31,少女はむくれる
コンコンとノックすると、ハルドのどうぞ!と明るい声が聞こえてくる。セイリンが、扉を開けてくれて壁で体を支えながら、教室に足を踏み入れる。ぶわっと広がる香りを視覚的に見せるように精霊が空間を埋め尽くすほどに浮遊していた。セイリンに手を振り、教室から離れてもらう。目の前に広がる数多の精霊の光に再び酔いそうになり、しゃがみ込む。パチンと誰かが指を鳴らせば、精霊はハルドの体内に吸収されて、視界が広がり、むくれた顔で見上げる。そこには、机に頬杖をついているハルドと、包帯姿のラドが座っていた。
「リティ、大丈夫かい?もう少し薬を持っていっても良いよ。」
ハルドは椅子から立ち上がり、左足を右足より前に出さないようにしながらリティアの前で屈んで、粉薬が詰まった小瓶を差し出す。ジーッとハルドを見ながら何も言わないリティア。
「リティ、申し訳ないけど今夜も酔うと思うからこれ持って帰ってほしいな。」
お願いと、片手を顔の前で立てるが、それでもリティアは動かない。リティアが口を開くまでの間に、ハルドの頬に冷や汗が伝い落ちた。
「ハルさんと、ラド先生はどうしてそんなに怪我をしているのですか?」
むすーとむくれていながらも、ハルドには言いたいことは言えるくらいの間柄だ。リティアは、本当に言いたかったことは一度引っ込めて、目の前に広がっている光景への疑問を投げかける。
「それは極秘になるから、いくらリティにでも言えないよ。…ラドがそこにいるの見えているんだね。」
「はい、そちらにいらっしゃいますよ。お2人の怪我を隠すために、この教室に結界を張っているんですか?この結界は、思考を阻害する作用がありますよね。」
先程の精霊の大群はそういう作用を持たせてましたねと、問い詰める。魔法士団の団員が怪我をする理由は戦って負傷した以外には考えられないことはリティアも理解している。それでも、ハルドに確認したかった。ハルドは、おかしそうにクスクスと笑いながら、いつもより強い口調で迫ってくるリティアの頬にプニッと小瓶を押し当てる。
「いやー、セイリン君に似てきたねぇ…。リティ、何でそこまで『見え』ているんだい?」
リティアの目が大きく見開き、人形のようなくりくりとした瞳が覗き込んでくる。
「…どういう意味ですか?」
「いや、ごめんね、何でもない。とりあえず、ラドは今、魔法で隠れているんだけど。」
ハルドは、愉快そうに白い歯を見せて笑い、小瓶を持っていない左手でラドを指差す。その指に釣られるように左を向けば、ラドの前を空気以外の層が漂っていた。リティアは、むくれるのをやめて、少し口を開いてキョトンと首を傾げる。
「…え?」
「ラド、こちら側に見えるように魔法解除して。」
ぐにゃ…ラドの周りの空間が歪み、視界に映る色が混ざり合い、ゆっくり元の配色に戻っていく。ラドが先程より鮮明に映った。リティアは、何も言えずにぱちくりと瞼を動かす。
「…」
「これは、よほどの魔法ではなくては欺けなさそうですね。精進します。」
リティアに向けて深く一礼するラドを見て、普通に座っていると思っていたリティアは、あわあわと口をパクパクさせる。
「隠れていたなんて知らなくてすみません…」
「いえいえ。これもリティア様の『見る』目が養われている証拠でございます。」
「ラド先生、わ、私に敬語は…!」
普段のラドとは異なる口調に、リティアは顎の下でピンと指先まで伸ばした手のひらを向けるように立てるが、それを見てもラドは敬語をやめなかった。
「改めまして、リルド隊長率いる一番隊隊員ラド・フレイと申します。座った形となりまして申し訳ございません。」
「ご丁寧にありがとうございます…。」
「皆には秘密だよ。」
笑い終えたハルドが唇の前で人差し指を立てて、ウインクしてくる。そして、リスの頬袋みたくリティアの頬が膨れる。
「わ、分かっています…!ハルさん達がこの学校でお仕事をしている邪魔にはなりたくないので。」
「リティは、先程から俺に対して怒っているのかな…?」
「大変な怪我をしているのに隠れてコソコソしているからです!昨夜は、空間を回す理由があって縦にも横にも回していたのでしょう…これに関してはお仕事のことなので聞かないことにします。今朝は、酔って立てなくなりましたが。」
「軽く足をやっただけだよー、心配してくれてありがとうね。」
いいこいいことリティアの頭を撫でる左手をリティアに掴まれる。
「ハルさん、結構子ども扱いしますよね…」
「諦めて、リティ。君は無垢な子どもだよ。」
子どもではありませんと、リスを通り越してふぐみたいに膨れていく。その姿を見て、ハルドは目尻を下げた。ハルドの掴まれた左腕が、じわじわと温かくなる。
「背中も痛いんですよね?傷を引っ張らないように軽く上体を反らせてますよね。」
「…よく見ているね。その観察眼を頭上にも働かせてごらん。」
「へ?」
リティアはわけが分からないまま、上を見上げると、ハルドとリティアの手の周りに何色もの精霊が集まっていた。ハルドは、その態勢のまま説明を始める。
「リティが怪我の心配をしてくれたから、リティの心に敏感な精霊達が手を貸してくれているんだよ。大体10秒くらい触れていると、精霊が傷に溶け込んで皮膚の一部に変わるんだ。」
「だから、ディオンさんの手を掴むのは10秒だったのですね。それ以上はやっても?」
「精霊が多く来てくれるなら、長くても大丈夫だよ。大体そのくらいでそばの精霊が近寄らなくなるってだけだから。」
「勉強になります。」
説明を聞きながら、リティアの視線は上から下へ移動していく。ハルドも気がついてはいたが、説明を続けようとした。
「これはね…」
「ということは、怪我している箇所を治してもらえるように精霊を誘導できれば良いのですね。」
ハルドの話を切ったリティアは、パッと手を離して、近場にあったハルドの足にそっと触れる。ズボンの上からも包帯が巻かれていることが分かる。ここに精霊が集まってほしい…と心の中で願うと、黄色、青、水色、緑、茶色、赤、紫、黒の精霊がバラバラに集まってきて、足に溶け込んでいく精霊が色を失い、白色になって消えていく。手を離すまで、精霊は何度でも集まっては溶け込んでいく。
「白い精霊なんて、子供の頃に見たくらい。珍しい。」
キラキラと目を光らせて傷に消えていく精霊を眺めるリティア。ハルドも、先程の説明しようとしたことをなかったことにして、今のリティアが気になる現象を説明をする。
「白は、全属性で基本的に存在していないから、見るには特定の条件を揃えなくてはいけないんだ。」
「そうなんですね…。あれ、もう寄ってきてくれなさそうです。」
精霊が近寄ってこなくなって、リティアは、むむむ…と首を左右に傾げる。
「だろうねー、足の痛みなくなったからこないよ。」
「では、背中も失礼します。」
スクっと立ち上がって、自分の目線より低い位置にあるハルドの背中にも触れて、口に出さずに願う。先ほどのように精霊が集まって身体に溶け込んでいく。その幻想的な光景に見惚れてしまった。子どもの頃に…森の中で…見た気がする。んー。と頭をひねっても何も出てこなかった。精霊が集まって来なくなったのを確認して、ポンポンと叩いてみる。
「痛いですか?」
ハルドは、軽やかに立ち上がって体をひねってみせる。何なら足もステップ踏んで痛くないことを証明する。
「リティ、ありがとう。もう全然痛くないよ。ラドもお願いできる?」
勿論と言わんばかりに良い笑顔で返事をして、失礼しますと、椅子に座っているラドの包帯が巻かれている腕、胴体、足を順々に触れていく。
「いえ!そんな私ごときに、リティア様のお手を煩わせるわけには!」
「怪我人は大人しく治療されるべきと、よくおばあちゃんが言ってました。」
「申し訳ございません…。」
傷の大きさによって精霊の集まる早さも数も異なるようだ。胴体にある大きな傷なら、目の前を覆い尽くすほど溢れる。あまりの眩しさに何度も目を閉じてしまったが、時間が経てば精霊の動きが収まった。リティアが触れても精霊は寄ってこなくなり、ラドも椅子から立ち上がって包帯を外すと、鍛えられた胸筋が包帯の下から見える。リティアは慌てて後ろを向き、手で顔を覆う。
「失礼しました、すぐに服を着ますので。」
後ろから、包帯を外す時に包帯同士が擦れる音と、袖を通す時のシュルっという音が聞こえてくる。リティアの中の気になる気持ちと、見てはいけないという気持ちが葛藤を起こす。
「お待たせ致しました。もう、服も着ましたので、向かれても大丈夫です。」
ラドに言われて振り返ると、そこには純白のマントに身を包んだ王国魔法士達が、リティアに対して深く頭を下げていた。




