178,少女は慰められる
調合室での勉強時間が終わるまでにハルドは現れることなく、ラドが代わりに鍵を締めにきた。人攫いの事もあるので大人しく寮に戻ろうとしたあたりから、セイリンがいつも以上に寄り添ってきて、夕飯に一緒についてくる。普段なら寮内は互いに自分の都合で動くのだが、今日はどうも違った。深く聞くことなく、互いにシャワーを浴びて部屋に戻ってきたら、それと代わるようにカノンとケルベロスが2人で仲良く部屋から出て行く。この短期間でこの学校内で有名人なった2人は、行く先々でお菓子を貰っているので、今日もこれからねだりに行くのだと思う。リティアは、何も気にせずに机に向かって魔術陣の基礎書を開く。セイリンもノートを出して座るかと思えば、
「リティ、大丈夫か?」
座るには座ったが、ノートも教科書も出さずにリティアの方を向いて心配そうに顔を覗き込んできたので、リティアは首を傾げる。
「え?」
「隠さないでいいんだぞ、ハルド先生に試されるような事をされて傷ついたというのに、妹扱いまでされて、それでも会いたいと呟く程に好いているのだろう…明日にでもハルド先生を私が代わりに殴ろう!」
力を込めて話すセイリンに、開いた口が塞がらない。
「…はい?」
「もっと自分に素直になるべきだ。今のリティはあまりに痛々しい。」
首を傾げたままのリティアの両肩をガシッと掴むセイリンは、真剣に目を合わせてきた。どうしてこういう話をされているのか全く理解できない。だってセイリンがガールズトークと称していたあの夜、ハルドの話に食いつきが良かったではないか。
「セイリンちゃんが、ハルさんの事を好きなんですよね…?」
再確認のつもりで、セイリンに聞く。するとセイリンの目が丸くなり、
「ん??いや、あのような性格の人間とは長く付き合えない。何を言っている、リティが好いているのだろう。」
「え、ハルさんは確かに格好良いですよ。お兄ちゃんのご友人ですし、苦しかった頃に手を差し伸べてもらった恩もありますが、別段特別な感情を抱いてませんよ。」
セイリンの手が離れて彼女も首を傾げる。リティアとしては、ハルドと一緒にいると楽しいと思うし、もっと沢山話をしたい、聞きたいと思うが、それが小説に出てくるような所謂恋愛感情とは認識していない。
「そんなことはない、リティは彼の事が好きだ。お前の瞳はハルド先生を見上げていることが多いんだよ。それって、相手を意識しているってことだ。妹扱いされた時に嫌な気持ちになったはずだ。」
力説してくるセイリンに、何をどう説明すれば良いのかが分からない。
「私はこの身長なので誰でも見上げますし、お兄ちゃんは嬉しいって言われて思ったのは、私のお兄ちゃんは1人しかいないって事くらいです。」
「リティは素直に認める気がないと言うことだな。うむむ…」
とりあえず言える事を言っては見たが、セイリンは納得しなかったようで、探るように瞳の中を覗いてくる。そんな中、
《リティ、張り込みをする前だけど玄関まで降りておいでー。》
ハルドの明るい声が脳内に届いたので、全くできなかった基礎書を閉じて椅子から立ち上がって扉に向かうと、
「リティ、悩みを抱えている者には魔が寄りつくと昔から言われている。私も行こう!」
今日のセイリンは本当に1人にしてくれないようで、レイピアをソードベルトに挿して玄関までついてきた。
ランプがついた玄関にはぴょんぴょんと跳ねるカノンが1番に目に入り、その近くで大きな箱を抱えた笑顔のハルドがこちらに手を振っている。セイリンもついてくる中でハルドへと駆け寄ると、リティアよりも先についてきた彼女に話しかける。
「セイリン君、ポーターに来てくれたのかい?気が利くね。」
「何を言ってるんですか?リティを泣かせる先生が目の前にいるんで顔面を殴っても良いですか?」
知り合いといえど教師であるハルドにセイリンが大股で迫り、闘志を燃やして拳を構えた姿に、リティアが間に立とうとするとハルドに手で制止される。
「あはは、こっちも御立腹なのかい。まあ、これを持って。」
「なっ!?」
全く動じない涼しい顔のハルドが、持っていた大きな箱をセイリンの構えた拳の上に乗せれば、動揺しながらもセイリンも慌てて落とさないようにと持ち直す。ハルドの方が1枚どころか何枚も上だなとリティアは安堵しつつ、その箱に目を向け、
「まさかと思いますが…」
「リティアちゃん、ケーーーキ!!!」
確認するよりも先にカノンが喜びを跳びはねて体現していた。
「ハルさんの手作りケーキですか。それで攫われた子は無事でしたか?」
やはり焼いたのかとため息を吐きそうになる。この時間から大きな箱に入ったケーキ…寮母さん達に声かけて分けることができるほどのサイズだろう。実家に戻されていた頃に、深夜に突然帰ってきた兄に起こされてシュークリームを口に詰められたこともあった気がする。こちらの都合を全く気にしないところがよく似ているかもしれない。
「ああ、お祝いだからね。」
こちらの気も知らずにハルドは満面の笑みを浮かべ、
「そっちの子は無事保護したよ。これでやっとあの男達を引きずり落とせる。リティ、もう少しの辛抱だからね。」
彼の声は次第に低くなり、その笑顔を構成する瞳は獣よりも鋭くなると口角が片方だけ上がって、瞬間的にリティアの身が硬くなった。
「ハルド先生!」
「どうしたんだい?」
蛇に睨まれた蛙のように動けなくなったリティアを救ったのは、セイリンの怒りだ。普段の笑顔に戻ったハルドが優しく対応すると、
「貴方はリティを何故傷つけるのですか!?」
今にもケーキの箱を潰しそうな勢いでミシミシと箱から音をさせるセイリンが、ハルドを睨みつける。1度大きく目を開いたハルドは、徐々に眉間にシワが寄りつつも説明を始める。
「セイリン君が何に対して怒っているのかは分からないけれど、彼女の成長を望む者としては温室に閉じ込めておくべきではないと考えている。1人でも生きていけるようにやれることをやりたいんだ。」
「今の貴方は言葉で取り繕っているようにしか見えません!貴方に好意を示しているリティアの心を傷つけて遊んでいるようにしか見えないのです!」
怒りに任せたセイリンの爆弾発言に、彼の表情がカチンと固まり、カノンが両手で自身の口を押さえて目を丸くする。勿論だがリティアの表情も固まった。暫しの沈黙が流れてから、
「…ん?」
「セイリンちゃん!何を言っているんですか!?」
ハルドが片手で頭を押さえて口元が引き締まり、サーッと血の気が引いたリティアが慌てて2人の間に入ってセイリンを怒る。
「ハルさん、誤解です!一緒にいると楽しいと思いますが、それとこれは異なります!」
ハルドの方を振り返って顔が熱くなるのを感じながらもブンブンと顔を横に振ると、彼の表情が柔らかくなって口元に手の甲を当ててクスッと笑い、
「ますます成長したようで何よりだよ。リティ、今まで抑えつけられていた分を取り戻すように成長することを楽しみにしているよ。」
自愛に満ちた表情を浮かべると、
「セイリン君、リティと俺は恋仲にはならないよ。昔からの可愛い妹分だ。彼女のお兄さんと一緒に成長を見守ってきた側だからね。」
そう断言した。セイリンの表情が険しくなっていき、リティアの心の何処かでズキッと痛みを覚えたが、それが何なのか…今は全く見当がつかなかった。
「良い機会だからね。もし君がどうしようもない壁にぶつかった時は、俺の一族を捨ててでも助けに来るからね。いつでも呼んで。」
ハルドがリティアに微笑むと、今度はリティアが頭を抱えることになった。
そんな大事になることをするつもりは毛頭ないんですが…。