21,教師は提案をする
深いため息の後、暫しの沈黙が走る。ハルドは、涙を溢しながら歯を食いしばる目の前のセイリンと、顔が青くなったままキョロキョロと目を動かし落ち着かないリティアの様子をうかがう。一度瞼を閉じ、数拍置いたところで、生徒達を順々に見渡しながら、
「教師として、これだけやる気のある生徒の気を挫くのは本望ではない。」
ここで2拍置く。
「このハルドの監視下で融通を効かせよう、セイリン君。」
「は、はい!」
バッと顔を上げる。セイリンの顔はぐちゃぐちゃだ。ディオンの差し出したハンカチで乱雑に水分だけ拭って、力強い眼差しを向けてくる。ハルドは、将来が楽しみだと思ってしまう。上がりそうになる口角を抑えながら、言葉を続けた。
「ここにいる生徒及びソラ君だけ許す。スティックの貸与、練習、実践は、素材採取の一環として扱う。」
「それって…」
セイリンの顔が明るくなると、比例するようにリティアの顔色も良くなる。
「その代わり。」
ここで数拍置けば、セイリンを始め、生徒達の唇がきつく引き結ばれる。手中に収める一手としても悪くないとも思えてしまう。まだ、若い…真っ直ぐで真面目で、それが今は愛おしくも思える。
「その代わり、今から出す課題に合格すること。期限は1ヶ月。全員がそれを出来たら、素材採取のサークルを発足させ、放課後を使った講義又は自習、週末に野外活動、活動時にスティックを使った魔術使用の許可が下りるように手続きしよう。」
「ありがとうございます!」
セイリンの顔に向日葵の大輪が咲く。ディオンと共に深々と頭を下げ、顔を戻せばハルドの目を見る。目は爛々としていて、玩具を与えられた猫のようだと、失礼ながらも思ってしまう。次の瞬間には、ビー玉が弾けるように斜め前に座っているリティアに飛びつき、強く抱きしめる。リティアは咄嗟に身を屈めたが間に合わなかったため、ギューッとぬいぐるみにされた。
「おっと…まるで突風みたいだー!」
「テル君、いうなればカメレオンの舌かもしれない。」
両手を上に広げ喜ぶテルと、アハハと声に出して笑うハルド。恥ずかしさのあまり、セイリンの耳が赤くなる。
「2人して失礼ではないですか!!家は壊さないし、ハエは食べない!」
「いや、セイリン様なら家は壊すかもしれませんよ。」
何事もなかったかのように、小籠に容器とハンカチを入れて蓋をするディオンは、とても良い笑顔で肯定する。
「なっ!?ディオンまで!!」
行き場のない感情に応えるように腕に力を込める。ぐぐぐっとリティアの肋骨が圧迫させていく。このままでは危ないと思ったリティアは、声を絞り出しながら訴えた。
「離して…ください…苦しい…」
「すまない、リティ!」
セイリンが勢いよく離れるものだから、リティアの身体まで前のめりになった。とりあえず呼吸が楽になる。リティアは、呼吸を整えながらハルドに質問をする。
「それで課題って…?」
「全員が20km走り切ること。体作り兼逃げるとき必要だからね。学校のプールを自分達で借りて、道具を使わない形でどんな泳ぎ方でも良いから100mは泳げるようになること、湖に落ちた時には溺れないように。じゃあ、頑張って。」
「はい!分かりました!」
ハルドの課題説明に、セイリンを始めとするディオン、テルは声を張り上げた。話は終わりと部屋から出ていくよう促される。リティアは、残りたいと言うので、そのまま座っているよう伝える。他の生徒達が飛びつきを閉めようとした時、
「くれぐれも課題中にスティックなしの魔術陣を発動させることのないように。」
ハルドは、生徒達に向かって注意事項を付け足す。最後に出たディオンは慌てて扉が閉まらないように押さえ、3人は勢いよく振り返る。ハルドは外にもれないように声を抑えながら、警告を続けた。
「いとも簡単に『魔石中毒者』になるぞ。」
皆が居なくなった調合室は、嘘みたいに静まり返った。緑色の精霊達が数多く浮遊している。ハルドに『吸収』されていく精霊もいる。ハルドが、ガラスポットをトントンと叩くと青色の精霊が集まって水で満たされる。これは魔法だ。リティアには到底出来ない芸当である。もう一度トントンと叩くと、今度は赤い精霊が水の中に沈み、ポコポコと泡が浮いてくる。
「リティは、珈琲と紅茶どっちがいい?」
「珈琲で。」
「えらいねー、リルはまだ飲めないのに。」
「お兄ちゃんはミルク入れれば飲めるはず…です?」
首を傾げる。以前一緒にお茶したときはミルク入れて飲んでいた気がする。
「あ、あははは!リティの前で虚勢を張ったんだね。ミルクだけでは飲めないから追加で砂糖は大さじ2杯は必須だよ。」
「そうなのですか…!」
無理させてしまったと思うと申し訳なくなる。目の前でドリップされる珈琲は香り高く、目を閉じてその香りを味わった。
「リティ、はいどうぞ。あとクッキーも。」
ハルドの人差し指から、緑色の精霊が出てきて、空中を漂っている同色の精霊達と戸棚の引き戸を器用に開けて、クッキー缶を机まで運んでくれる。ハルドが蓋を開けると、王都でも数時間並ばなくては手に入らない人気のお店のクッキーが色とりどりに詰めてある。わぁ!と顔がほころぶ。
「ハルさんの雰囲気が以前お会いしたときと大分変わってまして驚きました。」
ふーふーと息を吹きかけ、珈琲を飲める温度まで冷ます。ハルドもカップを揺らす。
「あー、やっぱり?下手に戻すと、この学校内で問題を起こすかもしれないから、これで慣れてくれる?」
「分かりました。けれど、そんなに大変な性格ではなかったと思うのですが。」
実家に来たときも、祖母の家に来たときも、身構える人は居なかったと記憶している。
「ほら、ここは『仕事』で来てるから。無口はここでは結構難有りだからね。ここに来てから口が疲れるようになったよ。」
「大変ですねー…無口というか頭に直接話しかけてきたというか。」
《それ以上は言わない》
耳より上で頭の中で響く声が、余韻を残すように広がる。その『声』に静かな怒りを感じた。
「す、すみません。」
「これは魔術士の皆様には理解できないから。まあ、それは置いておいて、近々、リルに報告書を送るのだけど、リティもリルに手紙を書くかい?一緒に送るよ。」
はい、便箋と、引き出しからペンと便箋を数枚出してくれる。クッキーを頬張りながら、目の前の便箋を眺める。
「お兄ちゃんに手紙…」
「リルは喜ぶよ、忙しい業務中に可愛い妹から手紙貰えたら。」
「え、そんな!」
ぶんぶんと顔が外れるくらいに横に振る。ぽっぽっと顔が温かくなる。クックッと口元を手の甲で隠しながら小刻みに笑うハルド。
「照れてるねー!ほら、お書きよ。入学して、出会った友達の話でも、寮のご飯の話でも、今読んでいる本の話でも。君の目に写ったものを教えてあげなよ。」
「は、はい。」
珈琲の香りに包まれながら書くことを考える。14歳になった頃、わざわざ実家に戻されて、侍女からも冷たい視線を浴びせられるようになったとき、いつも助けてくれた兄へ。入試合格から入学までの間、兄の仕事が忙しくて殆ど会えなかった。学校まで来ていたことを知って、どうしても会いたくて、父やあの人がいるって分かっていたはずなのに歩みを止められなかった。書き始めれば、想いは洪水のように溢れ出す。数回、涙で便箋を濡らせば、ハルドの魔法で乾く。書き終わる頃には、珈琲も常温に戻っていて、もう一度トントンと温めてくれた。
「リルはね、君がここに入学することが決まってから、幾度となく足を運んでさ…その度に、俺やラドに色々聞いてきて。昨日の剣も、リルが事前にラドに渡していたんだよ。リティを守る存在が現れた時にって。」
ハルドがリティのこめかみをトンと軽くつつくと、その映像が脳内に浮かび上がる。校内で、差し入れを抱えている兄。何人もの教師に囲まれて話し込んでいる兄。この調合室でハルドとラドと一緒にお茶している兄。音はないけれど、真剣な表情を浮かべていたり、楽しそうに笑っていたり。
「リルは、リティに会いたがっているよ。今度、事前にリルがくるって分かったら教えてあげるから、授業抜け出してでもおいで。」
今度こそ涙が溢れ出す。嗚咽が止まらない。ハルドは目を細めながら、落ち着くまでずっと背中をさすってくれていた。