216,少年は耐える
あの後は母と一切口を利かずに自分達の子供部屋で朝を迎えたソラは、朝食を摂らずに街へと繰り出した。市場に人が溢れて、そこで父も必要な薬を値段交渉しながら買い物しているようだ。ふらっと近寄れば、市場で荷出しの仕事をしている同世代の男達が声をかけてきた。
「テルの片割れか?テルはどうした?」
「テルは、御貴族様に気に入られて邸宅に邪魔している。」
テルを取り巻いていた子どもの評価が1番正しいと思える。いつもテルに声をかけられなければ、誰とも遊ぶ事ができなかったソラは、彼らからしたら『付属物』でしかない。胸の真ん中に穴が開いたような感覚に囚われるが、ソラにとってはこれがしっくりくる。ソラには用事がない彼らとすぐに別れて父の隣に立つと、店の人が明るく、
「お、テル君かい?」
「いえ、ソラの方です。あいつは今回は帰省していないんです。」
当たり前のようにソラをテルと間違え、ソラも訂正を入れると、隣で父が小さく息を吐いた。
「そうか、残念だなー。」
店の人はそれに気がつくことなく、純粋に残念がる。テルがいないと、こうやって肩を落とされる事の連続になりそうだ。これはもう耐えるしかない。学校のいつものメンバーは、『ソラ』をテルの付属として扱わず、ソラにも意見を求める。リティアに関しては、知り合って間もない頃にソラの表情の変化に気がついて声をかけてきたくらいだ。あそこでは、1人の人間として認識されていた。それを知ってしまったら、この街は非常に居心地が悪い。
「ソラ、帰るぞ。」
父に声をかけられてから、やっと棒立ちになっていた自分に気がつく。診療所の開店の準備しに戻ると、母が外を箒で掃いていて、
「ソラ、お父さんの手伝いに行っていたのね。さあ、ご飯食べなさい。お腹減っているでしょう。」
「…分かった。」
そう促されて家に入ると、父に軽く肩を叩かれる。
「そんなに落ち込んでどうしたのだ?」
「いや、どうもしてない。」
父に何かを言う気はない。母ほど口が軽くない事もよく知っているから、テルへの軽蔑に関して聞き出すことは難しい。そうであるならば…
「ビナおばさんに、昨夜の夕飯のお礼に何かを持って行きたいのだけど、良さそうな物ある?」
と母に聞けば、喜んで蒼茸の軟膏をボトルに詰めてくる。
「ソラは勉強があるでしょう?お母さんがお礼しに行かなくて良いの?」
「勉強は、友人の別荘でやる予定だから大丈夫。行ってきます。」
テルには向けない柔らかい声を出す母に嫌気が差しが、無表情に徹して足早に家を出ると、
「ソラの友達、お金持ちなのね!」
わざわざ追いかけてきた。その声は弾んでいて何を期待しているのか、分かったものじゃない。
「結構昔からある一族の子らしい。母さんはレジの準備があるんだろ。」
ソラは顔に出さないよう気をつけながら一瞥をくれてやり、今度こそバンズリーとビナの家へと向かう。その間にも、街の人はテルの名前を出して挨拶してくる。いちいち訂正するのも面倒な程だ。
ソラが自らを奮い立たせて、バンズリーの家の扉を叩くと、それほど時間経たずにビナが扉を開いて、
「あら、ソラちゃん!おはよう!」
「おはようございます、ビナおばさん。昨日は本当に助かりました。大した物ではないのですが、お礼をしたくて。」
ビナはソラを認識していた。それだけでソラの心が救われる。テルほど口は上手くないが、伝えるべきことは伝えねばと口を開けば、
「もう、良いのにー。中へ上がりなさいな。丁度、パンを焼き終わるところだから持っていきなさい。」
ニコニコと笑顔を向けるビナからの誘いを診療所の開店時間も迫っている為、断ろうと思ったが、テルならば、
「ありがとうございます。」
絶対に断らない。笑顔で受け取るはずだ。真似はできないがそのくらい分かる。ソラは頭を下げてから、家の中に入らせてもらう。できる限り自然に聞き出したいが、そこまで器用ではない。キッチンまでついていって、ビナに声をかける。
「おばさん、聞きたいことがあるのですがよろしいですか?」
「ええ?何かしら?」
窯から良い色に焼けたバケットを取り出していたビナがにこやかに振り返り、ソラはしっかりと目を見据え、
「俺の両親って昔からテルに対して酷い言い方してましたか?」
「あら…。テルちゃんに何かあったの?」
両親に直接聞けないこの問題について聞くと、ビナの表情が曇った。
「いえ、テルは帰省したがらないくらいに、学校生活は本当に楽しそうに過ごしてますよ。そうではなくて、両親のテルへの当たりが酷いなと…」
「…テルちゃんは良い子よ。」
テルの事を心配させてしまったようで、慌てて首を横に振って否定をすると、少し憂いを残した穏やかな表情になるビナ。テーブルの上で粗熱を取られるパンは、キッチンに優しい香りを充満させている。
「知ってます、あいつは本当に優しい。俺の代わりに大人に殴られたりしても、絶対に怒らなかった。」
「ソラちゃんの代わり??」
目を丸くして首を傾げるビナの前でソラの拳に力が入り始める。
「そうです、俺のせいで大人に殴られていたんです。俺が態度の悪い患者の椅子を蹴り飛ばしなんかしたから…」
「そうだったのね…!二人共、大変だったでしょう!ソラちゃんも小さい頃から、口の悪い人達に囲まれながらお父さんを手伝っていたんだもの。本当によく頑張ったわね。」
声を震わせたビナに飛びつかれるように抱き締められた。突然の事で、頭の処理が追いつかないソラは倒れないように両足で踏ん張ると、意外と立っていられた。採取サークルでしっかりと身体を動かしているからだな、と1人で感心する。
「あ、ありがとうございます…」
「…そうね、テルちゃんは少し目立つ子だったからね。それが気に入らない御貴族様の子息に目をつけられたのよ。」
ソラの頭を軽く撫でながら、ポツリポツリと話し始め、
「ソラちゃんくらい大人しければ…って、貴方のお母さんはよく泣いていたわ。ガンドンさんはね、貴方達のお父さんのお兄さんなのよ。お母さんの初恋の人でね…」
思い出に耽けながら教えてくれるビナを衝動に身を任せて、自分から引き剥がす。
「…そ、それで。何年間も何もわからない小さな子供を虐げてきたのかっ…!」
「…落ち着いて。ガンドンさんは、何も悪くないテルちゃんを守ろうとしたのよ。」
内から湧き上がる怒りを抑えながらも唇を震わすソラを、ビナは宥めるようにテルの大好きだった伯父の事まで教えてくれるが、ソラの怒りの矛先は両親であり、伯父でも貴族でもないのだ。両親が虐げる原因が分かった今、テルを傷つけることも、人格を否定して罵ることも許せるものではない。
「…御貴族様って名前分かりますか?」
「…えっと、ダイロって聞いた気がするわ。でも、報復しては駄目よ。分かるでしょう?」
ソラがこの件に関する情報を貰うために声を潜めると、ビナは怒りに震えるソラを説得しようと真剣に目を合わせてきた。
「騎士貴族の友人に相談はしてみます。」
「ソラちゃん、早まらないで。」
自分の手を染めるつもりはないと伝えたつもりだが、ビナの顔は蒼白になっていく。
「いや、俺は…」
「ほら、今のうちに泣いておけ。そうしたらこの後は頑張って耐えろ。皆、耐えてるんだ。」
誤解を解こうとしたところで、ソラの頭にタコだらけの大きな手が驚くほど優しく温もりを伝えてきて、
「…っ!」
「そんなに大切に想ってくれて、テルちゃんも嬉しいはずよ。」
自然とソラの瞳からボロッと涙が溢れ、ビナも涙ぐみながら子どもをあやすように抱きしめて背中を軽く叩く。自分の親でもないというのに、今はこの温もりが愛おしく感じ、ひとしきり泣き終えるとパンの入った紙袋を渡された。2人に玄関まで送られ、バンズリーがワシャワシャとソラの髪をボサボサにしてから、
「送ってやろうか?」
「だ、大丈夫です…。ありがとうございました。」
ソラは泣いて腫れた瞼が見えなくなるほど、深々と頭を下げた。