208,黒少女は夢中になる
最近の日課である店内とその周りの掃き掃除が終わると、ランチの仕込みをしていたリファラルが軽めの朝食を用意してくれて、カウンター席で揃って食事をする。シャーリーがトーストにジャムを乗せながら、
「かなりゴミ箱がいっぱいになっていましたが、昨晩は大変でしたよね?何故、呼んでくださらないのですか?」
「昨晩、貸し切りしたあの方々は、普通のお客様ではないのです。シャーリーさんがいらっしゃると難しい話がございますので仕方のない事なのです。」
不満を口にすると、スープを口に運んでいたリファラルの眉が下がった。どんな人間が来ていたかは知らないが、その中にはリファラルの孫であるあの長身の優しい雰囲気の男性がいたわけで、もう少し話ができたら良かったのに…と欲が出てしまう。
「う…。せめて表に出なくて良いからお手伝いがしたかったのに。」
「大丈夫ですよ、ハルド殿も孫も手伝って下さいましたから。」
本心を言うわけにいかない後ろめたさから声が小さくなるシャーリーに、リファラルは目尻にシワを寄せて安心させようとしたようだが、
「あのおっさんが来てて、私にできない話って何ですか!?」
ハルドもいたと聞いて納得がいかなかった。アイツには言いたい事が山程ある。リファラルはとても言いにくそうに、
「大人の話ですからね。」
そう言って微笑んだ為、これにはシャーリーも黙る。駄目なものは駄目なのだ。そこを何とかと言うほど聞き分けの悪い事をして捨てられたくはない。諦めて黙々とトーストを齧っていると、裏口が開く音がして、
「お祖父様、おはようございます。」
「ええ、おはようございます。朝から貴方に会えたということは、本日は素晴らしい日になるでしょう。」
昨晩の男性が立襟のシャツにループタイをつけたグレーのベスト姿で現れて、
「お祖父様、それは大袈裟過ぎですよ。」
朗らかに話す2人はよく似ていて、歳の離れた親子に見える。リファラルと同じ白髪の彼は、右目下に泣きぼくろがあるのが特徴的だ。シャーリーは、無意識に彼の顔をじーっと見つめていると、
「もしや、昨夜本を読んでいた方ですか?」
「え、はい。勝手に入ってすみませんでした…。」
彼が視線を向けてきて、急に心臓が高鳴った。あの書きかけの小説や本棚のコレクションについて色々聞きたい気持ちはあるが、今は猫を被る事に徹する。
「そこは気にしておりません。本の世界は素晴らしいものですよ。いくらでも読まれてください。」
「ありがとうございます!!」
彼が目を細めると、シャーリーの頬が熱くなる。最早食事どころではない、シャーリーの目は彼の表情に釘付けだ。リファラルが隣で声をかけてきているようだが、耳に届かない。彼がクスッと笑みを溢し、
「お祖父様、彼女を少し借りてもよろしいですか?」
「まだ営業は始まりませんから可能ですけれども、今からどちらに?」
リファラルが大きく瞬きをすると、長身の彼は音を立てることなくシャーリーの右側、表の扉側へと歩み、
「折角ですから本屋に。」
滑らかな手つきでシャーリーのトーストを皿に落として空っぽになった右手を掬い上げて店を出ていく。シャーリーは振り払うことなく、彼の仕草1つ1つに夢中になっていく。
「これはこれは…嬢ちゃんが泣いてしまいそうですね。」
リファラルの呟きが聞こえてきたが、シャーリーは気に留めることはなかった。
彼はリグレスと言うようだ。まだ日が昇りきっていない時間に、まだひんやり涼しい風を身体に浴びながらリグレスを見上げながら隣を歩く。話題を振られれば、有頂天になりそうな心を抑えながら話し続けないように気をつける。
「では、冒険物を読むのは旅行戦記が初めてでしたか。」
「は、はい!実家で暮らしていた頃は、恋愛物が殆どでしたので…」
もう少し他のジャンルも読んでおけば、話の幅が広がっただろうと後悔してしまう。シャーリーの声が次第に小さくなると、んー。と軽く悩んだリグレスが、
「恋愛…特に悲恋物は、途中からこの子はもしかして…と勘繰って、それが思っていた通り、またはそれ以上の悲劇に見舞われると、作者はどういう感情を抱いて書いているかが、非常に気になります。」
フフッと笑った。その笑いがどういうことなのかが理解できなかったシャーリーは目を大きく見開き、
「…え?作者の感情ですか??」
首を傾げると、
「ええ、それを書くに当たって何を考えているかが気になりませんか?」
彼はシャーリーに質問を投げかけて、曲がり角にある開店前の掃除で古本にハタキをかけている中年の男性と挨拶を交わす。ハタキをかけ終えた本をペラペラとページを捲ると、そのままシャーリーに手渡して、
「この店で新古問わず、読みたい本を選んで下さい。支払いはこちらが持ちますので、遠慮しないで下さいね。」
もう一冊と、明らかに新品の小説を無造作に乗せてきて、シャーリーは慌てて落とさないようにバランスを取る。
「最低10冊は探されてください。」
唐突な指示にシャーリーの声が裏返り、
「どどど、どうして!?」
「祖父の淹れた珈琲を味わいながら本に没頭する時間は格別ですから、是非。」
目を細める彼の表情は、リファラルと瓜二つだった。すぐに見惚れてしまうシャーリーは、自らを叱咤して彼から本へと視線を移し、目を皿にして気になる本を無理やり探す。誰かに本を買ってもらえるなんて、なかなかない機会だ。あいつに雇われていた頃に時間を持て余せば、本を物色して買わずに出ることもあった。どんなタイトルだったか、記憶を頼りにまだ掃除が終わっていない店の中まで入って探し回り、目についた物から手を伸ばしていく。リグレスが、シャーリーよりも後から店内に足を踏み入れようとしたところ、
「ほくろの兄さん!」
とシャーリーが知らない灰青色の髪の中年に声をかけられていた。シャーリーの目がギロッと相手を睨むと、その視線に気がついたリグレスがこちらににこやかに手を振り、シャーリーに背中を見せるように立って中年の男を隠してしまう。2人は知り合いなのか、コソコソと小声で話しているよう。シャーリーが息を潜めて警戒をしていると、
「それは…喜ばしいことですね。」
フフッと笑う彼の声が聞こえたと思ったら、話が終わったらしく、穏やかな表情のリグレスがこちらへと近寄ってきて、
「知人ですから、そんなに怖がられないで大丈夫ですよ。」
「あ、すみません…」
シャーリーは呼吸音が大きくならないように気をつけていたが、バレていたようだ。落ち込むように謝ると、
「そちらの『カロッティーの踊り子』は、お勧めですよ。」
シャーリーが手に取ろうとしていた綺麗な表紙の本を彼が指差しする。これは、時間潰しにチラ見して気になっていた小説の1つだ。彼に背中を押されるように自然と手にすると、
「そのシリーズはかなりの数が出版されていますので…」
リグレスがキョロキョロと見渡して、本棚の至る所から6冊ほど引き抜いて、
「カロッティーのシリーズは『宝石商』、『洋品店』、『旅商人』、『祈り人』、『恋人達』、『時計屋』がありましたね。」
「へぇー。」
思わずシャーリーの目が点になる。自分の身長より高い棚に手を伸ばすことはほぼない為、こんなに乱雑に置かれた本屋でお目当ての本を探しても、長身の彼のようにすぐに見つけられないだろう。
「このシリーズで特におすすめは、今度王都で探してきましょう。ここにはありませんが『狩人』か『精霊娘』が個人的に良いかと。」
ポンポンと話し続ける彼によって話が勝手に進んでいく。わざわざ遠くの王都にまで本を探しに行くのか…シャーリーにも自由にできるお金があれば可能だろうが、勿論ありはしない。自分には夢のまた夢だなと気持ちが沈み始めると、
「では、そちらの本も預かりますね。」
リグレスが軽々と裕に10冊を超える本を片腕で抱えて会計に持っていき、それらを大きな紙袋に入れて帰ってきて、
「帰りましょうか。さあ、お手をどうぞ。」
本の中から出てきた王子様かのように、流れるように手を差し伸べてくる。この瞬間、シャーリーはおとぎ話のヒロインになった錯覚に囚われながら帰路に就くのであった。