306,黒少女は目を丸くする
厨房で、習った通りにフライパンに乗せた食パンの上にチーズとハムとトマトと、と具材を積んでいきながら、隣でビーフシチューを煮込むリファラルに声をかける。
「どういう事ですか?」
「何のお話でしょうか?」
首を傾げるリファラルは、手際良くバケットをスライスしていく。シャーリーは、もう1枚パンで押さえ込んだ具材達をフライ返しでプレスしながら、
「ほら、あのお嬢様は、先生と知り合いですよ。なのに何故、あの小説を執筆している事と繋がってないのですか?」
「彼女には、リグレスが私の孫である事を伝えておりません。彼が自ら秘密にしていますから、これはこれで良いのです。」
疑問を詳しく口にすると、リファラルから、大切に思っている筈の相手に悪い事をしているわけでもないのに『隠し事』をしているという事を聞いて、全くもって理解ができない。
「良いんですか?あのお嬢様も、小説のファンではありませんか…。知り合いが書いているって知ったら喜ばれると思いますよ。」
食いつきにいきたいわけではないが、それが自分だったら教えてもらった方が嬉しいと思う気持ちに駆られて、フライ返しをぎゅっと握りながら、意見を述べると、
「私もそう思います。けれども、リグレスは、今まで夢見ていた『冒険』を現実に引きずり落とされる絶望を与えたくない、と言ってますからね。」
ビーフシチューを盛り付けるリファラルから同意を得られたが、リグレスの意向を汲んでいるのである事を教えられる。
「…あのお嬢様は、空想に浸るという癖があるのですか?」
「いえ。ずっと家に閉じ込められていた彼女にとって、あの小説は1筋の光だったからこそ、リグレスは慎重になっているのでしょう。」
軽く考えて聞けば、重そうな話になってしまって、後悔するシャーリー。ポンポンと目の前のパンをフライ返しで叩きながら、
「本当に大切になさっているんですね。」
「勿論。彼女は可愛い妹のような存在であり、それ以上の存在になり得るお方ですからね。私としては2人を応援したいのですが、リグレスの周りも様々な思惑が渦巻いておりますので、容易な事ではないのですよ。」
呟くと、まさかの2人の恋愛事情まで聞かされる。応援したいという事は、2人は両片想いなのだろう。シャーリーの心がズキリと痛む。
「…偉い人って、簡単に恋愛できないんですね。」
「一族の繁栄にも関わりますからね。シャーリーさん、ひっくり返してみてください。」
無意識にフライ返しで強くパンを押していると、フライ返しを持っている右手首をトントンと、人差し指で叩かれ、ハッとしてひっくり返すと、黒い。
「こ、焦げてた…」
「それは、お出しできませんね。もう1度作りましょう。」
ビーフシチューのセットをトレーに乗せたリファラルが、時間がかかると伝えてきます、と言いながら厨房を出ていった。シャーリーは失敗作を皿に乗せてから、フライパンの中をティッシュで綺麗に拭くと、
「やらかした…」
深いため息をついた。気を取り直して、次のパンをフライパンに乗せようとしたところに、
「シャーリーさん!私、そちらを頂きたいです!」
「はいぃ!?」
眩しい笑顔のリティアが、厨房に乗り込んできて、シャーリーの声が裏返った。ペリペリと、焦げたパンを剥がすリティアに、シャーリーは目を丸くする。おいおい、お嬢様が何をしている!?行儀が悪いだろ!お高く止まる存在がそんな事してたら、従者達が引くだろ!口から出したくても我慢していると、
「おじいちゃんが、焚き火でよく焦がしてましたから、こういうのは食べ慣れています!」
「い、今、何と?」
焦げていない部分を得意げに眺めるリティアの後ろで、カシャンとカップが割れる音がした。落としたリファラルの唇が震えている。シャーリーが言葉を発する前に、
「え?リファラルさん、どうなさいました?」
「おお…我らが女神よ。な、何故なのですか…こんな、こんなにも」
リティアが振り向くと、床に崩れ落ちるリファラルの手が震えながら破片を拾おうとして、更に後ろから来たラドと呼ばれた男によって、その腕を持ち上げられた。リファラルの虚ろな瞳が彼を見上げると、
「リファラル殿。」
「申し訳ございません。少し外の空気を吸ってきます。」
ラドのその1言で、リファラルが慌てて立ち上がって、ふらふらとしながらも表の扉から出て行ってしまう。代わりにラドが破片を拾い始めると、オロオロとするリティア。彼女がそのように動いてしまうと、シャーリーは破片を拾いに行けない。
「わ、私、何か悪い事を…」
「いえ。リティア様の閉ざされていた心が、少しずつ産声を上げております。今は、それを受け止める事に時間を要する者が存在致します。」
見る見るうちに身体が縮こまっていく彼女を見上げるラドの言葉は、第三者のシャーリーには全く理解ができないと思ったら、
「えっと?」
リティアも分からなかったようだ。その小首を傾げる彼女に、ラドは首を横に振り、
「これは、こちらの問題なのです。貴女様が、気に病む事ではございません。」
それだけ言うと破片を集め終わってゴミ箱に捨てていた。
今日はずっと「CLOSE」の札を掛けたまま日が暮れた。たった2人しか居ないこの空間が、重苦しい。自分で淹れられるようになった珈琲の味が分からないシャーリーの瞳は、ずっと椅子に座り続けて壁にかけられた絵画を見つめているリファラルを捕らえていた。
「…。」
この沈黙は、リファラルの心が落ち着くまで続くだろう。リグレスはもうこの街に居ないし、ハルドが何処に居るのかは知らないから、相談もできない、とため息をつきたくなっていたところに、
「リファラルさん!」
聞き覚えのある声が、裏口から入ってきた。シャーリーが、ガタンと椅子を倒して厨房に入ろうとすると、それよりも先にハルドが飛び込んできた。あまりの勢いにシャーリーは目を丸くしたが、ハルドの瞳はシャーリーを映していなかった。反応の悪いリファラルが、ゆっくりと振り向き、
「…おや?」
「ジャックは何処ですか!!?近隣の森も探し回りましたが、見当たりません!」
やっと声を発したと思えば、ハルドの捲し立てる勢いに押され、
「あ、あ、ああ…」
言葉が続かない状態になっていた。シャーリーへハルドの鋭い眼差しを向けられて、ブルッと身震いをする。怖い怖い怖い!!
「シャーリーさん、少し席を外してくれるかな?」
「は、はい!!」
笑みすら浮かべない彼に恐怖を抱きながら、シャーリーは厨房の隠し扉から2階へと駆け上がった。
大好きなリグレスの部屋へと逃げ込み、床に座り込むと、自分の心臓が煩い。これは、本当に死の恐怖が押し寄せていた証拠だ。あの男は、危険だ。あの時シャーリーが感じた第一印象は、嘘を付いていなかった。リファラルは、大丈夫だろうか。震える手で机に縋りつきながら立ち上がると、勝手に石が光るランプがぼんやりと灯った。その灯りが映し出す書きかけの原稿の山で見つけた『親愛なる白き少女』という文字に釘付けになる。リグレスの想い人はあの少女だ。白銀の髪の2人が並べば、絵になる。彼に小説の中の王子と重ねて酔う自分が、惨めに思えてきた。所詮、庶民出身の自分は、華やかな世界には存在し得ない部外者だ。強く唇を噛むと、血が口の中で広がった。それでも…そうだとしても…
「この気持ちに嘘はない。」
ツゥーと流れる涙を乱暴に拭っていると、脳裏に映し出されるリグレスの顔が揺らぐ。そして、魂が抜けたような虚ろな瞳のリファラルに変わった。
「…私が受け取った愛情も優しさも、嘘じゃない。今やるべきは、店主への恩返しだ。」
凶器になり得る目の前のランプを掴み、階段を音を立てないように慎重に降りて行った。