266,少女は指差す
あの魔獣は、ラドの槍が貫通して呆気なく倒れた。そしてその死骸に群がる小物の魔獣達。弱き者が喰われる、これが自然の摂理。そうだと分かっていても、
「リティは、渡せないな…」
「一昨日から頭がおかしくなったか?あのザリガニは卵を狙ったんだろ。リティア様は何ら関係がない。」
日が白ける頃には、他人の目のつかない所で大地に降り立ち、クピア町に向けて歩き続ける2人。大きな卵を抱えたラドに独り言を拾われて、ハルドは苦笑しかできない。
「孵化前をかけただけさ。」
「は?」
軽く説明したが、ラドが汲み取る事はない。馬に踏み均された道が見えてきて、賑やかな町を行き交う馬車や荷車が増えてくる。
「気にしないで良いよ。」
ラドにそれだけ言うと、大きな荷車を懸命に引っ張る老婆に声をかけて、代わりにクピアまでハルドが請け負った。その中で、興味深い話を聞かせてもらう。
「では、魔術士と見習いの子ども達が大型クラーケンを倒したのですか?」
「そうなのよ!突然出てきた建物にくっついていたクラーケンの攻撃を白い花の魔術で食い止める少女だったり、クラーケンの胴体を金色の剣士が斬って、大きな爪を使う女性がトドメを刺してねぇ!」
ハルドの隣で杖を付きながら興奮して話す老婆は、今にも杖をぶん投げそうな勢いだ。少し離れた所からラドもこちらの話に耳を傾けていた。
「そうそう!昔の魔法使いに身体を貸したっていう女の子なんて、怪我した魔術士を手を当てて治療していたの!あれは神の偉業だったわー!」
ドクン…ハルドの心臓が警鐘を鳴らし、
《これはまさか、聖女…いや、リティアの力が引き出されたか。》
《飛龍、ここで名を上げる事が彼女の為になるとは思えない。どうする?》
密かに内に棲まう飛龍と相談を始める。そこに卵を抱えたままのラドがふらりと近づいてきて、
「それって、魔法使いの力ですね。少女は魔法使いに魔法を使わせる為の器でしかない。褒め称えるべきは、その昔の魔法使いなのです。」
「あ、あら…そうなのねぇ?」
言葉の節々から感じ取れる圧力に、老婆もたじたじとなった。ハルドは安堵どころか、冷や汗をかく事となる。町に着くまでの間、老婆は只管魔法使いについて質問を、嵐の如く投げかけてくるのだった。
ケルベロスの一鳴きに叩き起こされたリティアは着替えてから、既に起きていたリーフィと一緒に、リビングのソファでクッキーと珈琲を楽しむ。
「では、そんな早朝から?」
「うん、ディオンさんがどうしてもって言うから。」
リティアが首を傾げると、身体の汗をタオルで拭き取るリーフィが苦笑していた。ディオンはシャワーを浴びてからリビングに顔を出す。
「リーフィさん、お待たせしました。」
「はーい。じゃあ、ちょっと汗を流してくるね。」
リーフィが手を振りながら、ディオンと入れ替わってシャワーを浴びに行った。ディオンがソファに腰掛けて、自分の珈琲に口をつけると、
「リティアさん、折角この時間に目覚められたのです。俺と散歩しませんか?」
「えっと…ケルベロスさんに起こされたので、多分この後、何かあるんだと思うのですよ。」
ある意味デートの誘いをしてくる笑顔のディオン。サッと目を逸らすリティア。彼の笑顔が逃してくれるわけがなく、逸した顔を身を乗り出して覗き込んでくる。
「だ、だめですぅ…」
声が小さくなっていくリティアは、恥ずかしくて顔を両手で覆った。
「それは残念。」
ディオンの声は萎んでいくが、絶対に今目を合わせてはいけない。彼のペースに飲まれる事になる。手を離せないでいると、ケルベロスが玄関の方で軽く鳴いた。シャワーが終わったリーフィが、慌てて扉に手をかけると、リビングにいるリティアでさえ風圧を感じ、ディオンをそっちのけにして玄関へ急いだ。リーフィの手が震えている。顔も青くなっていたが、ゆっくりと開けると、そこには。
ハルドが絶対零度ともいえる眼差しを向けて立っていた。
何とかリビングに教師2人を招くと、ディオンが従者としての力を発揮する。テーブルの上を片付けてすぐに新しい珈琲を人数分用意して、軽食について聞いたが、
「ディオン君、申し訳ないんだけど。部屋に戻っていてくれる?」
笑顔すら消えたハルドの圧力に、身震いする事になった。怒られる事を理解しているリティアは、ここから動けない為、ディオンに笑みを作りながら手を振ると、
「何かありましたら、すぐにお呼びください。」
失礼します、と丁寧に頭を下げてからリビングを出て階段を昇っていく。その音を聞き終わると同時に、赤と緑の結界が目の前に座る2人を中心に部屋全体に広がり、遅れて青黒い結界も広がった。誰もが沈黙する中、
《ガキ共が起きる前に、話は終わらせろ!》
とケルベロスからの一喝。ここでやっと、ハルドが口を開く。
「まあ、分かっていると思うけど、あの聖堂を動かした愚行と、ましてや己が身で倒せぬ程の魔獣を町に引き入れるとはふざけているとしか思えないんだけれども?リーフィ・サンニィール君?」
「ご、御尤です…」
ハルドの声は荒げさえしないが、ピリピリと皮膚に伝わる圧力で、可哀想なくらいにリーフィの背中が丸くなった。
「ハルさん、フィーさんを怒るのは間違ってます。怒られるべきは私です。」
「リティ、少し静かにしてくれる?今は彼と話しているんだ。」
堪らずリティアが立ち上がったが、ハルドに相手にしてもらえない。ハルドの視線すら合わせない態度に、リティアは一瞬だけ片頬を膨らませたがすぐに萎ませて、
「嫌、です。私が聖堂を起こしてしまったようですし、そのせいでリーズダン団長達が抑え込んでいた大型クラーケンが表に出てきたのですから。」
自らの意志で反抗した。これには教師2人の目が大きく見開き、
「リティア様、何故その名をご存知なのですか?」
「大方、リティの身体を乗っ取った魔法士が嘘を吹き込んだんだろうよ。」
話に興味を示すラドとは対照的に、冷めた目に戻るハルドをリティアは指差して注目させる。
「ハルさん、人の話は最後まで聞くものです。私は彼の記憶を『見た』のですから。そして私は事情を知って引き受けました。それが今回のクラーケン討伐です。」
「なっ…何で?俺達が来るのを待てなかったのかい?」
普段とは異なるリティアの態度に、瞳が揺れ動くハルドからは少しだけ棘が抜けたようにも見えた。リーフィは青い顔のままで、リティアを心配そうに見上げている。
「正直に言うのであれば、いつ来るか、来ないかもしれないハルさんを戦力には数えられませんから、待つという選択肢は存在しません。」
怖気づく事なく、きっぱりと言い切るリティア。
「リティ!奴を起こしさえしなければ、何も起きなかったんだよ!君が他人に乗っ取られる事はなかった!」
衝動的に立ち上がったハルドに肩を揺さぶられるが、
「それは違います。私が到着する前には起きていたクラーケンから放出される幻覚、亡霊は既に私達を害していたのです。それを消す為にも今回の討伐は意味がありました。リーズダン団長は、そのお力を貸してくださると約束して下さいましたから、踏み切ったのです。」
しっかりと彼の目を見据えた。うるっと感極まるハルドに頭を撫でられたが、
「…君がこんなにも言うようになって嬉しいよ。それに比べて、彼は何だい?リティの背中に隠れている臆病者だね。」
リーフィへのハルドの攻撃は終わっていなかったようで、リーフィは蛇に睨まれた蛙の如く固まってしまった。