251,少女は覚悟を決める
テルが大きなバッグを取りに行った後を少し遅れてついて行くセイリンは、今すぐに動ける姿になりたかった。どれだけテルが頑張って走っても、セイリンはそれを裕に追い抜かしてしまい、テルの視線が背中に刺さる形になった。バッグを取るとすぐに家から着てきたシンプルな臙脂のノースリーブワンピースを身につけて、砂だらけの足で靴も履く。それからバッグを持ち上げたセイリンは、辿り着いたテルに4人分の靴を手渡して、クラーケンとの戦いを観戦している町の人に舌打ちしたい衝動に駆られながらも岩場へと戻った。
「何か、全く気にされなかったみたいだよ。」
「それはそうだろう。目の前で物珍しい事が起きているんだ。平和ボケした人間にはあの魔獣の危険性なんて分かるわけがない。」
息を切らせながら帰ってきたテルの疑問に、町の人間達への苛立ちを抱えながら答えてやれば、
「あれは、タペストリーにあったクラーケン襲来だろうが、俺達もどうせ何もできない。」
ソラが岩場の隙間から覗いている。リティアは相変わらずの様子だが、彼女のブラウスとスカートを手渡せば、すぐに着替えた。その後に靴下と靴も渡すと、軽く足の裏を叩いて履くリティア。その行動1つ1つが雑把で、本当にリティアの容姿をした別人なのだと理解する。
「ソラー、それ俺のサンダル!」
「大して変わらないだろう。」
双子達も着替え終わり、何故かソラがテルのサンダルを手に取り、テルが取り返そうとサンダルへと手を伸ばすが、ソラの手で押し退けられていた。
「いやいやいや!ブーツとサンダルじゃ!」
「非常事態に言い争うな。」
セイリンにはあまりにも馬鹿げて見えた言い争いだが、
「そう、非常事態だからこそ、生き残る価値があるテルが走りやすい靴の方がいい。」
平然と言い放つソラの発言に、一瞬で頭が冷めた。口をポカンと開くテルと、何かを思案するように瞼を閉じるリティア。
「…戦わねば。」
最悪の事態を想像する友人達を守る為に。そして、幸福に包まれて生きるべき民を守る為に。そう自分に言い聞かせ、両頬を叩いて喝を入れる。まずは武器を手に入れねば。この目の前の岩を壊してみるか、それとももぬけの殻状態の市場で盗むか。
「戦う意志がある者は、これを手に取ると良い。」
リティアの手に七色の光が集まり、手の平から数種類の武器が出てくる。長剣、槍、弓、小剣、斧等、知っている武器もあるが、見た事もない折れ曲がった鉄の棒や、長い筒、紐に括り付けられた鎌等もあった。セイリンがすぐに見慣れた長剣を手に取ると、テルも手を伸ばして、
「リティちゃん…じゃなくて!えっと」
「リーズだ。何が欲しい?」
寸のところで止めて目が泳ぐと、リティアが静かに名を告げた。リティアの身体を使っている人の事は、『リーズ』と言えば良いらしい。これだけの魔法を他人の身体でも尚、発動できるという事はかなりの使い手なのだろう。
「沢山の小剣を!スローイングナイフみたく使います!」
「分かった。」
テルの要望に応えて、小剣が手から溢れる程出てきた。ソラは動く事なく、こちらの動きを見ているだけだ。
「生憎、その手の物は使えない。魔術のスティックがないのか?」
「…それは難しい。身体の中から魔石を取り出すという事は、心臓を差し出すようなものだ。この娘を殺したいわけではなかろう。」
ソラの要望に、リーズは首を横に振った。それはそうだ。どうして肉体の中にあるかまでは分からないが、魔石を取り出す事でリティアに死なれては困る。セイリンは戦えないであろうソラを待たずに、岩場から飛び出した。クラーケンを殺せなくて良い。少しでも、戦っているディオン達の時間稼ぎになれば、それで構わない。ある程度軽くなったバッグに小剣を詰めたテルが、岩に沿うようにクラーケンに近づく。ケルベロスが、動く触手の間をいとも簡単にすり抜けて3本を絡ませると、そこに大きな爪の武器を自在に操るリーフィが切り刻みに行く。彼の爪はカーブしていて、肉に食い込ませてから引き千切る要領で敵を苦しめているように見えた。傷を大きくされればされる程、敵の治癒が追いつかなくなる。それを狙っての武器だろうか。その傷を更に攻撃する形でディオンの一振り。タイミングがまちまちだが、雷の魔術で相手を襲う。これだけの攻撃を受けながらも前方へ侵攻してくるクラーケンは、三角のヒレと胴体を斜めに下げた。リーフィがケルベロスに跨り、その後ろにディオンを乗せると空へと飛び上がり、
「逃げて下さい!大きな攻撃が来ます!」
リーフィの少し高い声が響いたが、民衆は全く動かない。それすらも楽しそうに見ているのだ。クラーケン退治が日常茶飯事で、危機管理能力が麻痺したのか、とまで思えてくる。魔術士達はリーフィの言葉を理解して、3人が一斉に距離を取って防御魔術陣を描き始めると、クラーケンのヒレの先端が段々と黒くなった。墨が鋭利な刃の形で幾つも乱射され、魔術士達の作り上げた透明な盾で何とか凌ぐと、観衆から歓声が上がる。セイリンもその盾に守られ、テルはスティックがない状態で発動した土の盾で耐えていた。一旦、クラーケンの攻撃が終わると、岩場に隠れていた筈のソラが飛び出し、
「無理をしてはいけない!」
リーズの止めようとする手を払い除けて観衆の塊に突っ込んで行った。そんな彼を気にする観衆ではなかったが、
「次が来ます!」
まだ反撃に転じられていないリーフィの言葉で、魔術士が急いで魔術陣を描いたが、クラーケンの攻撃の発射の方が早かった。先程乱射された墨は、今度は魔術士達に向けられる。寸のところで発動できた2人は無傷だが、セイリンの近くにいた魔術士は間に合わずに、声を上げる暇もなくその身体を穴だらけにされる。この惨劇には観衆の悲鳴が上がり、動揺が広がって逃げる者達も出てきた。セイリンの目の前で倒れ込む魔術士、白い砂が魔術士の赤い血を吸い込む。その手から離れたスティック。セイリンは自らの武器を手放して、そのスティックに手を伸ばす為に彼に駆け寄った。何とか立ち上がろうとする彼に、
「私は、魔術士の卵です。貴方を治療したい。」
そう伝えて彼と目を合わせると、スティックを手に取り、彼へ覚えたての治癒の初級魔術をかける。そこにリティアの身体のリーズが素早く駆け寄り、
「彼は私に任せなさい。いくら他人の身体を使っていようが、私は騎士団長であり、魔法士だ。このくらいなら治癒魔法で命を繋ぐ事ができるだろう。それに戦いの動きは読める。君は、ソラ君が帰ってくるまで凌ぐんだ。」
「き、騎士団長…?」
その言葉に動揺するセイリンの傍で彼の治癒魔法は、深い傷が少しずつ治っていく。それでも魔術士はまだ動けない。その彼の強い意志を感じる眼差しが、セイリンに向けられていた。
「遥か昔のな。白き娘の記憶では、大輪の白百合を咲かせられるようではないか。」
リーズはリティアの記憶から自分を見ていて評価しているのだと理解すれば、セイリンの背筋が伸びる。
「は、はい!!防御ならお任せください!私は、セイリン・ルーシェ。民を守る盾になる騎士です!」
どの時代の団長であろうと、その評価は騎士を志す者として価値ある物だ。セイリンはクラーケンの攻撃を全て阻止すると覚悟を決めて、他の魔術士よりも前方へと駆け出した。まだ逃げていない観衆の歓声は雑音でしかないが、全く気にならない。
「私を殺せるものなら、殺してみろ!」
大声でクラーケンを煽れば、ディオンがケルベロスから飛び降りて駆け寄ろうとするが、
「ディオン・ラグリード!邪魔だてするな!」
セイリンはそれを許さず、魔術陣を描き始めた。