107,教師は水から上がり少女は水を落とす
リティアが持っていかれて、急いで深海へと潜るが、泡のカーテンで視界を遮られて、そのカーテンは大きな渦へと発展し、ケルベロスと共にハルドを飲み込んでいった。無事だったリティアとの脳内会話をしつつ、水の抵抗を受けながらも、とりあえず何か掴めるところがないかと両手で探れば、犬掻きである程度安定して泳いでいるケルベロスが声をかけてくる。
《してやられたな。我らだけ、元の空間へと引き戻された。》
「そうだね、最初からリティを誘き寄せる為の簡単な罠だったってことだ。」
プハッと水面から顔を出せば、見知ったプールサイドが見えてきて、一番近い縁から上がって振り返れば、水は張っていない先程までのプールだが、ケルベロスもハルドも全身びしょ濡れである。
《ぼさっとしてないで、あそこに倒れている奴をどうにかしろ。》
「ラドって言ってくれー。これでも俺の弟分…っと。」
ブルルと身体を振って水を飛ばしたケルベロスが扉が開きっぱなしの更衣室に落ちているラドを前足で叩くので、後から追いかけたハルドが、軽くラドの目を閉じさせてから、飛龍牙と焔龍号を背負って動かない彼を壊れ物に触れるように抱きかかえて、
「…リティを頼んだぞ。」
そう呟くと、風で鍵を操って戸締まりをしつつ、太陽が空へと昇った時間に調合室へと戻る。重い荷物を抱えながら、調合室の取っ手に手を伸ばした瞬間、セイリンとテルの口論が漏れ出していて、どうやって入ったのか…呆れて物が言えない。
「朝から元気だね、おはよう。」
「あー!おはようございます!!よかったぁ!生きてる!」
ゆっくりと開けた扉の向こうから口論を中断してテルが胸へ飛び込んできて、ぐったりと目を瞑るラドにぶつかりそうになったところを物凄い形相のセイリンに首根っこを押さえられる。
「ラド先生はご無事なのですか!?その力の抜け方ってまさかっ!」
「大丈夫、少ししたら起きるさ。朝から申し訳ないんだけどさ、調合室から出てってくれる?2人きりにさせてほしいんだ。」
ハルドが爽やかに笑みを浮かべると、人の死に顔に憶えがあるであろうセイリンの血の気が引いていく。テルもことの重大さを気がついたのか、唇が青くなっていき、
「すみません、すぐ連れ出しますので。何かご入用なものがありましたら、図書室にいると思うので声をかけてください。」
2人を傍観していたソラが頭を下げて、小刻みに震えるテルの肩に手を回して調合室から出ていく。セイリンの下瞼には大粒の雫が溜まっていき、ケルベロスがペロンと舐め取ってやって、外へと連れ出した。静寂な調合室の机の上にラドを寝かせると、2人分の武器を床に投げ捨てたハルドは、ラドの胸のボタンを数個だけ外してその肌に口づけを落とす。ボワァと緑色の光が吸い込まれて、赤い光が浮かび上がってくることを確認したら、冷たいラドの手をしっかり握って、
「全く後先考えないところは誰に似たんだい?お前が帰ってくるまで、俺の心臓を分けてやるからな。」
静かに眠るラドの顔を眺めながら、少しだけ空いている机のスペースに頭を置いて目を瞑る。
「だから…リティを無事にこちらへと連れて帰ってきてくれ。」
一定のリズムを刻みながら、深い眠りへと落ちていった。
中庭のベンチでボロボロと止めどなく流れていく涙は、セイリンのスカートが吸い込んでいく。一緒についてきたケルベロスは噴水の周りをくるくると回っていて、ベンチの真ん中に座るソラは、泣きじゃくるテルに肩を貸してその背中を擦っている。
「ソラは強いな…そうならないといけないと思うのだが…」
「セイリンさん、それは違います。強いんじゃない、感情の切断を自分でしているんです。テルがさっき言っていたことと同じ。」
ソラは、ルナの姿が消えてからテルが怒鳴り散らしていた内容に触れてきて、セイリンは乱暴に涙を袖で拭って黙り込む。
「…」
テルの言い分は、魔獣侵略戦争に関わりそうなことはルナが言うのも聞くのも嫌がっているとのことだ。だから、ああいう態度を取ったとテルはそう感じたというのだ。
「テルが言ったようにルナさんは、苦しい記憶に蓋をしていると思います。だからそれを思い出させようとする鋭い口調のセイリンさんに向ける感情は、『無関心』だと感じたんです。俺もそうやって今を紛らわせているってだけ。」
セイリンにとって、わざわざここまで説明されなければ理解のできない感情であるようだ。テルは、ルナの表情をよく観察していて、制服やマフィンのことは楽しそうにしていたと言っていた。
「…そうか。私には難しそうだな。ラド先生はあの魔獣にやられたのか…?」
セイリンは、すぅーと息を深く吸ったら力強く自らの膝を拳で打ち、ソラとテルに大きな目を向けられながら立ち上がる。
「まず、リティを探す。弔い合戦とさせて頂こうか。」
「いやいや!それは無理だよ!あんな強いの!!セイリンさんまで死んじゃうのやだ!」
意気込んだセイリンに、しゃくりあげているテルが跳ね飛ぶように抱きついてきて身動きが取れなくなる。
「お、おい!公衆の前で異性に抱きつくな!」
「セイリンさん、突っ込むところはそこですか…?」
ため息混じりにソラが、セイリンに縋りつくテルの腕を引き剥がすと、涙で滲んだテルの瞳はじっとセイリンへと向けられていて、その姿があの頃の自分と重なり合った。村で1人残されて民の前で泣きじゃくることを恥として躾けられ、父を含む騎士団が去っていくその背中が見えなくなるまで、溢れ出す涙を堪えることができずに声を殺して泣いていたあの頃。少年も村人も、何も守れなかったあの頃。自然と拳に力が入って、
「わ、私だって!死しに行くわけではない!」
そのまま腕を振り上げて自らの肢体を勢いに任せて殴る。死にたいわけではない。これ以上の被害者を出したくないのだ、そんなことは自分が耐えられない。
『大事な者はしっかりと手を繋いでないと。それでも振り払って死んでいくのだから。』
ふと、ルナの言葉が蘇り、
「お嬢様!如何なさいましたか!?」
生徒用の玄関から一定のリズムで胸を上下させている桃色の髪の少年を抱えながら、焦燥しきった表情で走ってくるディオンが見えた。その姿に驚いてソラとテルが、開け放った扉へと駆けていき、ディオンが抱えている少年へと手を伸ばしている姿を涙でぼやけ始めた視界に映しながら、
「た、大切な者を守ることのできる自分になりたい…」
噴水を背に向けて、地面に崩れ落ちた。ボタボタと落ちる涙は生ぬるくて、まるで血を流しているようで、握りすぎて赤くなった手のひらに落とせば錯覚できるほどだ。
「せ、セイリンちゃん、大丈夫ですか?具合でも悪いのですか?」
セイリンの柔らかい心に傷を作ったはずの友人の声を後ろからかけられる。誰もいないはずの背後からだ。怯える心を抑えながら勇気を振り絞って振り返れば、尻尾を振ったケルベロスが上から乗っかってきて地面にひっくり返る。その中途半端に遮られた視界の隅に、眉を下げてそーっと手を伸ばしてくるリティアが映った。
「リティ…?」
こちらからも手を伸ばせば、こんな汚れた手を何の躊躇もせず握ってくれた彼女の手は、涙を助長するほどに温かかった。
「リティアさん、よくぞご無事で!」
抱えていた少年をソラ達に預けたのか、こちらへと青い顔をさせて駆けつけてきて、セイリンの上からケルベロスを転がすように降ろす。
「ディオンさんもお疲れ様でした。」
「リティアさんも。こんなことに巻き込まれていたとは思いませんでしたよ。それでガアさんはどちらに?」
セイリンの真上で2人は互いに労い、キョロキョロとリティアの近くを見渡して、ディオンは何かを探していた。