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木塚井杉雄は、事件発生当初、自分の運命を恨んだ。なぜ、自分が中国の夜行バスでバスジャック犯に遭遇し、しかも人質に捉えられるのだ、と。自分以外の乗客は全員逃げた。自分だけが包丁を突き付けられ、人質になっている。しかも、老婆に変装した、若い男に。
老婆の変装も、また声も、かなり完成度が高かった。ガソリン給油のために立ち寄ったサービスエリアで、寝ているにも関わらず老婆が運転手に降ろせと騒いだから、注意して口論になった。その時は、まさかこの老婆が男だなんて、気付かなかった。背が大きくないからできる芸当ではあるが、声を聞いても、まったく怪しいとは思わなかった。
杉雄は日本企業の駐在員として、上海支社に出向しているサラリーマンだ。電子部品の営業をしており、上海に駐在してもう七年になる。大学卒業と同時に入社したのがこの会社で、三年間の国内勤務の後、上海支社に出向となった。以来、七年。三十二歳で独身。まだ死にたくない。
今回は青島市にある大手電機メーカーを訪問していたところだった。本来、今夜の飛行機で上海に戻る予定が、機体トラブルで急遽、欠航となってしまった。問題を起こした中国東方航空は、別の機体を準備できず、やむなく他社への振り替えを決めたが、それも席に限りがあり、高齢者や子供、女性などが優先され、さらにファーストクラスの乗客が優先されていき、最終的には十数名のエコノミークラスの乗客がその日のうちに上海に戻れなくなった。東方航空はその十数名に対して青島市内でのホテルを無料で提供するとしたが、杉雄はどうしても今夜中に上海に戻る必要があった。明日の午前に重要な会議があるからだ。杉雄は中国語通訳も兼ねているため、杉雄がいなければ会議にならない。急遽、日雇いの通訳を雇おうとか、杉雄だけ電話で参加などの案が出る中、気が進まなくも杉雄が提案したのは、夜行バスだった。飛行機から夜行バスでは運行時間も疲労も比べ物にならないほど条件が落ちるが仕方がない。しかも、幸運なことにというべきか、不幸なことにというべきか、調べてみると、その日の夜行バスにまだ間に合うことがわかった。インターネットでバスのチケットを購入し、急ぎ空港からバスターミナルへ。果たして、杉雄はこうして、快速鹿脚一四三号、青島中央バスターミナル発、上海南バスターミナル行きの夜行バスに乗り込んだのだった。
人質犯は、警察の交渉人が一旦バスから降りると、どこから持ってきたのか、ロープで杉雄の手を縛り、さらにその手を座席に括り付けた。これで、杉雄は座席につながれ、身動きが取れなくなった。だが、さっきまでずっと首を絞められていたし、立ったままだったし、何より包丁を突きつけられていたから、座れただけでもましだった。緊張から喉が渇いていたので、犯人に水を求めると、意外にも犯人は優しく、丁寧にペットボトルの水を飲ませてくれた。相当喉が渇いていたのであろう、杉雄は五百ミリリットルのペットボトルを半分以上、一気に飲んだ。
警察は戻ってこなかった。このバスには犯人と杉雄だけが残された。だが、犯人からは殺気を感じなかった。公安が一旦、全員バスから降りたことで、犯人は少し落ち着いたようだ。一番恐かったのは、包丁を突き付けている犯人が興奮したときだ。「黙れ」だの「早くしろ」だのと騒ぎ立てて、その興奮から自分を刺すのではないかと常に恐怖にさらされていた。それが、今は落ち着いてい自分の隣に座っている。だが、油断は禁物だ。いつ何時、刺されるかわからない。身動きが取れない自分を刺すことなど、いとも簡単だろう。警察はいつ戻ってくるのか。いつ助けてくれるのか。果てしなく時間が続くように感じられた。犯人はうつむいたままだ。杉雄は、思い切って声をかけてみることにした。少し会話でもして仲良くなれば、自分を包丁で殺すようなことはしないかもしれない。抵抗したくても抵抗できないのだから、せめて心の距離を縮めておこうと思った。
「私の名前は木塚井杉雄です」
木塚井は犯人に語りかけた。
「あぁ?」
うつむいていた犯人が顔をあげた。
「私は木塚井杉雄といいます」と再び名乗り、どんな漢字を書くのかを口頭で説明した。
「何人だ?」
「日本人です」
「日本人?」というと、「なぜそんなに中国語がうまいんだ?」と聞いてきた。
「中国に留学経験があるんです。それに、仕事で上海に来て、もう七年になります」
「何の仕事だ?」
「電子部品を売っています」
「なぜこのバスに乗っている?」
「飛行機が欠航になって…」と事の顛末を語った。
杉雄は続けて「こんなことやめた方がいいですよ」と言おうとして、口をつぐんだ。中国国内で、中国人が、外国人に対して危害を加えることは非常に罪が重い。国際問題にまで発展するからだ。ましてや、これは人質事件である。この犯人が捕まれば、相当重い刑罰が科せられるだろう。杉雄がそれを言うのを止めたのは、そんな話を聞かせて、犯人が自暴自棄になり、自分が殺されかねないからだ。こんな状況にも関わらず、とても冷静に物事を思考できる自分に杉雄は驚いていた。しかし、この事件によって、この後、杉雄の身に起こる出来事を、この時バスの上で両手を縛られている杉雄は、知る由もなかった。