184,少女は抱える
職員室には、カノンとケルベロスしか居なかった。ハルドに促されるように椅子に座れば、長い髪がだらんと手に垂れてきて気持ちが悪いし、髪が当たっている首筋がやけにヒリヒリとする。ため息を吐きたくなる中、カノンが可愛らしい小さな手に水で濡らした白いタオルを持ってきて、ハルドが机の引き出しから蒼茸の軟膏と包帯を取り出す。
「カノン、普段もここにいるのか?」
カノンからタオルを貰って汚れを拭き取りながら、カノンの頬にクッキーの食べかすを見つけて拭うと、くすぐったそうにして、
「うん!皆を見送ってから、お部屋に帰るよ!」
ニコッと笑顔を向けてきた。こんな彼女が、人形とは本当に思えない。更にタオルを持ってきたハルドが目の前で片膝を立てて座って、
「セイリン君、怪我を見せてごらん。」
「あ、ありがとうございます…」
真剣な目で見上げてきて、セイリンは恥ずかしくなりながらも腕を出す。転がった時のかすり傷を見せれば、ハルドは優しくタオルで砂を取り除いて綺麗にしてから、甘い香りのする蒼茸の軟膏を手に取って肌に乗せるように塗った。セイリンがズボンを捲り上げれば、膝にもかすり傷があって同じ要領でハルドが処置すると、
「セイリン君は、どうしてあそこにいたんだい?」
そう聞かれた。疑問に思うのも何ら不思議ではない。しっかり答えねば、と思い、
「トレーニングをしていたらラド先生が来て、パトロールしてるとの事だったので、ついていきまして」
「そうして魔獣と遭遇したから、空間の外に放り出したというのに、何故か帰ってきて足を引っ張ったという。」
答えている最中に低い声が上から重ねられて、セイリンの口がきつく結ばれる。声は扉からではなく、開いている窓から聞こえてきて、手に持っていたひん曲がったレイピアと割れた鞘を放り込んできたラドは、もう片手に持っている革のケースと共に軽々と窓の縁に飛び乗って職員室へと入ってきて窓を片っ端から閉めていく。
「ラド先生!どちらにいらっしゃったのですか…?」
立ち上がりたい衝動と、今から説教されそうで逃げ出したい衝動がせめぎ合い、声のトーンが不安定になるセイリンを、ただ静かに見上げるカノンとケルベロス。机に軟膏を戻したハルドがステップを踏むような軽さで立ち上がってレイピアを拾ってくると、それは高熱で歪んで鈍らと化していて、セイリンの血の気が引いた。
「魔獣同士を戦わせる為に、隠れていた。」
「どこにですか…?あれだけの炎で明るくなったというのに、全く見当たりませんでした。自分が囮になって発動時間を稼ごうと思ったというのに、姿がなくて喰われたかと心配しました。」
若干唇を震わせながら彼を見上げると、怪我もなくケロッとしていて納得がいかない。あの猛獣がどこに居たのかも、走っていた時には気配なんてなかった。確実にラドは何かを隠しているが、それを教えてはくれないだろう。ラドは、流しで手を洗ってからこちらへ向かってきて、
「お前に気取られるようではこちらも仕事が務まらん。ほら、首も塗っておけ。」
そう吐き捨てると、ハルドが置いた軟膏を人差し指で掬い、セイリンのヒリヒリと痛む首筋に乱暴な手付きで塗り込んだ。焼けそうな程に高い彼の体温をその指を通して感じると、ボタボタと大粒の涙が流れ始めて止まらなくなった。
「せーちゃん、大丈夫?」
「ラドが迷惑をかけてごめんね。」
カノンがセイリンの膝に乗ってリボン刺繍のハンカチで、ハルドが屈んで空色のハンカチで、2人で流れ落ちるセイリンの涙を拭った。ラドは立ったまま小さく息を吐き、セイリンの手が自然に前へと伸びてカノンを抱え、
「先生が生きていてよかった…」
口から心の声が溢れると、ガシガシと頭を掻いたラドに、
「他人の心配なんかしている暇があったら、足を引っ張らないよう努力しろ。」
冷たく言い放たれた。湧き上がる感情に身を任せてキッと睨むと、ラドの軟膏を乗せた指が頬へと伸ばされていて、セイリンも気が付かない小さな傷まで気遣ってくれている優しさに気がつく。更に涙が零れ落ちると、カノンのハンカチよりも先に親指で拭われる。
「さて、剣の替えなんてあるのか?俺は買わないぞ。」
ラドの一言で、ハルドが拾ってきたレイピアにもう一度目が行き、ラドから受けた体温も忘れるほどに顔が真っ青になり、
「あっ…。あああ!?どうしよう!これでは他の生徒は愚かリティを守れない!!ディオンから以前使っていたファルシオンを借りるか嫌しかしあれは私には重いし長過ぎるし今から戦闘法を替えるのは難しいだろうだがコンパクトナイフでは太刀打ちでき」
「黙れ。」
息継ぎをしない早口をラドの地を這うような声で制止をかけられる。ハルドはその光景を見てクックッと拳を口に当てて笑い、
「明日は森に採取は行かないで、リティの武器選びをする予定だから一緒に探しに行こうか。」
「ハルド先生、ありがとうございます!ご一緒させて下さい!」
目の前で窮地に陥ったセイリンに手を差し伸べてくれるハルドに、カノンを抱えたまま深々と頭を下げた。
カノンとケルベロスがセイリンを連れて帰ってから、職員室を戸締まりして調合室に移動した2人は、リファラルを待ちながらハルドが珈琲を淹れてラドは装備品をケースから取り出す。
「お前がもう少し早く来れば、あの無鉄砲がとびこんでこなかった。」
「無理だろー、こっちが校舎内の見回りしていたんだから。で、どうするんだい?」
湯気が立つ珈琲をハルドから受け取ったラドが、ブツブツと不満を口にすれば、ハルドは机に寄りかかりながら肩を竦めた。
「…別にどうもしない。変わる瞬間を見られたわけではないし、服はお前が持ってきたし。ただ。」
ラドは、致命的な目撃があったわけではないから、頭の中を弄ることはする必要がないと考えている。あれは1人で行う事は難しい為、自分の失態が他の人間にも伝わる事なる。それよりも…
「髪留めを燃やしたから、それくらいは買ってやらないとな。」
「ブフッ!」
目の前で燃えて灰と化した髪留めが気になっていると、ハルドが珈琲を揺らしながら吹き出した。至極、不愉快極まりない。
「何だ?」
「俺は手伝わないから、気に入ってもらえるものを選べよ。」
眉をひそめて睨みを効かせると、肩を震わせるハルドが腹が立つ程のキラキラと輝いた笑顔を向けてきた。
「何だって良いだろ。」
気怠く吐き捨てれば、頭上に空瓶がいくつも落とされて割らないように床に着く前に拾い上げる。
「オシャレを気にする年頃の娘さんに変な物を渡すなよ。」
瓶を落とした本人のハルドが大げさなため息を吐いて、
「ああ、ガアの事はリティとケルベロスのような関係って誤魔化したから。」
「そうか、助かる。」
その情報は本当に有り難い。下手にボロを出さないように注意しなければ。明日の予定を頭の中で組み立てていると、リファラルが入室してきた早々に頭を下げて、
「先程はご連絡ありがとうございます。まさか、アギーさんが再びマーキングされるとは思いもしませんでしたよ。」
「こちらこそ迅速に対応してくださり、ありがとうございました。現在は、寮に戻っております。」
ハルドも下げて報告し、ラドもすぐに立ち上がる。
「彼女は何もなかったですか?」
「とりあえずマーキングの症状は起こさずに戦おうとしたようです。テルに魔石と魔術陣を渡してくださったおかげで、彼女は守られました。」
ハルドからの報告で、それは良かったと安堵するリファラルは、
「では、今夜もよろしくお願いします。」
そう言うと、2人は珈琲を残して戦闘準備に入った。