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袖振り合うも多生の縁  作者: 松本忠之
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バスの後方に陣取っていた易大海は、バス車内での異変を感じ取っていた。だが、何が起きたかを問わない。信頼する部下たちが突入したのだ。事態に異変があれば、すぐに報告があるだろう。中央ドアから次々と乗客が逃げ出す。すると、部下の一人がこちらへ向かって走ってきた。

「隊長!報告します。康海隆が包丁で乗客の一人を人質に取りました!」

やはり…。悪い方の予感が的中したか。容疑者は凶器を持っている可能性あり。その凶器で人質を取ってバスに閉じこもる可能性あり。それが現実のものとなってしまった。

「犯人を刺激するな。人質と犯人以外を無傷で車外に避難させろ。運転手もだ」

「是!(はい!)」と答えた部下がバスへ戻る。

易大海はすぐに無線で白志強に事態を報告した。軽く舌打ちをした白志強が「全員無傷で解決せよ」とだけ指示した。

「是!(はい!)」と今度は易大海が答えた。

続々と乗客が車外に吐き出される。そして、前のドアからは運転手らしき人物が降りてきた。易大海はその男性に近寄ると、声をかけた。

「鮑文民さんですか?」

そうです、と男が答えた。

「本当に良く頑張ってくれました。あとはお任せください。さぁ、早く休息を」と部下に男を預けた。

「ひ、人質が…」

鮑文民が言いかけたが、易大海はわかっている、と手で合図して、前方のドアからバスに乗り込んだ。

車内の光景が異様だったのは、老婆が成人男性を人質に取っているからだった。

「康海隆だな?」

易大海が落ち着いた声で話しかける。

それを見た部下たちは、人質解放の交渉を易大海自身がすることを知り、ライフルを向け続けながら、犯人確保の瞬間を待つ体制に入った。

「人質を離せ」

「闭嘴!(黙れ!)」と老婆に変装した康海隆が叫んだ。

易大海は、両手を挙げて、射撃の意思がないことを康海隆に示しながら、一歩一歩、ゆっくり康海隆に近づいて行った。

「不能来!(来るな!)」と康海隆が叫ぶ。だが、易大海は康海隆の動揺ぶりを見極めようとしていた。今ここで判断すべきは、短期戦か長期戦かだ。できれば、短期戦でこのまま解決まで持ち込みたい。しかし、犯人の状態によっては、時間をかけ、ゆっくりと解決しなければ、人質の生命に危険が及ぶ可能性がある。

「わかった。わかったから、落ち着け。落ち着いて話そう」

易大海は優しく康海隆に語りかけた。そして、人質の男性をじっと見つめた。視線に、動いてはならない、という意思を込めた。果たして、この視線に込めた意味を、堀の深い、あまり中国人には見えないこの人質男性は受け取ってくれるだろうか。

人質事件の際、まず確保しなければならないのは、当然ながら人質の生命だ。犯人を刺激すると、極度の興奮から人質に危害を加える恐れがある。そのため、まずは犯人を落ち着かせることが第一だ。次に、人質に抵抗させないことである。世の中の人質事件では、勇敢な人質が犯人の隙をついて抵抗したり、逃げ出したりした事例もある。しかし、これには二つの危険が存在する。ひとつは、犯人が激昂し、抵抗したり逃げようとする人質に危害を加えること。もうひとつは、まんまと人質を逃がしてしまった犯人が失望から自殺を図るケースである。つまり、人質の抵抗は本人と犯人、双方への危険がある。まして、今回の人質は成人男性だ。抵抗する可能性は、老人や子供、女性に較べて高い。それだけに、易大海はとにかく人質に抵抗してはならない、と伝えたかった。

しばらく睨みあいが続いた。康海隆は人質に包丁を向けたまま、動かない。易大海は説得を続けた。

「康海隆。落ち着くんだ。周りを見てみろ。君はこれだけの武装警官に囲まれているんだ。抵抗しても無駄だ。さぁ、凶器を床に置いて、人質を解放するんだ」

康海隆は警戒を解かずに、ちらりと周囲を見回した。すると、「こいつらをバスの外に出せ」と小さい声で要求した。

「何だって?」

易大海は実際には聞き取れていたが、再確認のために敢えて聞き返した。

康海隆は「銃を持ってるやつらを、全員バスの外に出せ!」と今度は怒鳴った。

「それはできない。君が凶器を突き付けているんだからな」

「殺す」

「なんだって?」

「こいつらをバスから降ろさないなら、こいつを殺す!」

「落ち着け」

「早くしろ!」

康海隆は人質の首に回した腕を揺らした。苦しそうな表情をする人質。

易大海は康海隆が意外に冷静で、バスの中に立てこもる気であると判断した。もちろん、立てこもったところで、勝算などないであろう。しかし、すぐに白旗を上げる気もなさそうだ。つまり、少しでも抵抗する時間を引き延ばしたいのだろう。これは、長期戦になるかもしれない。そう覚悟した。

「あと十秒待つ。十秒経っても、こいつらがバスから降りないなら、こいつを殺す!」

易大海は自分だけが車内に残り、部下は降ろすことを決めた。

「十、九、八…」

こいつ、カウントダウンをするだけの冷静さを持っていたか。易大海は声をかけた。

「全員、バスから降りろ!」

ライフルを構えていた武装警官たちは、少し躊躇したが、康海隆のカウントダウンが進むのを耳にして、次々とバスから降りていった。

「これでいいだろう」

「お前もだ」

「なんだって?」

「お前もバスから降りろ!」

「無茶を言うな」

「早くしろ!こいつを殺してもいいのか?」

「わかった、わかった」

両手で落ち着くように康海隆に合図しながら言いつつ、しかしここで簡単に降車するわけにもいかないと易大海は思った。

「まず、私が武器を捨てる。だから、もう少し話をさせてくれ。いいな?」

康海隆は睨みつけるだけで何も言わない。その間に、易大海はホルダーに入れていた拳銃をゆっくり外すと、銃口を下に向けたまま、打つ意思がないことを示しながら、開いたままになっているバスの前方ドアから投げ捨てた。

「これでいいだろう?」

「そっちもだ!」

もう片方のホルダーにつけていた警棒を、康海隆は捨てるように指示した。こいつ、だいぶ冷静だなと易大海は思いつつ、警棒も投げ捨てた。

「何を話すんだ?」

「まぁそう急かすな。お前、タバコは吸うのか?」

易大海はズボンのポケットから中南海を取り出すと、康海隆に向けて聞いた。だが、何も答えない。

「吸わないのか?それとも、中南海が嫌いか?」

人質の男は、じっとこちらを見ているだけだ。

「じゃ、悪いが一本吸わせてくれ」

易大海は構わずライターで火をつけた。実は、これも想定内だ。こうなったときのために、交渉のための小道具として、ポケットに忍ばせていたのだ。まさか、本当にそれが必要になるとは。

「通常、バス車内は禁煙だからな。今日は特別だ」

易大海は、康海隆を興奮させず、人質を少しでもリラックスさせるための演技を始めた。

「君は山西省太原市の出身だろう?いいところだ」というと、ふぅと煙を吐いた。

「まだ子供ができる前にな、嫁さんと二人で旅行したことがあった。雲崗石窟は、それはそれはきれいだったよ。一体、誰があんなもの作ろうと思うんだろうな?おれは仏教はさっぱりだけど、それでもあの石窟はすごいなと思ったよ」

易大海はあえて目線をそらして話し続けた。

「山西省は飯もうまかったな。刀削麺も好きだけど、おれは猫耳のほうが好きだな。寒い日に、猫耳を入れた羊肉のスープなんか最高だな。何杯でも食べれそうだ」

猫耳とは、猫の耳に形が似た小麦粉をこねた食べ物のことで、実際の猫の耳ではない。

「おふくろさんは今でも太原にいるのか?」

家族、特に母親を引用しての説得は古今東西のセオリーだ。

「お前のこと、心配してるんじゃないのか」

「黙れ」

「なんだって?」

「黙れ!」と康海隆が叫んだ。

「くどくどつまらん話をしやがって」

「つまらなかったか。それは失礼したな」

「お前もバスを降りろ」

「それは構わんよ」

易大海はそう言ってから、交渉に入った。

「おれはいつでも降りてやる。ただし、おれが降りたところで、お前は逃げようがないだろう?どうするつもりだ?」

康海隆は黙したままだ。

「別に答えをせかしているわけじゃない。ゆっくり考えるがいい。だが」と康海隆を見つめてから、

「座らないか?」と勧めた。さっきからずっと立ったままだ。長期戦になることを考えて、人質の体力を少しでも温存させてあげる必要があった。

「いつまでも突っ立ったままじゃ、疲れるだろう?」

「黙れ」

「わかった。口数は減らすよ。でも、まず座ろうや。このお兄さんも疲れちまうぞ」

康海隆は少し考えるそぶりを見せたが、「その手には乗らない」と警戒した。

「その手って、どんな手だ?」

「お前の指示は聞かない」

「指示じゃない。親切心で言ってるんだ」

「黙れ!」

「わかった。わかったよ」

易大海は刺激しないようにした。

「早くバスから降りろ」

「それは問題ない。だが、さっき言ったように、おれが降りたところで、お前は逃げられないだろう?どうするつもりなんだ」

「お前には関係ない」

「それは間違いだ。さっきの武装警官たちを率いているのはおれだ。おれの指示で彼らは動く。無関係ではないぞ」

「運転手を呼べ」

「なぜだ?」

「逃げる」

「どこへだ?」

「運転手を呼べ!」と康海隆が叫んだ。

「まぁ落ち着け」と易大海がなだめた。

「この状況、わかるだろう?運転手が来て、再びバスが出発したとしても、尾行されるだけだ。こんなことしでかしておいて、バスを自由に動かせると思っているのか?」

「だったら、こいつを殺すだけだ」

「そのお兄さんもとんだ災難だよな。知り合いか?そんなはずないよな。知らない人間に凶器を突き付けられて、さぞかし恐い思いをしてるだろう」

易大海は、もう一回、説得しようと試みた。

「もういいじゃないか。そのお兄さんを離してやらないか?」

「運転手を呼べ」

「その人を離してからだ」

「おれに指図するな」

「指図じゃない。お願いだ」

「早くしろ!」と康海隆は叫ぶと、再び首に回していた腕をきつくしめなおした。人質の顔がゆがんだ。

「わかった、わかった」

犯人を刺激してはならない。ここはセオリーに従うべきだ。直感がそう告げていた。

「とりあえず、一旦降りる。そしてバスの運転手を連れてくる手配をする。だがな、すぐに連れてこれるとは限らない。だから、まず席について落ち着くんだ。それから、今、水を持ってこさせる。お兄さんにも水を飲ませてやるんだ。いいな?」

「何でもいいから早くしろ!」

易大海はバスを降りると、すぐに鮑文民の居場所を確認した。


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