」
落ち着いたかと思えば、また涙を流す彼女を見た2人は、顔を見合わせて苦笑する。ディオンの手よりもハルドを必要としている彼女に、彼は優しく頭を撫でてあげていた。
「さて、リティ。リンノが、君が作った噂の種は何とかしてたから、本題に入っていい?」
サーッと彼女の血の気が引き、丸い目でハルドを見上げる。
「2人は、親に婚約の話を勧められた時に、些細な事で喧嘩をして、リンノは仕事で忙しく、それ以降顔を合わせていなかったと。リティは、謝りにすら来ないリンノに虐げられたと考え、今回の再会でご立腹だったと。」
「私が悪いんですね?」
眉をハの字に下げるハルドに、リティアの眼力が強くなる。怒っているのに、声を荒らげずに静かな口調の彼女の怖さは、ディオンでも背筋に力が入る。セイリンの怒りを爆発物とすれば、彼女は只管静かに蝋を垂らす蝋燭だ。
「まあ、怒って目立ったのがリティだったらしいからね。今回の再会で、しっかり2人で話し合います、と締めくくっていたよ。」
「苛める人とは話しません。」
ハルドがヨシヨシと頭を撫でるが、ぷいっと顔を背けるリティア。こういう仕草は、子供っぽくて愛らしい。
「これだと、本題は難しいかな?」
「いえ、聞きます。こうしている間に、テルさんは怖い目に遭っておりますから。」
苦笑しか浮かべられないハルドへ、今度はしっかり顔を向けたリティアに、
「本当にリティは、良い子だね。」
ハルドは、やっと微笑んだ。
セイリンとソラも、ラドと共に調合室へ来て、ハルドによって全員分の茶が用意される。リティアの冷めた紅茶は、その彼によって湯気が出ている新しい紅茶に差し替えられ、代わりに彼が冷めた物を飲み干す。
「テル君の大体の位置が把握できたんだけど、問題がある。」
ハルドの真剣な表情に、ラド以外が息を呑む。
「彼が居るのは、ここの学校の地下にある『旧校舎』という魔獣の巣窟だ。そこに行く為の手段は確立されていなくて、俺達も魔獣退治しに行く時は、生き方と帰り方で困っている。そこに今回、ディオン君とリティが飛び込んでいったんだ。連れて帰ってこれて良かったよ。」
「それで、テルは?」
説明を丁寧にしているハルドに、ソラが結論を急ぐ。彼の心の内を考えると理解はできるが、今は我慢の時間だと思う。
「会えはしなかったけど、何処にいるかは分かったよ。ただね、旧校舎に降りても中庭の塔にどうやって行くか…。道が土に埋められてないんだよ
。」
「あっ。」
ハルドが肩を落とすと、リティアが何かを閃き、
「リティ、どうしたんだい?」
「その塔でしたら、4階に昇った時に橋が架かりましたよ。そうだしたよね、ディオンさん。」
ハルドの視線が彼女へ注がれ、彼女の眼差しはディオンへと向けられる。
「はい!読めない文字が一面に広がったと思えば、橋が出現して…その後はどうでしたっけ?」
「帰るときにはなかったから、消えたんだろうね。」
ディオンも記憶を手繰り寄せながら話したが、鮮明に思い出せず、ハルドから助け舟が出た。ソラの視線が下がるのを、ディオンは見逃さなかった。
「縁を探そう。」
「ゆかり、とは?」
ラドの言葉に、セイリンが嬉々として反応する。
「以前、カノンが旧校舎を歩いた時も橋が架かったと聞いている。どうも行った先には兄が居たらしい。」
「そうなんですね!カノンのお兄さんって…」
教師の皮を剥がしたラドに、笑顔を向けるセイリン。ディオンは、複雑な気分だ。
「レインさんです。では、今回はソラさんが適任でしょうか。」
「拐ったのが大鎌切であるならば、シャーリーもだね。シャーヌが助けを待っている。そこにマーク君も捕まっているから、3人を助けに行くよ。」
セイリンの質問にはリティアが答えると、セイリンの表情が驚愕に変わる。ハルドが更に候補者の名前を口にした。名前の挙がった彼女は、ここの生徒ではなかった。